かつて住んでいたことのある大宮(埼玉県さいたま市)に鉄道博物館ができたので、先日見学してきました。その中で私が特に興味を持ったのは、箱根越えに活躍した蒸気機関車です。箱根山は伊豆半島の付け根辺りに位置していて、東京~大阪間を結ぶ東海道線が避けて通れない鉄道の難所です。現在では丹那トンネル(完成は昭和9年)であっという間に通過してしまうのですが、トンネルがなかった頃は、箱根越えのため箱根山の外輪山を大きく迂回する、現在の御殿場線のルートを通っていました。それでも勾配は1/40(40m進んで1m登る)もあり、東海道最大の難所でした。とても一台の機関車では上りきれず、初めのうちは後押しをする機関車を最後尾に連結して、喘ぎながら上っていました。そこで大正元年、ドイツからマレー式蒸気機関車が輸入され、御殿場線に投入されたそうです。
マレー式機関車は、スイス人のマレーという技師によって開発された蒸気機関車で、ボイラーは一つであるのに、2組の走り装置(シリンダー・動輪など)を備えています。ボイラーで作られた蒸気はまず後方の高圧シリンダに送り込まれてピストンを動かし、続いてその蒸気をそのまま外に排出せず、管で前方の低圧シリンダーに導き、別のピストンを駆動してから排出される。蒸気を無駄なく使い切ろうというわけです。また低圧シリンダーを備えた前部台枠は、後部台枠とは関節のように連結され、曲線に沿って首を振る構造となっています。つまり1両の機関車に2両分の走り装置を備えているため、牽引力が強化され、また前方台枠が首を振るように動くので、半径の小さな曲線にも対応できるという長所を持っています。しかし構造が複雑になるために高価となり、また保守管理に手間がかかるのが欠点で、大正元年に試験的に導入されたのですが、結局、昭和8年には年には全廃されてしまったそうです。
鉄道博物館にはこのマレー式蒸気機関車が展示されているのですが、これを見ながら私は童謡「汽車ぽっぼ」を思い出しましたる。歌詞は次の如くです。
『汽車ぽっぽ』 作詞・作曲 本居長世
お山の中行く汽車ぽっぽ ぽっぽぽっぽ黒いけむを出し しゅしゅしゅしゅ白い湯気ふいて
機関車と機関車が前引き後押し なんだ坂こんな坂なんだ坂こんな坂
トンネル鉄橋ぽっぽぽっぽ トンネル鉄橋しゅしゅしゅしゅ
トンネル鉄橋トンネル鉄橋 トンネルトンネルトントントンとのぼり行く
『汽車ぽっぽ』が発表されたのは昭和2年のこと。すでにマレー式機関車が活躍していましたが、機関車一台では牽引力が足らず、下り列車は国府津駅で、上り列車は沼津駅で、それぞれに補助機関車を最後尾に連結し、最高地点の御殿場駅を目指して喘ぐように上っていました。歌詞の「機関車と機関車が前引き後押し」はその様子を表しているのです。子供の頃には何も気が付かずに歌っていたのですが、改めてマレー式蒸気機関車を見ながら、歌詞の意味を実感したのです。
それにしてもこの歌詞の出来は素晴らしいものです。「黒いけむ」と「白い湯気」、「ぽっぽぽっぽ」と「しゅしゅしゅしゅ」、「トンネル」と「橋」を対比させ、「前引き後押し」では客観的に正確に描写すると同時に、「なんだ坂こんな坂」と擬人的主観的にに表して子供の心になりきっている。また「トンネルトンネルトントントン」というようにリズム感にあふれ、まるでとんとん拍子のように上って行く様子を耳に心地よく表現しています。
また歌詞と曲とが一体になっていることも素晴らしいところです。特に「なんだ坂こんな坂なんだ坂こんな坂」の部分では、メロディーその物が奮闘する機関車をよく表現しています。また「トンネルトンネルトントントンとのぼり行く」の部分では、曲の音程も上って行くので、歌詞の内容と一致しています。改めて鑑賞してみると、子供には理解しきれなくとも、完成度の高い歌であることがわかるのです。
蒸気機関車の童謡と言えば、もう一つ見逃せないものがある。曲名は同じく『汽車ポッポ』で、富原薫作詞、草川信作曲。
汽車汽車 ポッポポッポ シュッポシュッポシュッポッポ
僕等をのせて シュッポシュッポシュッポッポ
スピードスピード窓の外 畑もとぶとぶ家もとぶ
走れ走れ走れ 鉄橋だ鉄橋だ たのしいな
この歌は平成19年に日本の歌百選に選出されていて、SLの体験のない世代にも知られています。しかし昭和12年発表された時は、『兵隊さんの汽車』という題名でした。
汽車汽車 ポッポポッポ シュッポシュッポシュッポッポウ
兵隊さんを乗せて シュッポシュッポシュッポッポウ
僕等も手に手に日の丸の 旗を振り振り送りませう
萬歳萬歳萬歳 兵隊さん兵隊さん 萬々歳
歌詞は現在のものとかなり異なっていて、蒸気機関車に乗って出征する兵士を、子供たちが日の丸の小旗を振って見送る内容でした。作詞者の富原は静岡県駿東郡御厨町(現在の御殿場市)で教員として働いていたということで、富士裾野演習場(現在は自衛隊の東富士演習場)から出征する兵士を見送ることは、作詞者にとっては見慣れた風景であったようです。もっとも昭和9年に丹那トンネルはすでに開通し、それとほぼ同時に熱海~-沼津間が電化複線化されているから、御殿場線を蒸気機関車が走ることも少なくなったことでしょう。後に昭和20年の大晦日に紅白歌合戦の前身となるラジオの『紅白音楽試合』で、童謡歌手川田正子がこの曲が歌うことになったのですが、時節がら「兵隊さん万歳」では歌えないため、作詞者本人に依頼して現在の歌詞に改作されたものということです。
期せずして思い浮かんだ蒸気機関車の二つの童謡が、いずれも箱根越えの御殿場線の風景であったことは、新鮮な驚きでした。鉄道初物間の展示説明ではこれらの童謡について触れられていなかったので、一言言及しておけば、古い世代の人にとっては、感慨深く見学できると思うのですが、一寸残念なことでした。
マレー式機関車は、スイス人のマレーという技師によって開発された蒸気機関車で、ボイラーは一つであるのに、2組の走り装置(シリンダー・動輪など)を備えています。ボイラーで作られた蒸気はまず後方の高圧シリンダに送り込まれてピストンを動かし、続いてその蒸気をそのまま外に排出せず、管で前方の低圧シリンダーに導き、別のピストンを駆動してから排出される。蒸気を無駄なく使い切ろうというわけです。また低圧シリンダーを備えた前部台枠は、後部台枠とは関節のように連結され、曲線に沿って首を振る構造となっています。つまり1両の機関車に2両分の走り装置を備えているため、牽引力が強化され、また前方台枠が首を振るように動くので、半径の小さな曲線にも対応できるという長所を持っています。しかし構造が複雑になるために高価となり、また保守管理に手間がかかるのが欠点で、大正元年に試験的に導入されたのですが、結局、昭和8年には年には全廃されてしまったそうです。
鉄道博物館にはこのマレー式蒸気機関車が展示されているのですが、これを見ながら私は童謡「汽車ぽっぼ」を思い出しましたる。歌詞は次の如くです。
『汽車ぽっぽ』 作詞・作曲 本居長世
お山の中行く汽車ぽっぽ ぽっぽぽっぽ黒いけむを出し しゅしゅしゅしゅ白い湯気ふいて
機関車と機関車が前引き後押し なんだ坂こんな坂なんだ坂こんな坂
トンネル鉄橋ぽっぽぽっぽ トンネル鉄橋しゅしゅしゅしゅ
トンネル鉄橋トンネル鉄橋 トンネルトンネルトントントンとのぼり行く
『汽車ぽっぽ』が発表されたのは昭和2年のこと。すでにマレー式機関車が活躍していましたが、機関車一台では牽引力が足らず、下り列車は国府津駅で、上り列車は沼津駅で、それぞれに補助機関車を最後尾に連結し、最高地点の御殿場駅を目指して喘ぐように上っていました。歌詞の「機関車と機関車が前引き後押し」はその様子を表しているのです。子供の頃には何も気が付かずに歌っていたのですが、改めてマレー式蒸気機関車を見ながら、歌詞の意味を実感したのです。
それにしてもこの歌詞の出来は素晴らしいものです。「黒いけむ」と「白い湯気」、「ぽっぽぽっぽ」と「しゅしゅしゅしゅ」、「トンネル」と「橋」を対比させ、「前引き後押し」では客観的に正確に描写すると同時に、「なんだ坂こんな坂」と擬人的主観的にに表して子供の心になりきっている。また「トンネルトンネルトントントン」というようにリズム感にあふれ、まるでとんとん拍子のように上って行く様子を耳に心地よく表現しています。
また歌詞と曲とが一体になっていることも素晴らしいところです。特に「なんだ坂こんな坂なんだ坂こんな坂」の部分では、メロディーその物が奮闘する機関車をよく表現しています。また「トンネルトンネルトントントンとのぼり行く」の部分では、曲の音程も上って行くので、歌詞の内容と一致しています。改めて鑑賞してみると、子供には理解しきれなくとも、完成度の高い歌であることがわかるのです。
蒸気機関車の童謡と言えば、もう一つ見逃せないものがある。曲名は同じく『汽車ポッポ』で、富原薫作詞、草川信作曲。
汽車汽車 ポッポポッポ シュッポシュッポシュッポッポ
僕等をのせて シュッポシュッポシュッポッポ
スピードスピード窓の外 畑もとぶとぶ家もとぶ
走れ走れ走れ 鉄橋だ鉄橋だ たのしいな
この歌は平成19年に日本の歌百選に選出されていて、SLの体験のない世代にも知られています。しかし昭和12年発表された時は、『兵隊さんの汽車』という題名でした。
汽車汽車 ポッポポッポ シュッポシュッポシュッポッポウ
兵隊さんを乗せて シュッポシュッポシュッポッポウ
僕等も手に手に日の丸の 旗を振り振り送りませう
萬歳萬歳萬歳 兵隊さん兵隊さん 萬々歳
歌詞は現在のものとかなり異なっていて、蒸気機関車に乗って出征する兵士を、子供たちが日の丸の小旗を振って見送る内容でした。作詞者の富原は静岡県駿東郡御厨町(現在の御殿場市)で教員として働いていたということで、富士裾野演習場(現在は自衛隊の東富士演習場)から出征する兵士を見送ることは、作詞者にとっては見慣れた風景であったようです。もっとも昭和9年に丹那トンネルはすでに開通し、それとほぼ同時に熱海~-沼津間が電化複線化されているから、御殿場線を蒸気機関車が走ることも少なくなったことでしょう。後に昭和20年の大晦日に紅白歌合戦の前身となるラジオの『紅白音楽試合』で、童謡歌手川田正子がこの曲が歌うことになったのですが、時節がら「兵隊さん万歳」では歌えないため、作詞者本人に依頼して現在の歌詞に改作されたものということです。
期せずして思い浮かんだ蒸気機関車の二つの童謡が、いずれも箱根越えの御殿場線の風景であったことは、新鮮な驚きでした。鉄道初物間の展示説明ではこれらの童謡について触れられていなかったので、一言言及しておけば、古い世代の人にとっては、感慨深く見学できると思うのですが、一寸残念なことでした。
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