「霞か雲か」という題を付けましたが、若い方は、これでどのような内容の話になるのかピンと来ないかもしれませんね。唱歌『さくら』に「さくら さくら 弥生の空は 見わたす限り 霞か雲か・・・・」とあるように、また唱歌『霞か雲か』に「かすみか雲か ほのぼのと 野山をそめる その花ざかり 桜よ桜 春の花」とあるように、霞や雲は遠くに見える桜の喩えのことです。
遠山桜を霞や雲に見立てた歌は、早くも『万葉集』に見られます。
①見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも (万葉集 1872)
「春日野」は春霞の立つことを確認される定番の歌枕だったという背景もあるのでしょうが、桜を霞に見立てています。しかし『万葉集』に詠まれた多くの桜の歌の中では、これ一首ですから、まだ常套的な表現にまではなっていないようです。
しかし『古今集』になると、霞や雲だけでなく、雪にも見紛うと詠んだ歌がたくさん見られます。
②桜花咲きにけらしもあしひきの山の峡(かひ)より見ゆる白雲 (古今集 春 59)
③み吉野の山辺に咲けるさくら花雪かとのみぞあやまたれける (古今集 春 60)
④立ち渡る霞のみかは山高み見ゆる桜の色も一つを (後撰集 春 63)
またまたいくらでもあるのですが、霞・雲・雪をとりあえず一首ずつ上げておきました。吉野山の桜を眺めると、雲に見立てるのは、吉野山の桜を知っている人ならわからなくもないでしょう。しかし霞に見立てるのは実景としては無理があります。そもそも霞とはとらえようもなく朧気なもので、遠景が何となくぼやけていることですから、それを桜に見紛うというのは、あくまでも観念的な理解に過ぎません。雪に見立てることについては、雪の如くに花びらが散ることに誘われた理解と説明することもできるでしょう。また吉野山はどこよりも早く雪が降り、どこよりも遅くまで雪が残る所として、雪の歌枕になっていた山ですから、そういう意味からも吉野と聞けば雪を連想するという背景もあったでしょう。
個性を尊重する現代人の美意識では理解できないのでしょうが、桜は霞や雲や雪に見立てて理解するという、暗黙の了解があったのです。もちろん古人も、「霞(雲・雪)だと見えたけれど、よくよく見たら桜だった」などと本当に錯覚したわけではありません。もし本当にそう思ったというならば、余程の近眼です。桜の咲く時期に雪が積もっていることなどないことくらい、先刻百も承知なのです。しかし暗黙の約束事に従ってそう詠むことになっていたのです。
ただここで一つ確認しておきたいのは、桜はまずは遠くから眺めるものであり、そしてこちらから木の下まで出かけていって、また近くでも楽しむ花であったということなのです。梅は庭に植えて観賞します。ですから「軒端の梅」と呼ばれます。しかし桜は庭に植える木ではなく、野生の桜を眺めに出かけるものでした。ですから「軒端の桜」はないかわりに、「遠山桜」と言われます。そして「遠山梅」はあり得ないのです。
遠山桜を霞や雲に見立てた歌は、早くも『万葉集』に見られます。
①見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも (万葉集 1872)
「春日野」は春霞の立つことを確認される定番の歌枕だったという背景もあるのでしょうが、桜を霞に見立てています。しかし『万葉集』に詠まれた多くの桜の歌の中では、これ一首ですから、まだ常套的な表現にまではなっていないようです。
しかし『古今集』になると、霞や雲だけでなく、雪にも見紛うと詠んだ歌がたくさん見られます。
②桜花咲きにけらしもあしひきの山の峡(かひ)より見ゆる白雲 (古今集 春 59)
③み吉野の山辺に咲けるさくら花雪かとのみぞあやまたれける (古今集 春 60)
④立ち渡る霞のみかは山高み見ゆる桜の色も一つを (後撰集 春 63)
またまたいくらでもあるのですが、霞・雲・雪をとりあえず一首ずつ上げておきました。吉野山の桜を眺めると、雲に見立てるのは、吉野山の桜を知っている人ならわからなくもないでしょう。しかし霞に見立てるのは実景としては無理があります。そもそも霞とはとらえようもなく朧気なもので、遠景が何となくぼやけていることですから、それを桜に見紛うというのは、あくまでも観念的な理解に過ぎません。雪に見立てることについては、雪の如くに花びらが散ることに誘われた理解と説明することもできるでしょう。また吉野山はどこよりも早く雪が降り、どこよりも遅くまで雪が残る所として、雪の歌枕になっていた山ですから、そういう意味からも吉野と聞けば雪を連想するという背景もあったでしょう。
個性を尊重する現代人の美意識では理解できないのでしょうが、桜は霞や雲や雪に見立てて理解するという、暗黙の了解があったのです。もちろん古人も、「霞(雲・雪)だと見えたけれど、よくよく見たら桜だった」などと本当に錯覚したわけではありません。もし本当にそう思ったというならば、余程の近眼です。桜の咲く時期に雪が積もっていることなどないことくらい、先刻百も承知なのです。しかし暗黙の約束事に従ってそう詠むことになっていたのです。
ただここで一つ確認しておきたいのは、桜はまずは遠くから眺めるものであり、そしてこちらから木の下まで出かけていって、また近くでも楽しむ花であったということなのです。梅は庭に植えて観賞します。ですから「軒端の梅」と呼ばれます。しかし桜は庭に植える木ではなく、野生の桜を眺めに出かけるものでした。ですから「軒端の桜」はないかわりに、「遠山桜」と言われます。そして「遠山梅」はあり得ないのです。
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