先日、節分の歴史について書いたので、そろそろ唱歌『早春賦』についても書かなければと思い、忙しい中なのですが、パソコンに向かっています。
まずは歌の概要ですが、このあたりはどう書いても受け売りになります。如何にもわかっているかのように書くのは嫌なので、いっそのことウィキペディアの記載をそのままお借りしておきます。御世話になります。
(大正2年)、『尋常小学唱歌』の作詞委員会代表であった吉丸一昌が、自作の75編の詞に新進作曲家による曲をつけ、『新作唱歌』全10集として発表した中の一作で、第3集に収録されている。
長野県大町市、安曇野あたりの早春の情景をうたった歌とされ、長野県立大町中学校(長野県大町高等学校の前身)の校歌を作りに来た吉丸が、大町、安曇野の寒さ、そして春の暖かさを歌った歌詞でもある。 大町実科高等女学校(長野県大町北高等学校の前身)では愛唱歌として歌われていた。 大町文化会館、穂高川河川敷に歌碑が建てられている。 題名の「賦」とは漢詩を歌うこともしくは作ることを指し、「早春に賦す」が原義である。
歌詞は次の如くです。
1 春は名のみの風の寒さや 谷の鶯歌は思えど
時にあらずと声も立てず 時にあらずと声も立てず
2 氷解け去り葦は角ぐむ さては時ぞと思うあやにく
今日も昨日も雪の空 今日も昨日も雪の空
3 春と聞かねば知らでありしを 聞けば急かるる胸の思いを
いかにせよとのこの頃か いかにせよとの この頃か
1番では、まず「春は名のみ」というのですから、既に立春は過ぎています。しかし実際には春とは思えない程寒いというのです。確かに2月4日頃はまだまだ寒さが厳しく、そう思いたくなるのも無理はありません。しかし私にはこの表現が気になって仕方がありません。春とは暖かいものと決めてかかっています。ですから立春を過ぎてもまだ寒さが厳しいと、「旧暦は実際の季節にあっていない」とか、「中国の暦をそのまま日本に当てはめたのがおかしい」とか、全く的外れの批判をする人が絶えないのです。寒さが厳しいのになぜ春が立つというのかということについては、私のブログに「旧暦の基礎知識」という題でのせておきましたから、是非御覧下さい。簡単に言えば、太陽高度によって冬至と夏至が自動的・機械的に決められ、一年を二等分します。そしてそれらの中間地点が春分と秋分で、機械的に一年を四等分します。そしてその四等分された期間の中間地点が、立春・立夏・立秋・立冬とされます。つまり太陽高度によって一年を八等分しただけのことであって、暖かくなるので立春と決められたわけではありません。そもそももし気温で四季が決まるなら、同じ長さである必然性などありません。場所によって異なるはずです。それが同じ長さというのは、機械的に区分したからに他なりません。
古歌には「春は名のみ」とか「名のみの春」という表現は見当たりません。膨大な数の古歌を全て探せばどこかにあるかもしれませんが、少なくとも慣用的な表現ではないことは確かですし、私自身見たことがありません。古人はたとえ寒さが厳しくとも、暦の上で春になると、そのことを心底から喜びました。そもそも寒さが厳しいということを歌に詠むこと自体があまりありません。春になっても鶯の声を聞かなければ春とは思えないという歌はありますが、暖かくならなければ春とは思えないという感じ方はしません。「名のみの春」という感じ方は、春は暖かいものと決めてしまった現代的感覚なのです。
「谷の鶯」は、古典和歌に基づく表現で、「谷の鶯」は慣用的にしばしば詠まれています。鶯は冬の間は「谷の古巣」に籠もり、春になるのを待っていると共通理解されていたのです。
○「鶯の谷よりいづるこゑなくは春くることをたれか知らまし」(古今集 春 14)
作詞者は、あまりに寒くて、鶯さえ鳴いてくれないと嘆いているのです。鶯は「春告げ鳥」とも言われるように、春の到来を真っ先に告げる鳥として理解されていました。
○「降り積もる雪消えがたき山里に春を知らする鶯の声」(後拾遺 春 21)
その春告げ鳥さえも鳴かないのですから、春とは実感できないのでしょう。
もう一つ私が関心をもったのは、「歌は思えど」という言葉です。現代人には何でもないことなのでしょうが、古歌では小鳥の鳴くことを「歌っている」と聞くことは極めて珍しいことなのです。その代わりに、鳴き声を話し言葉に置き換えて理解する「聞き成し」ということが一般的でした。
2番はまず、春になって氷が解けてなくなったことを歌っています。これも古典和歌に基づく表現です。古代中国の『礼記』という書物の「月令」(がつりょう)に、「孟春ノ月、東風凍(氷)ヲ解ク」と記されていますが、このような理解の影響を受け、立春に氷が解けるという共通理解がありました。
○「袖ひちてむすびし水の凍れるを春立つけふの風やとくらむ」(古今集 春 2)
氷は冬の象徴です。それが立春の日の春風によって解けるというのです。実際にそのようになるとは限らないのですが、観念的にそう理解していたわけです。
「葦は角ぐむ」とは、葦の芽が伸び始めていることをいいます。
○「難波潟浦吹く風に波立てば角ぐむ蘆の見えみ見えずみ」(後拾遺 春 44)
干潟に葦の芽が伸び始め、波が立つと見えたり見えなかったりする、という意味です。よく観察すると、確かに角が伸びてくるように見えます。
氷が解け、葦が芽吹き、いよいよ春らしくなったと思いたいのですが、連日雪が降っているというわけです。関東平野では、雪は冬よりも春先に降ることが多く、「春の淡雪」は珍しくないのですが、連日降るとなると、関東平野ではありません。この詩に歌われたのは長野県安曇野地方と言われていますから、そのような天気が続くのでしょう。もっとも実際に安曇野地方であるとする根拠は何もなく、マスコミや書物に記されたあやふやな記事が独り歩きして、既成事実化してしまっているとの研究があるそうです。歌の発祥地というものには、えてしてこのような事実誤認が多いもので、書物に書いてあったといっても、すぐには信用できません。
3番は、春を待つ作詞者の心が歌われています。春が立ったと聞かなかったならば 、「春だ」とは思わなかったでしょうに、聞いてしまったら、もう待ち遠しくてたまらない。春らしからぬこの寒さは、春を待ち焦がれるこの思いを、いったいどうせよというのでしょうか、という意味でしょう。急かれる程の胸の思いがどのようなことなのか、作詞者は語ってくれません。おそらく彼には彼なりの胸の思いがあったのでしょう。そして歌う人それぞれに急かれるおもいがあってよいのではないでしょうか。歌というものは、一旦公表されて国民共通の財産となってからは、作詞者の意図を越えて独り歩きするものです。それぞれが個人の思い入れを重ねながら、歌えばよいのでしょう。
古歌から垣間見る古人の春は、同じように急かれる思いだったと思います。春には野辺の野焼きが行われ、枯草が燃えるように心が燃え始めます。そして煙でも立てば、心が焦げるくらいに恋いこがれることを連想し、若草が萌え始めると、また心が燃えることを思う、と言う具合で、古人にとっては春は「もえる」季節でもありました。それは恋の始まる季節でもありました。古人が春を心待ちにしたことの背景には、そのような季節理解があったのです。
春を待つ心は誰も同じとは思いますが、この歌が作られた大正の頃には、さすがにそのような古来の理解は薄らいだでしょうが、一般の家庭には十分な暖房器具などはなかったはずです。せいぜい火燵や囲炉裏くらいのもの。家の造りも断熱性はなく、現在よりも寒さは厳しかったはずです。ですから春を待ち焦がれる心は、現代の人よりもっともっと大きかったことと思います。現代ならばいくら寒いといっても、家の中に入ればストーブがあり、少なくとも限られた空間では寒さから逃れられたでしょうから。
もっとも私はこの冬、まだ暖房が一切ない部屋で執筆しています。今年は暖冬で、朝起きると室温は6~8度もあるので、あまり必要を感じません。それでも人並みに寒いので、越冬隊のような恰好をして、今もこれを書いています。そんな生活をしているからか、春が本当に待ち遠しく思えるこの頃です。
追記
「通りすがり様」、威勢の良い下記のようなコメントありがとうございます。
「これは中国(華北の内陸部)と日本列島との間の季節の進み方と太陽高度のズレ(seasonal gap)の大小の問題です。海洋は温まりにくく冷めにくいため、島国の日本は大陸の中国より、季節の歩みが半月程度遅れるのです。華北の内陸部においては、本当に立春頃に気温が上がり始める。太陰太陽暦は太陽暦からみて1ヶ月の幅をもって移動しますので、旧1月のうちにはどんな鈍感な人でも体感できるレベルで確実に春めいてくる。だから正月は新春とされた。
ところが日本列島では立春頃が寒さの底で、しかもそこからしばらく気温がなかなか上がりません。当時の日本人は独自の暦法を持ちませんでしたから、やむを得ず中国暦と中国の歳時記をパッケージで受け入れた上で、脳内で強引に読み替えた。」
毎回楽しみに拝見していますが、今回ばかりは頂きかねます。旧暦は実際の季節に合っていないという主張の典型的な理由ですね。春は暖かいものと決めてかかっています。しかし古代中国の季節の決め方は、気温を基準としたものではなく、太陽高度によって決めたものです。詳しくは「うたことば歳時記 旧暦の基礎知識」を御覧下さい。もっともそれを読んでいただいてもこれ程強烈な反対説ですから、納得していただけないかもしれませんね。まあお互いに言いたいことを言い合って、議論を戦わせましょう。決して腹を立てているわけではありませんが、もし気を悪くされたとしたら、本当に御免なさい。
まずは歌の概要ですが、このあたりはどう書いても受け売りになります。如何にもわかっているかのように書くのは嫌なので、いっそのことウィキペディアの記載をそのままお借りしておきます。御世話になります。
(大正2年)、『尋常小学唱歌』の作詞委員会代表であった吉丸一昌が、自作の75編の詞に新進作曲家による曲をつけ、『新作唱歌』全10集として発表した中の一作で、第3集に収録されている。
長野県大町市、安曇野あたりの早春の情景をうたった歌とされ、長野県立大町中学校(長野県大町高等学校の前身)の校歌を作りに来た吉丸が、大町、安曇野の寒さ、そして春の暖かさを歌った歌詞でもある。 大町実科高等女学校(長野県大町北高等学校の前身)では愛唱歌として歌われていた。 大町文化会館、穂高川河川敷に歌碑が建てられている。 題名の「賦」とは漢詩を歌うこともしくは作ることを指し、「早春に賦す」が原義である。
歌詞は次の如くです。
1 春は名のみの風の寒さや 谷の鶯歌は思えど
時にあらずと声も立てず 時にあらずと声も立てず
2 氷解け去り葦は角ぐむ さては時ぞと思うあやにく
今日も昨日も雪の空 今日も昨日も雪の空
3 春と聞かねば知らでありしを 聞けば急かるる胸の思いを
いかにせよとのこの頃か いかにせよとの この頃か
1番では、まず「春は名のみ」というのですから、既に立春は過ぎています。しかし実際には春とは思えない程寒いというのです。確かに2月4日頃はまだまだ寒さが厳しく、そう思いたくなるのも無理はありません。しかし私にはこの表現が気になって仕方がありません。春とは暖かいものと決めてかかっています。ですから立春を過ぎてもまだ寒さが厳しいと、「旧暦は実際の季節にあっていない」とか、「中国の暦をそのまま日本に当てはめたのがおかしい」とか、全く的外れの批判をする人が絶えないのです。寒さが厳しいのになぜ春が立つというのかということについては、私のブログに「旧暦の基礎知識」という題でのせておきましたから、是非御覧下さい。簡単に言えば、太陽高度によって冬至と夏至が自動的・機械的に決められ、一年を二等分します。そしてそれらの中間地点が春分と秋分で、機械的に一年を四等分します。そしてその四等分された期間の中間地点が、立春・立夏・立秋・立冬とされます。つまり太陽高度によって一年を八等分しただけのことであって、暖かくなるので立春と決められたわけではありません。そもそももし気温で四季が決まるなら、同じ長さである必然性などありません。場所によって異なるはずです。それが同じ長さというのは、機械的に区分したからに他なりません。
古歌には「春は名のみ」とか「名のみの春」という表現は見当たりません。膨大な数の古歌を全て探せばどこかにあるかもしれませんが、少なくとも慣用的な表現ではないことは確かですし、私自身見たことがありません。古人はたとえ寒さが厳しくとも、暦の上で春になると、そのことを心底から喜びました。そもそも寒さが厳しいということを歌に詠むこと自体があまりありません。春になっても鶯の声を聞かなければ春とは思えないという歌はありますが、暖かくならなければ春とは思えないという感じ方はしません。「名のみの春」という感じ方は、春は暖かいものと決めてしまった現代的感覚なのです。
「谷の鶯」は、古典和歌に基づく表現で、「谷の鶯」は慣用的にしばしば詠まれています。鶯は冬の間は「谷の古巣」に籠もり、春になるのを待っていると共通理解されていたのです。
○「鶯の谷よりいづるこゑなくは春くることをたれか知らまし」(古今集 春 14)
作詞者は、あまりに寒くて、鶯さえ鳴いてくれないと嘆いているのです。鶯は「春告げ鳥」とも言われるように、春の到来を真っ先に告げる鳥として理解されていました。
○「降り積もる雪消えがたき山里に春を知らする鶯の声」(後拾遺 春 21)
その春告げ鳥さえも鳴かないのですから、春とは実感できないのでしょう。
もう一つ私が関心をもったのは、「歌は思えど」という言葉です。現代人には何でもないことなのでしょうが、古歌では小鳥の鳴くことを「歌っている」と聞くことは極めて珍しいことなのです。その代わりに、鳴き声を話し言葉に置き換えて理解する「聞き成し」ということが一般的でした。
2番はまず、春になって氷が解けてなくなったことを歌っています。これも古典和歌に基づく表現です。古代中国の『礼記』という書物の「月令」(がつりょう)に、「孟春ノ月、東風凍(氷)ヲ解ク」と記されていますが、このような理解の影響を受け、立春に氷が解けるという共通理解がありました。
○「袖ひちてむすびし水の凍れるを春立つけふの風やとくらむ」(古今集 春 2)
氷は冬の象徴です。それが立春の日の春風によって解けるというのです。実際にそのようになるとは限らないのですが、観念的にそう理解していたわけです。
「葦は角ぐむ」とは、葦の芽が伸び始めていることをいいます。
○「難波潟浦吹く風に波立てば角ぐむ蘆の見えみ見えずみ」(後拾遺 春 44)
干潟に葦の芽が伸び始め、波が立つと見えたり見えなかったりする、という意味です。よく観察すると、確かに角が伸びてくるように見えます。
氷が解け、葦が芽吹き、いよいよ春らしくなったと思いたいのですが、連日雪が降っているというわけです。関東平野では、雪は冬よりも春先に降ることが多く、「春の淡雪」は珍しくないのですが、連日降るとなると、関東平野ではありません。この詩に歌われたのは長野県安曇野地方と言われていますから、そのような天気が続くのでしょう。もっとも実際に安曇野地方であるとする根拠は何もなく、マスコミや書物に記されたあやふやな記事が独り歩きして、既成事実化してしまっているとの研究があるそうです。歌の発祥地というものには、えてしてこのような事実誤認が多いもので、書物に書いてあったといっても、すぐには信用できません。
3番は、春を待つ作詞者の心が歌われています。春が立ったと聞かなかったならば 、「春だ」とは思わなかったでしょうに、聞いてしまったら、もう待ち遠しくてたまらない。春らしからぬこの寒さは、春を待ち焦がれるこの思いを、いったいどうせよというのでしょうか、という意味でしょう。急かれる程の胸の思いがどのようなことなのか、作詞者は語ってくれません。おそらく彼には彼なりの胸の思いがあったのでしょう。そして歌う人それぞれに急かれるおもいがあってよいのではないでしょうか。歌というものは、一旦公表されて国民共通の財産となってからは、作詞者の意図を越えて独り歩きするものです。それぞれが個人の思い入れを重ねながら、歌えばよいのでしょう。
古歌から垣間見る古人の春は、同じように急かれる思いだったと思います。春には野辺の野焼きが行われ、枯草が燃えるように心が燃え始めます。そして煙でも立てば、心が焦げるくらいに恋いこがれることを連想し、若草が萌え始めると、また心が燃えることを思う、と言う具合で、古人にとっては春は「もえる」季節でもありました。それは恋の始まる季節でもありました。古人が春を心待ちにしたことの背景には、そのような季節理解があったのです。
春を待つ心は誰も同じとは思いますが、この歌が作られた大正の頃には、さすがにそのような古来の理解は薄らいだでしょうが、一般の家庭には十分な暖房器具などはなかったはずです。せいぜい火燵や囲炉裏くらいのもの。家の造りも断熱性はなく、現在よりも寒さは厳しかったはずです。ですから春を待ち焦がれる心は、現代の人よりもっともっと大きかったことと思います。現代ならばいくら寒いといっても、家の中に入ればストーブがあり、少なくとも限られた空間では寒さから逃れられたでしょうから。
もっとも私はこの冬、まだ暖房が一切ない部屋で執筆しています。今年は暖冬で、朝起きると室温は6~8度もあるので、あまり必要を感じません。それでも人並みに寒いので、越冬隊のような恰好をして、今もこれを書いています。そんな生活をしているからか、春が本当に待ち遠しく思えるこの頃です。
追記
「通りすがり様」、威勢の良い下記のようなコメントありがとうございます。
「これは中国(華北の内陸部)と日本列島との間の季節の進み方と太陽高度のズレ(seasonal gap)の大小の問題です。海洋は温まりにくく冷めにくいため、島国の日本は大陸の中国より、季節の歩みが半月程度遅れるのです。華北の内陸部においては、本当に立春頃に気温が上がり始める。太陰太陽暦は太陽暦からみて1ヶ月の幅をもって移動しますので、旧1月のうちにはどんな鈍感な人でも体感できるレベルで確実に春めいてくる。だから正月は新春とされた。
ところが日本列島では立春頃が寒さの底で、しかもそこからしばらく気温がなかなか上がりません。当時の日本人は独自の暦法を持ちませんでしたから、やむを得ず中国暦と中国の歳時記をパッケージで受け入れた上で、脳内で強引に読み替えた。」
毎回楽しみに拝見していますが、今回ばかりは頂きかねます。旧暦は実際の季節に合っていないという主張の典型的な理由ですね。春は暖かいものと決めてかかっています。しかし古代中国の季節の決め方は、気温を基準としたものではなく、太陽高度によって決めたものです。詳しくは「うたことば歳時記 旧暦の基礎知識」を御覧下さい。もっともそれを読んでいただいてもこれ程強烈な反対説ですから、納得していただけないかもしれませんね。まあお互いに言いたいことを言い合って、議論を戦わせましょう。決して腹を立てているわけではありませんが、もし気を悪くされたとしたら、本当に御免なさい。
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