シオンはキク科の多年草で、漢字では「紫苑」と書きますから見慣れませんが、仮名で書けば思い当たることでしょう。高さは1.5~2メートル。秋の彼岸の頃、いわゆる野菊であるヨメナやノコンギクに似た淡紫色の花が咲きます。『徒然草』139段には、「秋の草は荻・すすき・きちかう・萩・女郎花(をみなへし)・ふじばかま・しをに(シオンの古名)・われもかう・かるかや・りんだう・菊。黄菊も。つた・くず・朝顔、いづれもいと高からず、さゝやかなる墻に、繁からぬ、よし。」と記され、多くの秋の草花と共に、庭に植えたい風情のあるものに数えられています。ただし当時は「しをに」と表記されていました。『古事記』『日本書紀』『万葉集』には記載がなく、平安時代の和歌にわずかに見られるだけで、それも「しをに」という音を花の名前とは関係なしに詠み込んだ遊技的な歌に詠まれています。そのような歌を「物名歌」(ぶつめいか)というのですが、遊技的技巧を競うばかりで、歌としてはあまり感心できません。まあ言葉遊びと割り切って鑑賞すればよいのでしょう。
①振りはへていざ古里の花見むと来しをにほひぞうつろひにける (古今集 物名 441)
わざわざ古里の花を見に来たのに、花は散ってしまった、という意味で、「しをに」という音が詠み込まれています。①以後に紫苑を詠んだ歌がないわけではないのですが、みな①の影響を受けた物名歌ばかりで、歌として注目すべきものはありません。しかし平安時代末期の『今昔物語集』には、紫苑に関連して大変興味深い話が伝えられているので、現代語に抄訳してみましょう。
『今昔物語集』巻第三十一 第二十七 「兄弟二人、萱草(わすれぐさ)、紫苑を植ゑし語」
今は昔、あるところに二人の男の子がいた。父が死んでしまったので嘆き悲しみ、どれだけ年月を重ねても忘れる事が出来なかった。二人は父を葬り、共に墓に参って生きた親に向かって話すように語って帰って行くのであった。やがて年月を経て二人は朝廷に仕え、私事を顧みる事も出来ないほど忙しい身となってしまったので、兄は見る人の思いを忘れさせてしまうと言う「萱草」(かんぞう)を墓の辺に植えた。弟はしばしば兄を墓参りに誘うが、兄は共に墓参りする事はなくなってしまった。弟はそのような兄の態度を嘆かわしく思い、「兄は既に忘れてしまったと言うが、私は決して忘れまい」と念じ、見た人の心にあるものを決して忘れさせないとという「紫苑」を墓の側に植えた。そしていつも紫苑の花を見ていたので、いよいよ忘れる事はなかった。ある日、弟が墓参りをすると、突然、墓の中から声が聞こえた。「私はお前の父親の屍を守る鬼である。何も恐れることはない。父親と同様、私がお前を守ってやろう。お前が父親を慕う気持ちは、全く変わらなかった。しかしお前の兄は忘れ草の萱草を植えて、父親の事を忘れてしまった。お前の父親を慕うその心を褒めて、その日に起こる善悪の事を予知して夢で知らせてやろう」と。弟は感激してこれを喜び、それからというもの、弟は毎日その日に身の上に起こる全ての事をはっきりと予知する事が出来た。これは親を慕う心が深かったからである。そういうわけで、嬉しいことのある人は忘れな草の紫苑を植え、また憂いのある人は忘れ草の萱草を植えて、いつも見るべきであると語り伝えられている。
「萱草」を詠んだ歌は『万葉集』や王朝和歌に数首あって、憂いを忘れさせる花として理解されています。要するに萱草と紫苑は、正反対の効能をもつ花と理解されているわけなのです。私はこの話を知って以来、我が家の墓の側らに、紫苑を植えています。それは予知能力がほしいわけではありませんが、祖先に感謝する心を表したいからなのです。ただシオンは背丈が高いので、シオン属(シオンの仲間)の背丈の低い品種を選んで植えています。
突然私事で恐縮ですが、私は荘内は鶴岡の生まれです。荘内地方ではこのシオンを「彼岸花」と称して、秋彼岸には必ず墓に供える習慣があります。一般的に「彼岸花」といえば、赤い曼珠沙華の花ということになっているのに、荘内ではこのシオンを指すのです。これは実に面白い話で、『今昔物語集』そのままではありませんか。この逸話を鶴岡市長をしている叔父に伝えたところ大層喜んで、市報に小論を載せたそうです。こういう習俗がどの範囲で行われ、いつ頃まで遡ることができるのか。私は検証したことはありませんが、『今昔物語集』の話と荘内地方の習俗が、とうてい無関係とは思えない程時間空間を越えて符合しています。シオンの花言葉は「追憶」「君を忘れない」「遠方にある人を思う」ということだそうですが、そもそも花言葉というものは誰がどのようにして決めたものなのか知りません。しかし『今昔物語集』の逸話に拠ったものなのでしょう。
①振りはへていざ古里の花見むと来しをにほひぞうつろひにける (古今集 物名 441)
わざわざ古里の花を見に来たのに、花は散ってしまった、という意味で、「しをに」という音が詠み込まれています。①以後に紫苑を詠んだ歌がないわけではないのですが、みな①の影響を受けた物名歌ばかりで、歌として注目すべきものはありません。しかし平安時代末期の『今昔物語集』には、紫苑に関連して大変興味深い話が伝えられているので、現代語に抄訳してみましょう。
『今昔物語集』巻第三十一 第二十七 「兄弟二人、萱草(わすれぐさ)、紫苑を植ゑし語」
今は昔、あるところに二人の男の子がいた。父が死んでしまったので嘆き悲しみ、どれだけ年月を重ねても忘れる事が出来なかった。二人は父を葬り、共に墓に参って生きた親に向かって話すように語って帰って行くのであった。やがて年月を経て二人は朝廷に仕え、私事を顧みる事も出来ないほど忙しい身となってしまったので、兄は見る人の思いを忘れさせてしまうと言う「萱草」(かんぞう)を墓の辺に植えた。弟はしばしば兄を墓参りに誘うが、兄は共に墓参りする事はなくなってしまった。弟はそのような兄の態度を嘆かわしく思い、「兄は既に忘れてしまったと言うが、私は決して忘れまい」と念じ、見た人の心にあるものを決して忘れさせないとという「紫苑」を墓の側に植えた。そしていつも紫苑の花を見ていたので、いよいよ忘れる事はなかった。ある日、弟が墓参りをすると、突然、墓の中から声が聞こえた。「私はお前の父親の屍を守る鬼である。何も恐れることはない。父親と同様、私がお前を守ってやろう。お前が父親を慕う気持ちは、全く変わらなかった。しかしお前の兄は忘れ草の萱草を植えて、父親の事を忘れてしまった。お前の父親を慕うその心を褒めて、その日に起こる善悪の事を予知して夢で知らせてやろう」と。弟は感激してこれを喜び、それからというもの、弟は毎日その日に身の上に起こる全ての事をはっきりと予知する事が出来た。これは親を慕う心が深かったからである。そういうわけで、嬉しいことのある人は忘れな草の紫苑を植え、また憂いのある人は忘れ草の萱草を植えて、いつも見るべきであると語り伝えられている。
「萱草」を詠んだ歌は『万葉集』や王朝和歌に数首あって、憂いを忘れさせる花として理解されています。要するに萱草と紫苑は、正反対の効能をもつ花と理解されているわけなのです。私はこの話を知って以来、我が家の墓の側らに、紫苑を植えています。それは予知能力がほしいわけではありませんが、祖先に感謝する心を表したいからなのです。ただシオンは背丈が高いので、シオン属(シオンの仲間)の背丈の低い品種を選んで植えています。
突然私事で恐縮ですが、私は荘内は鶴岡の生まれです。荘内地方ではこのシオンを「彼岸花」と称して、秋彼岸には必ず墓に供える習慣があります。一般的に「彼岸花」といえば、赤い曼珠沙華の花ということになっているのに、荘内ではこのシオンを指すのです。これは実に面白い話で、『今昔物語集』そのままではありませんか。この逸話を鶴岡市長をしている叔父に伝えたところ大層喜んで、市報に小論を載せたそうです。こういう習俗がどの範囲で行われ、いつ頃まで遡ることができるのか。私は検証したことはありませんが、『今昔物語集』の話と荘内地方の習俗が、とうてい無関係とは思えない程時間空間を越えて符合しています。シオンの花言葉は「追憶」「君を忘れない」「遠方にある人を思う」ということだそうですが、そもそも花言葉というものは誰がどのようにして決めたものなのか知りません。しかし『今昔物語集』の逸話に拠ったものなのでしょう。
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