折たく柴の記
原文
我八歳の秋、戸部(こほう・とべ)の上総国にゆき給ひし後(あと)にて、手習ふ事を教へしめらる。其冬の十二月半ば、戸部帰り参り給ひしかば、常に傍(かたわら)にさぶらふ事もとの如し。明けの年の秋、また国にゆき給ひし後にて、課を立てられて、「日のうちには行草の字三千、夜に入りて一千字を限りて書き出すべし」と命ぜられたり。冬に至りぬれば、日短くなりて、課いまだ満たざるに、日暮んとする事たびた〳〵にて、西向なる竹縁のある上に机をもち出(い)でゝ、書終りぬる事もありき。
また夜に入りて手習ふに、睡(ねぶり)の催して堪(たえ)がたきに、我に付けられし者と密(ひそか)にはかりて、水二桶づゝ、かの竹縁に汲置かせて、いたく睡(ねむり)の催しぬれば、衣ぬぎすてゝ、まづ一桶の水をかゝりて、衣うち着て習ふに、初(はじめ)ひやゝかなるに目さむる心地すれど、しばし程経(へ)ぬれば、身あたゝかになりて、また〳〵眠くなりぬれば、又水をかゝる事、さきの事の如くす。二たび水をかゝりぬるほどには、大やうは課をも満(み)てたりき。これ、我九歳の秋冬の間の事也。
かゝりしほどに、此比(このころ)よりは、我父の、人に贈り給ふ文(ふみ)をば、かたの如くには書きたり。十歳(写本によっては十一歳)の秋、また課を立られて、庭訓往来を習はしめられ、十一月に至て、「十日がうちに浄写(じようしや)してまゐらすべし」と命ぜられ、命ぜられし如くに事を終へしかば、冊になして戸部に見せまゐらす。褒(ほ)め給ふ事大かたならず。十三の時よりは、戸部の人と贈答し給ふ程の文ども、大かたは我に命ぜられき。
現代語訳
私が八歳の秋のこと、殿(上総国久留里(くるり)藩主土屋利直(としなお)、「戸部(こほう)」は官職である民部少輔の唐名)が領地の上総国に行かれた後、(殿は父に命じて私に)手習いを教えるようにさせられた。その年の冬の十二月半ば、殿がお戻りになられたので、また以前のようにお側にお仕えした。翌年の秋、また上総国に行かれた後、(殿は)私に日課をお立てになり、「日中には行書と草書を三千字、夜には一千字をきっちりと書いて出すように」とお命じになられた。冬になると日が短くなり、日課がまだ終わらないうちに日が暮れようとする事がたびたびあったので、(少しでも明るい)西向きの竹の縁のある所に机を持ち出して、ようやく書き終えたこともあった。
また夜になって手習いをしていると、眠気をこらえきれないので、私につけられた係の者とこっそり相談し、水を二桶ずつ、その竹の縁に汲んで置かせ、大層眠気を催す時には、着物を脱ぎ捨ててまず一桶の水をかぶり、また着物を着て手習をする。初めは冷たくて目が覚めるような気持ちがするが、しばらくすると身体が温かくなり、またまた眠くなったので、さき程と同じように水をかぶる。そして二度目の水をかぶる頃には、日課も大体は終わった。これは私が九歳の秋から冬の事である。
そのようなことで、この頃から父上が人様に出される手紙を、一とおり書いたものである。十歳(十一歳)の秋には殿がまた課題をお立てになり、庭訓往来を習わせられ、十一月になると、「十日間で清書して提出するように」とお命じになられた。そして命じられた通りにやり終え、冊子に綴じて殿にお見せしたところ、お褒めになられること大層なものであった。それで十三歳になってからは、殿が人とやりとりされる手紙は、たいてい私に書くように命じられた。
解説
『折たく柴の記(おりたくしばのき)』は、儒学者であり、第六・七代将軍徳川家宣(いえのぶ)・家継に仕えた新井白石(1657~1725)が著した自叙伝です。自叙伝とはいえ、将軍の側近として、政権の中枢にいた人ですから、勘定吟味役の設置、荻原重秀の罷免、元禄小判から正徳小判への貨幣改鋳、長崎貿易制限法である海舶互市新例などに関する当事者の記録として、政治的にも極めて重要な内容が含まれています。
享保元年(1716)、白石は第八代将軍の徳川吉宗により罷免されますが、その半年後から『折たく柴の記』の執筆を始めました。あくまでも身内のための家訓として書いたものですから、儒学者の著述とは思えない程わかりやすい文で書かれています。巻末には、「百年にして公議定まらむ日、天下の人の議しなむところこそ恥かしき事なれ」と書いて筆を置いていますから、子孫のために書き残すとはいえ、いずれは公表されるであろう事、また今は評価されなくても、いずれその業績が評価されることへの期待がありました。
書名は『新古今和歌集』の後鳥羽上皇御製「思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に」から採られています。これは「夕方に亡き人を思い出すと、手折って焚く柴の煙にむせて涙が出るのも、亡き人の忘れ形見だと思えて嬉しいものである」という意味です。子孫が読むであろうことを、想定していたのでしょう。
白石の父正済(まさなり)は、上総国久留里(くるり)藩主土屋利直(としなお)に仕えていました。しかし利直を継いだ直樹(なおき)は父利直と折り合いが悪く、利直に重用された正済は禄を奪われ、利直の右筆(ゆうひつ)(書記)まで勤めた白石も出仕を止められ、白石は二一歳で浪人となりました。その後一時大老の堀田正俊(まさとし)に仕えますが、翌年に正俊が若年寄の稲葉正休(まさやす)に江戸城内で刺殺され、その三年後にまたもや浪人となっています。白石の聡明さを惜しんだ知人が、豪商の養子となる話を持ちかけます。しかし三千両(約三億円)の大金と宅地を用意して迎えたいという条件でも断ってしまいます。その後朱子学者の木下順庵(じゆんあん)に学び、その推挙で甲府藩主徳川綱豊(つなとよ)(後に家宣)の侍講となりました。しかし将軍徳川綱吉には跡継ぎがいなかったため、弟の綱豊が将軍世子(せいし)(将軍後継者)となり、綱吉の死後に第六代将軍家宣となります。それに伴い白石は自然に幕政を担う立場に置かれ、第六代将軍徳川家宣・七代将軍家継の治世の八年間に渡って、金の品位を高めた正徳小判発行、朝鮮通信使の待遇簡素化、金銀の海外流出を防ぐための海舶互市新例など、「正徳の治」と呼ばれる一連の政治改革を主導することになりました。他には皇統維持のため、閑(かん)院宮(いんのみや)家を創設しましたが、現在の皇統はその子孫ですから、このことが現在にもなお影響を及ぼしているという意味では、白石最大の功績かもしれません。
政治家白石の道は徳川吉宗により断たれましたが、白石の本領はあくまでも学者であり、実に幅広く業績を残しています。諸大名の家系図を整理した『藩翰譜(はんかんぷ)』、歴史叙述に始めて時代区分という概念を採り入れた史論書『読史余論(とくしよろん)』、神話の時代を合理的に解釈した『古史通(こしつう)』、イタリア人宣教師シドティの尋問記録をもとにキリスト教などについて叙述した『西洋紀聞(せいようきぶん)』、同じく世界地理についての『采覧異言(さいらんいげん)』、語源辞典『東雅(とうが)』、卑弥呼は神功皇后であり、邪馬台国は大和にあったことなどを説いた『古史通或問(わくもん)』、そしてこの『折たく柴の記』などを著した、日本史上屈指の大学者です。
ここに載せたのは上巻の「日課手習の事」の部分で、藩主と父の命により、文字の習得に励む場面です。八~九歳は満年齢に直せば七~八歳ですから、小学二~三年生に当たります。手習いとして筆で千字書くのに要する時間は、慣れていても一時間(3600秒)はかかりますから、準備や片付け、休憩や生理現象まで含めると、四千字書くのは数時間かかるでしょう。その年齢で真冬の夜に自発的に冷水を浴びるというのですから、その意志の力は並外れていました。
ここに載せた部分より少し前に、父に教えられたことについて、「常に思出らるゝ事は、男児はたゞ事に堪ふる事を習ふべきなり・・・・と仰られき。我八九歳の頃より、常にこの事によりて力を得し事も多けれど・・・・」と述べていますから、堪えがたきを堪える強い意志は、父の厳しい鍛錬の賜物だった様です。十三歳で藩主の手紙を代筆したということは、極端な比喩ですが、地方自治体の長の手紙を小学六年生か中学一年生が代筆した様なもので、白石の早熟の才能を物語る逸話です。
原文
我八歳の秋、戸部(こほう・とべ)の上総国にゆき給ひし後(あと)にて、手習ふ事を教へしめらる。其冬の十二月半ば、戸部帰り参り給ひしかば、常に傍(かたわら)にさぶらふ事もとの如し。明けの年の秋、また国にゆき給ひし後にて、課を立てられて、「日のうちには行草の字三千、夜に入りて一千字を限りて書き出すべし」と命ぜられたり。冬に至りぬれば、日短くなりて、課いまだ満たざるに、日暮んとする事たびた〳〵にて、西向なる竹縁のある上に机をもち出(い)でゝ、書終りぬる事もありき。
また夜に入りて手習ふに、睡(ねぶり)の催して堪(たえ)がたきに、我に付けられし者と密(ひそか)にはかりて、水二桶づゝ、かの竹縁に汲置かせて、いたく睡(ねむり)の催しぬれば、衣ぬぎすてゝ、まづ一桶の水をかゝりて、衣うち着て習ふに、初(はじめ)ひやゝかなるに目さむる心地すれど、しばし程経(へ)ぬれば、身あたゝかになりて、また〳〵眠くなりぬれば、又水をかゝる事、さきの事の如くす。二たび水をかゝりぬるほどには、大やうは課をも満(み)てたりき。これ、我九歳の秋冬の間の事也。
かゝりしほどに、此比(このころ)よりは、我父の、人に贈り給ふ文(ふみ)をば、かたの如くには書きたり。十歳(写本によっては十一歳)の秋、また課を立られて、庭訓往来を習はしめられ、十一月に至て、「十日がうちに浄写(じようしや)してまゐらすべし」と命ぜられ、命ぜられし如くに事を終へしかば、冊になして戸部に見せまゐらす。褒(ほ)め給ふ事大かたならず。十三の時よりは、戸部の人と贈答し給ふ程の文ども、大かたは我に命ぜられき。
現代語訳
私が八歳の秋のこと、殿(上総国久留里(くるり)藩主土屋利直(としなお)、「戸部(こほう)」は官職である民部少輔の唐名)が領地の上総国に行かれた後、(殿は父に命じて私に)手習いを教えるようにさせられた。その年の冬の十二月半ば、殿がお戻りになられたので、また以前のようにお側にお仕えした。翌年の秋、また上総国に行かれた後、(殿は)私に日課をお立てになり、「日中には行書と草書を三千字、夜には一千字をきっちりと書いて出すように」とお命じになられた。冬になると日が短くなり、日課がまだ終わらないうちに日が暮れようとする事がたびたびあったので、(少しでも明るい)西向きの竹の縁のある所に机を持ち出して、ようやく書き終えたこともあった。
また夜になって手習いをしていると、眠気をこらえきれないので、私につけられた係の者とこっそり相談し、水を二桶ずつ、その竹の縁に汲んで置かせ、大層眠気を催す時には、着物を脱ぎ捨ててまず一桶の水をかぶり、また着物を着て手習をする。初めは冷たくて目が覚めるような気持ちがするが、しばらくすると身体が温かくなり、またまた眠くなったので、さき程と同じように水をかぶる。そして二度目の水をかぶる頃には、日課も大体は終わった。これは私が九歳の秋から冬の事である。
そのようなことで、この頃から父上が人様に出される手紙を、一とおり書いたものである。十歳(十一歳)の秋には殿がまた課題をお立てになり、庭訓往来を習わせられ、十一月になると、「十日間で清書して提出するように」とお命じになられた。そして命じられた通りにやり終え、冊子に綴じて殿にお見せしたところ、お褒めになられること大層なものであった。それで十三歳になってからは、殿が人とやりとりされる手紙は、たいてい私に書くように命じられた。
解説
『折たく柴の記(おりたくしばのき)』は、儒学者であり、第六・七代将軍徳川家宣(いえのぶ)・家継に仕えた新井白石(1657~1725)が著した自叙伝です。自叙伝とはいえ、将軍の側近として、政権の中枢にいた人ですから、勘定吟味役の設置、荻原重秀の罷免、元禄小判から正徳小判への貨幣改鋳、長崎貿易制限法である海舶互市新例などに関する当事者の記録として、政治的にも極めて重要な内容が含まれています。
享保元年(1716)、白石は第八代将軍の徳川吉宗により罷免されますが、その半年後から『折たく柴の記』の執筆を始めました。あくまでも身内のための家訓として書いたものですから、儒学者の著述とは思えない程わかりやすい文で書かれています。巻末には、「百年にして公議定まらむ日、天下の人の議しなむところこそ恥かしき事なれ」と書いて筆を置いていますから、子孫のために書き残すとはいえ、いずれは公表されるであろう事、また今は評価されなくても、いずれその業績が評価されることへの期待がありました。
書名は『新古今和歌集』の後鳥羽上皇御製「思ひ出づる折りたく柴の夕煙むせぶもうれし忘れ形見に」から採られています。これは「夕方に亡き人を思い出すと、手折って焚く柴の煙にむせて涙が出るのも、亡き人の忘れ形見だと思えて嬉しいものである」という意味です。子孫が読むであろうことを、想定していたのでしょう。
白石の父正済(まさなり)は、上総国久留里(くるり)藩主土屋利直(としなお)に仕えていました。しかし利直を継いだ直樹(なおき)は父利直と折り合いが悪く、利直に重用された正済は禄を奪われ、利直の右筆(ゆうひつ)(書記)まで勤めた白石も出仕を止められ、白石は二一歳で浪人となりました。その後一時大老の堀田正俊(まさとし)に仕えますが、翌年に正俊が若年寄の稲葉正休(まさやす)に江戸城内で刺殺され、その三年後にまたもや浪人となっています。白石の聡明さを惜しんだ知人が、豪商の養子となる話を持ちかけます。しかし三千両(約三億円)の大金と宅地を用意して迎えたいという条件でも断ってしまいます。その後朱子学者の木下順庵(じゆんあん)に学び、その推挙で甲府藩主徳川綱豊(つなとよ)(後に家宣)の侍講となりました。しかし将軍徳川綱吉には跡継ぎがいなかったため、弟の綱豊が将軍世子(せいし)(将軍後継者)となり、綱吉の死後に第六代将軍家宣となります。それに伴い白石は自然に幕政を担う立場に置かれ、第六代将軍徳川家宣・七代将軍家継の治世の八年間に渡って、金の品位を高めた正徳小判発行、朝鮮通信使の待遇簡素化、金銀の海外流出を防ぐための海舶互市新例など、「正徳の治」と呼ばれる一連の政治改革を主導することになりました。他には皇統維持のため、閑(かん)院宮(いんのみや)家を創設しましたが、現在の皇統はその子孫ですから、このことが現在にもなお影響を及ぼしているという意味では、白石最大の功績かもしれません。
政治家白石の道は徳川吉宗により断たれましたが、白石の本領はあくまでも学者であり、実に幅広く業績を残しています。諸大名の家系図を整理した『藩翰譜(はんかんぷ)』、歴史叙述に始めて時代区分という概念を採り入れた史論書『読史余論(とくしよろん)』、神話の時代を合理的に解釈した『古史通(こしつう)』、イタリア人宣教師シドティの尋問記録をもとにキリスト教などについて叙述した『西洋紀聞(せいようきぶん)』、同じく世界地理についての『采覧異言(さいらんいげん)』、語源辞典『東雅(とうが)』、卑弥呼は神功皇后であり、邪馬台国は大和にあったことなどを説いた『古史通或問(わくもん)』、そしてこの『折たく柴の記』などを著した、日本史上屈指の大学者です。
ここに載せたのは上巻の「日課手習の事」の部分で、藩主と父の命により、文字の習得に励む場面です。八~九歳は満年齢に直せば七~八歳ですから、小学二~三年生に当たります。手習いとして筆で千字書くのに要する時間は、慣れていても一時間(3600秒)はかかりますから、準備や片付け、休憩や生理現象まで含めると、四千字書くのは数時間かかるでしょう。その年齢で真冬の夜に自発的に冷水を浴びるというのですから、その意志の力は並外れていました。
ここに載せた部分より少し前に、父に教えられたことについて、「常に思出らるゝ事は、男児はたゞ事に堪ふる事を習ふべきなり・・・・と仰られき。我八九歳の頃より、常にこの事によりて力を得し事も多けれど・・・・」と述べていますから、堪えがたきを堪える強い意志は、父の厳しい鍛錬の賜物だった様です。十三歳で藩主の手紙を代筆したということは、極端な比喩ですが、地方自治体の長の手紙を小学六年生か中学一年生が代筆した様なもので、白石の早熟の才能を物語る逸話です。
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