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新橋・築地歴史散歩

2017-04-20 15:34:44 | 歴史
 先日、私の主催する生涯学習の市民勉強会の行事として、新橋・築地歴史散歩に行ってきました。その様子を御紹介しましょう。あくまでも私達が歩いたコースの御紹介ですから、漏れているものがあることはお許し下さい。

 集合は午前9時、JR新橋駅前のSLの前でした。新橋というと、一般にはサラリーマンの多い所という印象が強いですね。テレビのインタビューでも、一般の人の意見を聞きたい時には、よく新橋駅前広場で行われています。

 まずは新橋駅そのものからお話ししましょう。明治5年に初めて新橋駅から横浜駅(現在の桜木町駅)まで鉄道が開通しましたが、その駅は現在の新橋駅ではありません。そのことについては後ほど触れるつもりです。現在の新橋駅は、明治42年に開業した現在の山手線の烏森駅を、「新橋駅」と改称したものです。新橋駅辺から有楽町駅・東京駅までの約3㎞、線路は煉瓦造りの連続アーチの上を走っています。これが作られたのは明治40年からのことで、100年前の構築物がまだ現役として役目を果たしていることに注目しましょう。そもそも品川から上野の辺りは、江戸時代に埋め立てられた地盤の弱いところでした。そこに鉄道が走ると、地盤沈下を起こしかねません。そこでアーチの工事をする前に、軟弱な地盤の補強のために、2万本の松の杭を打ち込んだそうです。東京駅や丸ビルを作る際にも同じことをしています。丸ビルに打ち込まれた杭は、現在は丸ビルの1階の3連アーチの見えるところに保存展示されていますから、機会があれば参考までに見ておきましょう。いつ行っても見ている人がいないのですが、絶対に見る価値があるものです。鋼鉄製の高架にすることも考えられたのですが、そうすると材料は輸入しなければならず、それより国産の煉瓦の方が騒音も少ない利点があるということで、深谷産の煉瓦が用いられました。それでもさすがに100年も経つと、耐震補強工事が必要となり、アーチの内側を鉄筋コンクリートで補強する工事が行われています。産業遺跡として保存されてもおかしくないものが、現役に活躍していることにまずは注目したいものです。

 さて次は、せっかくSLが見えるのですから、これも観察しておきましょう。そもそもSLは何の省略ですか。Steam Locomotiveでしたね。ここにSLが保存されているのは、鉄道開通100周年を記念して、昭和47年に設置されたことによります。現在では毎日12時、15時、18時に汽笛が鳴るそうですが、その日は時間が合いませんでした。ここに保存されているSLは、昭和20年製造のC11型で、機関車一台の内部に水タンクと石炭を搭載するタンク式の機関車です。搭載できる量が限られるので、長距離にはむいていません。それに対してD51型のような大型機関車は、機関車の後ろに水と石炭を搭載するテンダー車両を接続させていますので、長距離の走行が可能です。タンク式は後方の視界がよく、小回りがきくので、近距離や操車場などで活躍していました。大井川鉄道ではまだSLが走っていますが、と言っても私は乗ったことがないのですが、タンク式のC11型です。埼玉県の秩父鉄道を時々走っているSLは、テンダー式です。そこで問題です。機関車トーマスはどっちの型でしょう。もうわかりますね。後ろにテンダー車両を牽引していませんから、タンク式ということになります。ついでに、CとかDとかいう記号の意味くらいは覚えておきましょう。これは動輪の数を表しています。直径の大きな動輪が左右で2セットならB、3セットならC、4セットならDというわけです。ここのSLは3セットの動輪があることを確認しておきましょう。

 さて次は煉瓦のアーチを潜って駅の反対側に出ましょう。そしてすぐの信号を左折して高速道路の下まで進み、そこを右折してすぐ大通りに出ます。ここで高速道路がなぜここを通っているか考えます。首都高速道路は屈曲が多いのですが、それはかつての掘り割りが埋め立てられて道路になり、その上を通るように作られたからです。用地買収が楽なため、なるべく民有地を通らないコースが選ばれているのです。もし江戸の切絵図を見ることができるなら、図書館で借りてコピーし、現在の地図に堀り割りの位置を書き込んでやると、高速道路と一致する区間が多いことにすぐ気が付くことでしょう。これ、絶対お勧めです。

 さて高速道路下の道路の南寄り歩道を東に進むと大通りに出るのですが、これこそかつての東海道です。現在は中央通りと呼ばれています。高速道路が堀割りだったと想像してみて下さい。そうすると東海道はここで橋を渡ることになります。この橋こそかつての「新橋」なのです。新橋という呼称の原点がこの橋だったのです。この掘り割りは汐留川という名前でした。江戸時代の新橋付近の景色は、『江戸名所図会』に精密な挿図が載せられていますから、図書館で借りてコピーし、見学前に用意しておきます。現在はかつての新橋の位置に、大正14年に作られた橋の親柱が残っています。なかなか立派な作りですね。見過ごされそうですが、新橋に来たら新橋を見ないわけには行きません。親柱の周囲には、東京には珍しいシャガの花が咲いていました。シャガはアイリス・ジャポニカ、つまり日本のあやめという学名を持つ花ですから、もっと関心を持って欲しいと思います。日陰の好きなあやめで、華麗な美しさはありませんが、いかにも日本人好みのあやめの一種です。

 親柱から数mのところに、柳の木が植えられ、確か「二代目の柳」とか何とか書いてありました。さてさてなぜここに柳の木が植えられて、特別な扱いをされているのか考えてみましょう。ヒントは「銀座」です。そう言えば、「昔恋しい銀座の柳・・・・」という昭和初期の歌謡曲がありました。そもそも銀座に煉瓦街ができた時、街路樹として松・楓・桜が植えられました。ところが銀座は地下水位が高く湿気が多かったため、枯れてしまったのです。そして新たに柳が植えられました。柳は水辺を好む樹木ですから、銀座でよく育ちました。ところが関東大震災でそれも燃えてしまい、かわってプラタナスが植えられました。ですから昭和初期にはかつての銀座の柳を知っている人たちは、銀座の柳を昔恋しく思ったのです。そのプラタナスも空襲で焼けてしまい、また銀座のシンボルである柳が植えられるようになっています。それで銀座といえば柳というわけで、銀座のお祭りを柳祭と称しています。

 さあ銀座と柳の関係はわかったと思いますが、それではなぜ新橋に柳なのでしょう。新橋から中央通り、つまりかつての東海道を北に歩くと、すぐに銀座を通って日本橋に行けます。つまり新橋は銀座街の南の端、銀座の入り口に当たるわけです。明治維新に銀座といえば、文明開化の最先端でした。ですから新橋に鉄道の始発駅もできたのです。明治15年には、新橋~上野間に日本最初の鉄道馬車が開通しています。横浜から欧米文化が移入され、鉄道で銀座の入り口である新橋までやって来て、銀座が当時は最もハイカラな街となっていたわけです。

 次はそのまま中央通りを真っ直ぐ南に進むと、前方左に旧新橋駅停車場跡に復原された駅舎が見えてきます。ここは既にお話ししましたが、日本最初の鉄道が開業した東京駅でした。明治22年に東海道本線が神戸まで通じても、東京のターミナル駅として、大正3年に現在の東京駅が開業するまで、重要な役目を果たしていたのです。旅客ターミナル駅としての機能が東京駅に移された後は貨物駅となり、駅名も汐留川にならって「汐留駅」と改称されました。しかしトラック輸送や貨物列車のコンテナ輸送が盛んになり、昭和61年に、貨物駅としての役割を終えました。跡地は平成8年に国の史跡に指定され、発掘調査の後に埋め戻され、平成15年にその真上に開業当時の駅舎が再現されています。現在は小さな博物館になっています。少し時間が早すぎて中には入れませんでしたが、裏手のプラットホームの方に回ると、鉄道の起点であった0哩(マイル)標が同じ位置に立っています。また当時と同じレールが数m敷設されています。ここではレールの断面をレールの南端で見てみましょう。上下対称の形をしているでしょう。これは摩耗したら上下を逆転させて再使用するために、このような形になっていました。枕木は北半分が砂利に埋もれていますが、これが当時の本来の様子だったそうです。

 ここで一寸後ろを振り返ってみましょう。中央通りと直行する幅の広い昭和通りが見えるでしょう。この大通りは、関東大震災の復興事業として建設されたものです。当時前東京市長であった後藤新平の原案では、地幅が108mもありました。しかし余りにも広すぎるとして受け容れられず、現在の幅に縮小されてしまいました。完成したのは昭和3年のことで、復興を記念して「昭和通り」と呼ばれたわけです。後藤新平はできそうもない計画を主張して、「大風呂敷」というあだ名で呼ばれた人です。震災で焼け野原になった今こそ、新しい都市計画を実行する絶好の機会と考えたのです。今から考えると、100m道路ができていたら、どんなにかよかったかと思います。昭和通りを見ながら、なぜ昭和という名前になったのか、また今でも程々に広い道幅について、思いを巡らせて下さい。昭和通りをみてほとんどの人は歴史を感じないでしょうが、立派な歴史が隠れているのです。

 中央通りと昭和通りが並行して伸びる辺りで、そのちょうど中間を並行して伸びる道があります。これは江戸時代には三十間堀と呼ばれた堀割りでした。江戸切り絵図を見るとよくわかります。この堀割りは戦後まで存在したのですが、GHQが銀座の瓦礫の処理を急ぐようにと東京都に命じたため、三十間堀に投棄して、昭和24年に埋め立てが完成しました。今は面影さえありませんが、昭和通りは震災からの復興を、三十間堀の埋め立ては、空襲からの復興に関わっているのです。

 次に旧停車場跡からすぐ東に見える長い横断歩道橋を渡って、高速道路に沿って歩道の左側を真南に進んで下さい。浜離宮方面にゆく道ですね。300mも行かないうちに、車が一台通れる程度の細い路地があります。その角には「銀座に残された唯一の鉄道踏切信号」と表示された信号機が立っています。この道はかつて築地市場内に鮮魚を運ぶ鉄道のレールが敷かれていた所です。それでここに踏切があったのです。汐留駅から線路は真っ直ぐに場内に延びていました。築地市場の建物は、大きな円弧を描いていますが、これは狭い敷地内に長い列車を停車させるための工夫でした。築地市場がなぜカーブしているのか、不思議に思った方も多いでしょうね。

 かつての線路の道を進むと、すぐに市場の入り口に至ります。そうしたら大通りを左折して、がんセンターを左に見ながら、晴海通りまで行きましょう。途中、場外市場に寄りたくなりますが、それは一寸我慢して、後回しにします。晴海通りとの交差点まで来ると、右前に築地の本願寺が見えるでしょう。

 ここで「築地」という場所について、少々お話しをしておきましょう。築地とは本来は埋め立て地を表す普通名詞です。東京の築地は、明暦3年、1657年の明暦の大火で焼失した浅草御門南の本願寺の代替地として、佃島の門徒によって造成されました。そして延宝7年、1679年に本願寺が再建されるのですが、その周辺には浄土真宗の寺院が次々に建立され、門前町のようになっていました。また周辺には武家屋敷もたくさん建ち並んでいました。

 江戸時代末、幕府は築地に講武所を設け、軍事力の増強を図りました。特に海軍力では軍艦操練所を設け、勝海舟らが教授となっています。明治になってからは武家屋敷が接収されて、一帯には海軍省・海軍兵学校(海軍兵学寮)・海軍医学校・海軍経理学校など、海軍の施設がたくさん建てられました。日露戦争で活躍した秋山真之も、ここで学んでいたわけです。現在はそれらを偲ばせるものは石碑くらいのもので、何も残ってはいません。医学校の跡は現在は癌センターとなっていて、かろうじて医療に関係ある施設になっています。今回は見ませんでしたが、癌センター駐車場入り口の側に、二・二六事件で殺された斎藤実の筆になる、「海軍兵学寮跡」の石碑が立っています。目に見えるものは何もありませんが、一帯が日本海軍用地であったことを確認して下さい。

 同じ築地でももう少し北東の聖路加病院付近には、明治2年に居留地が置かれました。日米修好通商条約によって、江戸の開市が決められましたから、それに伴って外国人の居住区画として設定されたわけです。同じく横浜には早くから居留地が設定されていました。しかしどうしてここが選ばれたのでしょうか。理由はいろいろあるのでしょうが、その一つは堀割りで区画されていたということでしょう。やたらに外国人と日本人が接触しないようにという配慮があったのでしょうか。横浜も同じように水路で隔てられていて、関所のようなものが設けられていました。ですからその関の内側を「関内」と言ったのですが、それは今も地名となって残っていますね。こういうことを理解するためには、やはり江戸時代末期の切り絵図を見ておきたいですね。

 しかし築地の居留地は外国人商人には人気がなく、外国商社は横浜からあまり移転しませんでした。代わりにやって来たのが、キリスト教の宣教師や、彼等が関わった各種の教育施設でした。築地を発祥地とするミッション系の学校には、青山学院・立教学院・明治学院・女子聖学院・雙葉学園・関東学院などがあり、聖路加病院の周辺にそれらの記念碑が散在しています。また外国公館も建てられました。特に明治8年にはアメリカ公使館が設けられ、明治23年に現在の赤坂に移るまで、ここにありました。現在は聖路加病院の教会堂前の広場に、星条旗や星と、アメリカの国鳥でシンボルでもある白頭鷲を刻んだ標石が置かれているので探して下さい。

 その後築地は、関東大震災によって焼け野原となりました。後藤新平の壮大な復興計画に基づいて、大規模な区画整理が行われ、たくさんあった寺院が移転しました。そして昭和10年には、日本橋で被災した魚河岸が海軍用地の一画に移転して来て、その場外にも関連の商店が建ち並び、現在の築地市場の基礎ができたわけです。

 さて話を元に戻して、早速築地の本願寺を訪ねましょう。まずはその異国情緒豊かな姿に驚かされますね。現在の本堂は、東京帝国大学工学部教授である伊東忠太の設計により、昭和9年に完成しました。間口87m
奥行き56m、高さ33mのインド風のデザインを採り入れた、鉄筋コンクリート造りです。左翼と右翼にはインドの仏塔風の鐘楼と鼓楼がそびえています。正面の屋上には菩提樹の葉の形をした装飾があり、その中央には蓮華が見えます。

 それでは中央階段を登ってみましょう。階段の左右には、「カルラ」というインドの空想上の霊獣が鎮座しています。まるで狛犬のようですが、もともとはエジプトのスフィンクスと同じで、聖域を守護するためのものでしょう。沖縄のシーサーともよく似ていますね。ここで階段の欄干・高欄に注目して下さい。これは欄楯(らんじゅん)と呼ばれる独特の物で、インドの仏塔の外柵に見られる様式です。同じような柵は、本願寺の外柵にも見られますから、お帰りになる時に確認しましょう。知らなければうっかり見過ごしてしまいますが、細部まで徹底してインド様式が採り入れられているのです。

 階段を上ると、本願寺の寺紋のある扉があります。この紋章は「下り藤」と呼ばれるもので、本来は格式高い九条家の家紋です。これは親鸞の妻が関白九条家の出身であったという伝承によっています。外陣に入る前に、扉の上を見ると、蓮を描いた美しいステンドグラスがあり、まるでキリスト教会のようです。内部は一般の門徒が椅子に坐る外陣と、僧侶が坐る内陣に分かれています。本願寺には大勢の門徒が集団で参拝することが多いため、外陣を広くとるのが特徴で、京都の西・東本願寺でも同様です。内陣に比べて外陣が大きいことが、浄土真宗寺院の特徴であることを確認しておきましょう。柱や梁はコンクリート製ですが、柱の上の組物や蟇股や、一段高く押し上げられたような格天井(ごうてんじょう)は木製です。外観はインド風でも、内部は和様なのです。中央の4本の太い柱には、四神のレリーフが彫られています。ただ内部では読経が行われたり参拝者がいますから、宗教的尊厳をおかすことのないよう、十分に配慮して下さい。ここは観光する場所ではないのですから。内陣は金色を基調に装飾されています。これは西本願寺派寺院の特徴で、東本願寺派の寺院では黒を基調としています。東本願寺派との相異としては、東では念仏を「なむあみだぶつ」と発音するのに対して、西では「なもあみだぶつ」と読みます。なかなか聞き取れませんが、入り口近くに必ず寺の係の人がいらっしゃいますから、お尋ね下さい。

 そこで、なぜインド風なのかお話ししましょう。設計者の伊東忠太は、大学院在学中に「法隆寺建築論」という論文を書き、法隆寺の柱が中央部が太くなっている事に注目し、ギリシア建築のエンタシスの柱の影響であることを説いています。彼はそれを立証するために、明治35年から3年がかりで中国・インド・ペルシア・トルコなどを旅行し、特にインドのヒンドゥー教・仏教寺院から大きな示唆を受けて帰国しました。その頃時を同じくして、後に浄土真宗西本願寺派の第22代法主となる大谷光瑞が、インドで釈迦に縁のある遺跡や足跡を調査していました。この二人がどこで出会ったのかまでは知りませんが、旅の途中で親しくなったのでした。そして築地の本願寺が関東大震災で灰燼に帰し、再建の話が持ち上がった時、インドという共通の体験をもった者同士が、どちらからともなく、釈迦を彷彿とさせるインド様式の建築にしたいということになったのでしょう。

 初めて見る人には異様かも知れませんが、しかしよくよく考えてみれば、日本にとっては異国の宗教である仏教やキリスト教を受け容れた時、同じように異様さを感じたはずです。仏教は今はもう日本に土着化してしまい、寺に行くと日本人の心が安らぐのでしょうが、それでも東南アジアやチベットの仏寺で金ぴかの仏像を見ると、一瞬は違和感を感じることでしょう。現代人が築地の本願寺をみて感じるようなことは、かつて外国の宗教を初めて受け容れた頃の我々の祖先たちも感じたことだと思います。

 さて本願寺の門を出て、右に200mと少し歩きます。そして信号を右折しましょう。300mも進んだ辺りは聖路加病院関係の施設がたくさんあります。左側に一寸した庭園があり、聖路加病院の教会堂が見えます。そこの信号の側に、蘭学事始の碑が二つ並んでいます。一つは『解体新書』の人体図を刻んだもの、もう一つは『学問のすゝめ』の冒頭部を刻んだものです。ここは実は江戸時代には、豊前中津藩主奥平家の大名屋敷のあったところで、中津藩医であった前野良沢がここに住んでいました。そして杉田玄白らと共に、ここで『ターヘル・アナトミア』の飜訳をすすめたのです。この時期の中津藩主は奥平昌鹿(まさか)で、蘭学に大変理解がありました。職務をそつちのけに蘭学研究ばかりしている良沢を非難する声が強かったのですが、藩主は全く気にも留めず、良沢を保護して自由に没頭させました。良沢の別号は「蘭化」と称するのですが、それは藩主が良沢を「蘭学の化け物」と呼んだことによっています。暖かい主君と、それに応えようとする家臣の関係にほっとします。

 またここで、後に中津藩士であった福沢諭吉が、一時蘭学塾を開設していたことがありました。彼は大坂の適塾で蘭学を学び、藩の要請によって蘭学塾を藩邸に開設したのです。しかしある時横浜に行き、オランダ語が全く通じず、英語ばかりが聞こえてくることに驚きました。 これからは英語の時代であると確信した諭吉は、独学で英語を習得するのです。諭吉がここで塾生を指導した期間は短いのですが、この塾が後に慶応義塾へと発展しますので、ここが慶応義塾発祥地として、記念碑が建てられているわけです。

 その記念碑は本を開いた形をしていて、『学問のすゝめ』の冒頭部の「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と刻まれています。『学問のすゝめ』読み通したことはなくても、この一句だけは知らない人はほとんどいないことでしょう。ところがこれが大問題なのです。 冒頭部分は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり。」というのであって、「と云へり」の部分がついているのです。「・・・・ということである」というわけです。人には上下がないと断定しているのではなく、上下はないと言われている、というのですから、人は皆平等であると断定してはいません。

 そこで、その先はどのようなことが書いてあるのでしょうか。時間がないのでここでは要点にとどめますが、詳しく知りたい方は、私のブログである「うたことば歳時記 私の授業 『学問のすゝめ』を読む」を検索してみて下さい。要するに、平等のはずであるのに、実際には雲泥の差があるのはなぜなのか。それは学問の有無によるのである、というのです。そしてさらに「人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。唯学問を勤て物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。」とまで言い切っているのです。彼が言いたかったのは人の平等ではなく、学問の勧めそのものなのです。それならどのような学問をすればいいのでしょうか。彼は「実学」、つまり実用的な学問をせよと言います。文学などはあまり役に立たないとまで言います。実学を学ぶことによって初めてその人自身が社会で独立した存在となれる。そしてひいてはその家も独立し、国家自体も世界の中で他国に依存することなく独立した存在となることができる、と言うのです。

 福沢諭吉はこのような思想を、「独立自尊」と表現しました。これは彼の造語なのですが、他に依存することなく、尊厳をもって自立することを意味しています。人は互いに助け合って生きてはいますが、自分のことは自分でしようという自立した心がなければ、他人にとってはお荷物になってしまいます。それは家庭でも国家でも同じことです。いつも国が、お上が、上司が、先生が、親が助けてくれることを期待する国民ばかりでは、その国も企業も組織も家庭も立ち行かなくなります。もちろん助けが必要な人を助けるのは当たり前なのですが、独立自尊の気概のない所に、真の自由はないというのです。

 彼の説くところは、現代の人権的価値観からすれば、問題とされることもあるでしょう。しかし歴史上の人物を現代の物差しで評価してはなりません。そんなことをすれば、現代人の評価に耐えられる古代の英雄などいなくなってしまいます。信長など、何回死刑になっても足りません。そういうわけで、この石碑は誤解を生じさせる心配があるのです。これを設置した人は、諭吉は人の平等を説いた偉人であると言いたかったのでしょう。

 さて横断歩道を渡って、公園の中に入ります。右手には既にお話ししたアメリカ公使館跡の記念として、星条旗や国章の白頭鷲の石標がありますから、探してみて下さい。付近一帯は聖路加病院の施設が並んでいます。そこで聖路加病院について少しお話ししましょう。

 まず明治7年、築地の外国人居留地に、スコットランドの宣教医師ヘンリー・フォールズが健康社築地病院を設立します。彼は明治35年に帰国するのですが、荒廃していた築地病院の建物を米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り、聖路加病院としたことに始まります。病院名は、イエスの使徒パウロの協力者の一人であり、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされる聖人ルカの漢字表記に由来しています。ルカは、新約聖書の『コロサイ人への手紙』で「親愛なる医者のルカ」(4章14節)と呼ばれていることから、キリスト教圏ではしばしば病院の名前に使われているのです。一般には「ろか」と読まれることが多いのですが、「るか」が正しく、病院の職員の方は、「ろか」と呼ばれることが多いと、苦笑していました。

 木立の中に立派な礼拝堂があります。ここは宗教施設ですから、団体の入場はできません。もし団体でしたら、個人のようにばらばらになって、厳粛な気持ちでお入りください。床のタイルにハエやネズミなど、伝染病を媒介する動物、及び迷信のシンボルとしてのアラジンの魔法のランプのレリーフとして彫られています。そしてこれらを足で踏みつけるようになっています。キリスト教の信仰のある人はもちろんですが、ない人も、ここでは大いなるものの前では海浜の砂粒の一つの存在なのですから、謙虚な心になって、しばし坐って心を鎮めて下さい。観光地ではないということを決してお忘れになりませぬよう。

 随所に医療機関のシンボルであるケリュケイオン(カドゥケウス)の杖が見られます。これは2匹の蛇が絡んだ杖を表しています。本来ならばアスクレピオスの杖(ギリシア神話で、名医アスクレピオスの持っていた蛇の巻きついた杖)なのですが、杖に巻き付いた蛇が共通しているため、しばしば混同されています。ケリュケイオンの杖は現代では商業や交通のシンボルとなっていて、商業教育機関の校章に採用されていることがあります。一橋大学の校章は、このケリュケイオンの杖です。確か陸上自衛隊の衛生科部隊のシンボルにもなっているはずです。

 この一帯にはまだまだ多くの史跡があるのですが、時間の関係で次に進みます。道を築地市場の方にとって下さい。そして適当なところで左折して隅田川の岸に出ましょう。そこは公園になっていて、なかなかよい景色です。この公園で対岸の観察をしましょう。左奥遠方には、高層マンションが建ち並ぶリバーシティー21が見えるでしょう。この辺りは江戸時代には石川島と呼ばれた島でした。寛政の改革ではここに人足寄場という、職業訓練所が設けられていました。江戸市中の遊民やならず者をここに隔離して、職業訓練をさせ、正業に就くように指導したのです。現在でも刑務所では出所後に自立できるように職業訓練をしていますね。同じような発想がすでに江戸時代にあったのです。素晴らしいことですね。刑務所で創られた家具の展示即売会を見ましたが、なかなか立派なものでした。ここには幕末には造船所がつくられ、石川島造船となり、石川島播磨重工業株式会社を経て、現在の株式会社IHIに至るのですが、本社は現在は豊洲に移転しています。

 その右方は佃煮の発祥地として知られる佃島です。佃島は家康が摂津国佃村の漁民をわざわざここに移転させて白魚の献上を義務づけ、代わりに江戸湾での漁業権を保障しました。今回は行きませんでしたが、そこには住吉神社が分祀されています。住吉社の総本社は摂津国にあり、神功皇后による縁起の伝承をもつ屈指の古社で、海の神として尊崇されています。それが江戸に鎮座しているのは、摂津の佃村から移転してきた漁民によって分祀されたからです。そこに住吉社があるということ自体に、歴史が隠れているのです。そういうことに気が付くかどうかで、同じ歴史散歩でも、中身の濃さが違ってきます。

 佃島の右方には月島があります。もっとも現在はつながっていて一つの島に見えますが・・・・。ただし月島は明治期に辺りの海底を浚渫した土砂で築かれた新しい島ですから、江戸時代の地図には見当たりません。月島というともんじゃ焼きが有名ですが、もんじゃ焼きと言う名前は、江戸時代の文字焼きが訛ったものです。ただし江戸時代の文字焼きは駄菓子の一種で、甘い物でしたから、名前が共通していても、味は全く異なるものであったはずです。

 さあ、晴海通りまで来ると、勝鬨橋(かちどきばし)が架かっています。ユニークな名前ですね。そもそも初めはここは橋ではなく、舟の渡しでした。明治38年1月18日、日露戦争における旅順陥落祝勝記念として、有志により築地と月島を結ぶ「勝鬨の渡し」が設置されたのです。旅順では苦戦が続いていただけに、その勝利は当時の人にとっては記念すべきものでありました。しかしそもそもなぜここに渡しを開設する必要があったのでしょうか。それは埋め立てが完了した月島には、石川島造船所の工場などが多く、多数の工場労働者が月島との間を毎日往復しなければならなかったからです。もちろん佃島への渡しも別にあったのですが、とてもそれくらいでは間に合わなかったようです。しかしそのうち舟の渡しくらいではさばけなくなり、渡しに代わって橋の建設が計画されました。昭和15年に国家的イベントとして計画された万国博覧会のメインゲートととしようとしたのです。そして昭和8年から7年をかけ、昭和15年に完成し、勝鬨の渡しに因んで命名されました。橋長246m、橋幅22m、橋梁総重量8480t、可動部全開角度70度、約70秒で全開になるということです。

 当時は、隅田川を航行する船舶が多かったため、橋を架けてしまうとそれらの船の航行に差し支えます。そこで陸運よりも水運を優先させる可動橋として設計され、大型船舶の通航を可能としたのでした。初めは 午前9時、正午、午後3時の1日3回、1回につき20分程度開いていたそうです。しかし昭和45年11月29日を最後に跳開されることはなくなってしまいました。その後隅田川に架かる「清洲橋」「永代橋」と共に平成19年6月に国の重要文化財に指定されました。この橋を再び開けようという活動もあるそうですが、現在では経済的損失が大きすぎて、単なる観光的人寄せくらいでは、開ける口実にはならないでしょう。

 橋の東詰には小さな博物館があります。無料ですのでぜひ立ち寄ってみましょう。中には橋を開くための巨大なモーターが展示されています。橋の重さを考えれば、このくらいはないとびくともしなかったでしょう。さらに開く際の支点が橋詰めに寄っていますから、橋詰め方にはバランスを保つための鉛の重りが付けられていたのですが、その一つが展示されています。鉛の塊ですから人の力くらいではびくともしないのですが、試しに挑戦してみて下さい。また左右から橋が降りて噛み合う金属部分が展示されています。櫛の歯のようになっていて、噛み合ってもわずかに隙間が空くようになっているのですが、気温が高いと橋が微妙に長く伸び、ぶつかってしまうそうです。昔のレールとレールのつなぎ目には、同じような目的で、わずか数㎜の隙間がありましたよね。車輪がそこを通過するたびに、心地よい音を響かせていたものでした。その他にも興味深い展示がありますから、是非立ち寄って下さい。見学が終わったら、橋の中央まで行ってみましょう。浜風が心地よく、かつて江戸時代には海だったところ。明治期には海軍の艦船が並んでいたのでしょう。

 午前9時に新橋駅をスタートして、この辺りでちょうど正午となりました。万歩計では人によって多少差がありましたが、8~9千歩くらいでした。ここで解散して、あとはそれぞれの懐具合と体力と相談して、目の前の場外市場でお昼にしました。ただどこも満員で、数人のグループでも一緒に座るのはなかなか難しそうでした。食べる時はなるべく少人数がよさそうです。

 ここまで書いたら、読み直して変換ミスなどをチェックする元気がありません。多少間違いがあるでしょうが、勘弁して下さい。後で元気のある時にもう一度見直しするつもりです。



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