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上野歴史散歩 (1)

2019-06-24 11:02:49 | 歴史
先日、私が主宰する上尾市の生涯学習の会で、上野歴史散歩に行ってきましたので、その時にお話したことを書いてみます。あくまでもその日のコースにそって書いていますから、上野周辺の全ての歴史的見所につい書いているわけではありません。それで漏れていることが多いのですが、あくまでも実際に歩いたコースの報告ですのでお許し下さい。そのかわり他の情報源にはないこともたくさんあるはずです。

 まずは集合地点の上野駅について。上野駅も立派な見学地点です。目に見える古い物があるわけではありませんが、そこに上野駅が存在するということ自体が歴史なのです。普通の歴史ガイドブックでは見過ごされてしまいがちです。

 そもそも日本最初の私鉄である日本鉄道は上野・ 熊谷間に開業されることになり、明治16年に上野駅が開設されました。もちろん東京駅はまだありません。因みに東京駅ができたのは、第一次世界大戦の青島攻城軍の凱旋の時ですから、東京駅は第一次世界大戦の時にできたと覚えておきましょう。その後明治18年に途中の大宮から宇都宮間が開通し、上野駅は東京の東北のターミナルとして繁盛し始めます。さらに明治38年には常磐線の三河島 ・ 日暮里間が開通し、常磐線の列車が直接上野駅へ乗り入れます。この時点でもまだ東京駅はありません。

 しかし第一次世界大戦で東京駅が開業し、西からの鉄道が新橋駅から東京駅まで伸びて、新橋駅が東京の南玄関口としての役目を失います。そして大正14年に山手線環状運転開始されるに伴って、上野駅の北の玄関としての役割が次第に薄れてきます。それでも東北・常磐・高崎などの長距離の幹線との接続する駅として機能していたのですが、東北方面の新幹線の起点が東京駅に移転する平成3年に移転すると、上野駅は多くの駅の中の一つになってしまいました。私が東京へ出る際には、高崎線の鴻巣駅から乗車するのですが、上野行きではなく、上野に停車しても、さらにその先までゆく電車が多くなっています。

 終戦後、上野駅地下道には、戦後千人を超える被災者が雨露をしのいで住みついていました。上野は地方へ出て行く人や地方からやってくる人たちが集まるターミナル駅だったため、他の場所と比べ物乞いもしやすかったのでしょう。私の両親は戦後に山形県から埼玉県に転居するために上野駅に降り立ったのですが、その時の光景が忘れられなかったのでしょう。孤児を養おうとして浦和の自宅に何人も引き取ったのですが、子供達は近所の物を盗んだりして苦情が絶えず、とうとう投げ出してしまいました。私の記憶が微かに残る頃の話しです。そんな当時の地下道は今は残っていません。とにかく上野駅がそこにあるという歴史的意味を、まずは感じ取りたいのです。

 平成15年、上野駅広小路口前に「あゝ上野駅」と言う歌碑が立てられました。その前に置かれたレリーフには 井沢八郎が歌った歌詞が刻まれています。つい見過ごしてしまいますが、上野駅という史跡を理解する上で見落とせません。歴史散歩とはいわゆる観光旅行とは異なります。目に見える物は派手ではなく、また痕跡だけですが、気が付いて見直してみると、そこに歴史が隠れているのです。
「どこかに 故郷の香りを乗せて 入る列車の なつかしさ
  上野はおいらの 心の駅だ くじけちゃならない 人生が あの日ここから 始まった」
若い世代にとっては知らない歌でしょうが、上野駅が東北日本への玄関口であったことをよく表しています。
ユーチューブで聞くことができますから、是非耳でも確認してみて下さい。

 続いて私たちは浅草通りを浅草方面に向かいました。右に下谷神社が見えますが、ここは通り過ぎます。「下谷」という呼称は「上野」に対応するものです。左側に小さな派出所がありますがその隣が永昌寺という浄土宗の寺です。永禄元年(1558)に創建されとされ、寛永14年(1637)当地へ移転したそうです。ここは講道館柔道の祖である嘉納治五郎が、23歳の時に当寺内に12畳の道場を建て、門弟と共に稽古を始めたところです。講道館柔道の原点というわけで、「講道館柔道発祥之地」という石碑があります。当時彼は学習院の教頭でした。この場所から目白まで歩いて通ったのでしょうか。かなりの距離があります。

 この寺の門を左折し、北方に進みます。さして五つ目の信号を右折し、スカイツリーを遠く正面に見ながら暫く歩くと、左手に源空寺があります。源空とは法然の別号ですから、浄土宗の寺院というわけです。道を挟んで右側には墓地がありますが、こちらを参拝しましょう。ここには高橋至時(よしとき)・景保(かげやす)、伊能忠敬、幡随院長兵衛夫妻、谷文晁の墓があるからです。

 幡随院長兵衛は、江戸時代初期に旗本の暴れ者集団旗本奴(やつこ)と男伊達を競いあつた,町人身分の江戸の遊侠の徒(町奴)の首領で、明暦3年7月18日(1657年)旗本奴の大小神祇組の首領水野十郎左衛門と対立抗争して暗殺されました。一方水野十郎左衛門はこの件に関してお咎めはなかったのですが、寛文4年(1664年)母正 徳院の実家蜂須賀家にお預けとなり、翌27日に評定所へ召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬なので即日に切腹となったということです。

 高橋至時は江戸時代後期の天文学者です。幕府の天文台の天文方に任命され、寛政暦への改暦作業において中心的な役割を果たしたことで知られています。享和2年(1802年)に起こった日食では、寛政暦と15分のずれが生じたのですが、このことを至時は残念がり、寛政暦の改良に向けて天体観測にも力を注いだそうです。現代人にとっては、暦とはカレンターの古い呼称くらいの理解ですが、本来の暦は天体現象の時刻まで予測したものですから、精密な観測と計算が要求されるものでした。残念なことに彼は病気がちで、文化元年(1804年)に41 歳で死去した。しかし19歳年上の伊能忠敬に暦学や天文学を教えたことにより、その衣鉢は継承されることになりました。

 その伊能忠敬は下総国香取郡佐原村の名主でしたが、49歳の時に酒造り・米・薪・燃料等などの家業を長男に譲り、単身江戸へ出て、当時30歳の高橋至時の弟子となり、天文・暦学を学びます。現在の感覚なら、60歳で退職した後に、大学で学ぶようなものでしょう。忠敬は緯度1度に相当する子午線弧長を求め、地球の大きさを計算しようとして、深川の自宅から浅草の天文台までの距離を歩いて測量しその値をもとに大まかな値を求めたのですが、師の至時は短い距離で求めても意味がない。正確な値を求めるならば、江戸から蝦夷ぐらいまでの距離が必要だと答えますた。そしてこの事がきっかけとなり、忠敬の蝦夷測量が行われ、さらにその後の日本全国の測量へとつながったわけです。結局、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、足かけ17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』をほぼ完成させ、国土の正確な姿を明らかにしました。彼が測量のために移動した距離は3万数千キロですが、地球一周がほぼ4万キロですから、どれ程困難なものであったか、想像すらできないでしょう。重い測量器具を抱え、精密な測量をしながら歩くのです。夜は夜で北極星によって緯度を観測します。歩け歩け大会のように軽装でさっさと歩くのとはわけが違います。

 その測量方法は三角測量ではありません。甲地点に測量板を水平に据え、乙地点に竹竿を立てて、甲から乙を臨む方角を磁石を使って測定します。そしてその間の距離を測ります。甲地点から山の頂上でも見えるならば、その方角も測定しておきます。次に乙地点に移動して測量板を据え、その先の丙地点に棹を立て、同じように測量します。そこから先程の山の頂上が見えれば、その方角も測量します。次に丙地点に移動し、丁地点に棹を立てて、同じことを繰り返していきます。しかしもし勾配があれば、二点間の距離は直角三角形の斜線の長さになってしまいますから、実際の距離より長くなってしまいます。そこで三角法の計算により、実際の長さを計算する必要があります。

 このようにして測量によって得られたデータを逐一図面に書き込んでゆくのですが、各地点で測量した山の頂点の見えた方角をその図面に直線で引けば、測量が正確ならば、山の頂上を示す各線が一点に集中しなければなりません。実際には難しいことですが、それによって測量の精度や誤差を見極めるわけです。誤差が大きければ、測量をやり直すことがあったことでしょう。言葉で表現すれば簡単ですが、実際には困難を極めたはずです。

 このような測量の困難なことを知りながら見ると、単なる墓石には見えないのです。「へえー、これがかの有名な伊能忠敬の墓なのか」だけで終わらせてほしくないのです。忠敬は死の直前、死後は先生のそばに埋葬するように語っていたため、墓地は高橋至時の傍らにあります。並んでいることにも大きな意味があるわけです。墓石には四面一杯に彼の業績が刻まれています。読み解くことは難しいのですが、測量した地名は簡単に拾い出せますから、じっくりと観察して下さい。

 高橋景保は高橋至時の長男で、父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事しました。また忠敬の没後、彼の実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成させました。1828年にシーボルトが国禁である日本地図などを日本国外に持ち出そうとして発覚したのですが、その地図が高橋景保からもらったものであることが発覚し、伝馬町牢屋敷に投獄され、翌文政12年(1829年)2月16 日に獄死してしまいます。享年は45歳でした。判決は出ていませんでしたから、獄死後、遺体は塩漬けにして保存され、翌年3月26日に改めて引き出されて罪状申し渡しの上、斬首刑に処せられました。凄惨な場面だったことでしょう。犯罪人の墓を立てることはできませんから、現在の墓石は後世のものです。そのすぐ側には、シーボルトが帰国後に景保に感謝する言葉を書いたものをドイツ語と日本語に直して刻んだ石碑が立てられています。昭和戦前のものですがかなり傷んでいます。それでも読み取ることは容易ですから、シーボルトの景保に対する感謝の気持ちを察することはできます。
 谷文晁は江戸後期の文人画家。狩野派・土佐派・文人画等の諸画法を折衷した新画風を創造し、江戸文人 画壇の重鎮となる。渡辺崋山はその弟子に当たります。

 狭い墓地には墓石がびっしりと立ち並び、家紋に詳しい人なら、それを見ているだけで面白いことでしょう。突き当たりの左側に、五輪塔がありました。もちろんこの五輪塔は現代のものですが、本来は平安末期から鎌倉時代にかけて、墓石として流行したものです。五つの形の異なる石が積み重ねられているのですが、みな異なる形をしています。周囲には木の卒塔婆がたくさん立てられていますが、その頂部には左右対称に4対の刻みがあります、その刻みをよくよく観察すると、角度が微妙に異なり、五輪塔を表していることがわかるでしょう。つまり卒塔婆は木製の簡易五輪塔というわけです。そもそも塔のことは梵語でストゥーパといい、それが訛って卒塔婆となったものです。五輪塔の塔と卒塔婆は同じ語源なのです。このことは何も上野歴史散歩でなければ触れられないことではないのですが、たまたま形のよい五輪塔があったので、触れたまでです。

 ここから来た道を反転して上野の広小路に戻りました。現在の上野公園入口から松坂屋に至る一帯は、明暦の大火(1657年)の後、道幅を広げて火除け地となったところです。もし史跡というならば、道の幅が広いことでしょう。この道は歴代将軍が寛永寺参拝に利用した御成道でもあり、沿道に食料品店、料理店などが並ぶ繁華街でもありました。現在の中央通りと不忍通りの交差点には、忍川(しのぶがわ)が流れており、三つの橋が並んでかけられていたことから 三橋(みはし)と呼ばれていました。現在は「みはし」という江戸時代以来の甘味処がまだ営業しています。看板が見えますから、すぐに見つかるでしょう。
 
 広小路から上野公園に上る階段の手前左の黒門跡に、狂歌で有名な大田蜀山人の歌碑があります。歌の文字は蜀山人の自筆で、「一面の 花は碁盤の 上野山 黒門まへに かゝるしら雲」と読めます。あたり一面すっかり桜花の上野の山で、黒門の前あたりはあたかも白雲がかかったようだ、という意味なのでしょうが、いかにも狂歌の作者らしく、門の黒色と花の白色を、碁盤の上の黒白の石に見立てた仕掛けになっています。寛永寺の黒門はいかにも碁盤のように、直角に交差する黒い木材が印象的でした。実物は吉展ちゃん誘拐殺人事件で有名な南千住の円通寺に移築されています。その黒門跡には、黒門をイメージした現代的な雰囲気の噴水があります。理由がわからなければ見過ごしてしまう噴水ですが、ここは戊辰戦争の彰義隊の戦の激戦地でした。そう思って坂を登って下さい。何度も書いていますが、歴史散歩とは目に見えない物の中に歴史を感じ取る所に意味があります。それがなかったら単なる観光になってしまいます。

 黒門の坂を上ると、右前方に西郷隆盛の像が立っています。あまりにも有名ですから、かえって見過ご
してしまいますが、なぜここに西郷像があるのか確認しておきましょう。彰義隊の戦で総指揮をとったのは大村益次郎でしたが、最も激戦が予想された黒門攻撃には、大村は薩摩藩兵を当てました。布陣図を見た西郷は、「薩摩兵をみな殺しにするおつもりか」と問うと、大村は「さよう」とそっけなく答えたと伝えられています。そして案の定激戦となり、西郷隆盛の指揮する薩摩藩兵はかろうじて黒門の突破しました。明治22年2月、大日本帝国憲法発布に伴う大赦により、西郷は明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追 贈され、これに感激した隆盛の旧友吉井友実が、同志と共に追慕の情を表すべく建立を計画します。しかし問題は像を立てる場所でした。一度は朝敵とされた人物ですから、皇居の近くには立てられません。また軍服姿には反発も予想されます。そこで戦闘の指揮官として活躍し黒門の阪の上が選ばれたわけです。

 改めて西郷像に向かい合い、その碑銘を読み取りました。
「西郷隆盛君之偉功在人耳目不須復賛述前年 勅特追贈正三位 天恩優渥衆莫不感激故吉井友實與同 志謀鋳銅像以表追慕之情 朝旨賜金佽資捐資賛此挙者二萬五千余人明治二十六年起工至三十年而竣乃建之 上野山王臺記事由以伝後」

 書き下し文にしてみましたが、漢文の専門家でもないので、間違いがあるかもしれません。「西郷隆盛君の偉功は、人の耳目にあれば、すべからく復、賛述すべし。前年勅により、特に正三位を追贈さる。天恩優渥(情け深いこと)にして、衆感激せざる莫(な)し。故に吉井友実同志と謀り、銅像を鋳して以て追慕の情を表す。朝旨(朝廷の意向)ありて、金を賜りて費を佽(たす)け、資に捐(あた)ふ。此の挙に賛ずる者二万五千余人。明治二十六年に起工し、三十年に至りて竣(おわ)る。乃ち、之を上野山王台に建て、事の由を記し、以って後に伝ふ。」

 朝敵になったとはいえ、個人的には西郷を敬慕する人が多かったことがわかります。西郷隆盛像の顔は、イタリア人画家・キヨソーネが明治16年に描いた、弟の西郷従道と従弟の大山巌の顔から合成したものを元にしているそうです。死後21年経って建てられた銅像の序幕式(明治31年)では、妻の糸子は夫には似ていないと言ったと伝えられています。銅像の西郷隆盛は筒袖に兵児帯姿、わらじばきで、薩摩犬の愛犬「ツン」を連れて、うさぎ狩りに出かける姿を表しています。それは帯に挟み込んだ兎罠があることで察しがつきます。この姿は従弟の大山巌が、西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い本来の姿にこそあるとして発案したそうです。西郷隆盛の部分は高村光雲が、愛犬「ツン」の部分は後藤貞行の手によっています。身長370.1㎝の姿は正面から見ると体に対して少し頭が大きいように見えますが、地上から見上げた時にバランスよく見えるようにとの配慮によるそうです。後藤貞行は余り知られていませんが、動物の彫刻を得意としていて、皇居近くにある馬に乗る楠木正成の象の作者でもあります。

続きは近日中に書きます。もう少し時間を下さい。

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