桜が三分咲きくらいになってきました。少し遅れてそろそろ山吹も咲き始めます。我が家の周辺には野生の一重の山吹がたくさん咲いていて、狭い庭にはこれといった花の咲く木もないのに、十分に楽しんでいます。野生の山吹は少々日当たりが悪いくらいがちょうどよいのでしょうか。雑木の間を埋めるように繁茂しています。調べてみると、乾燥したところは苦手だそうで、湿気のある方が適しているそうです。成ほど、一つ合点がゆきました。
それは山吹を詠んだ和歌をずらりと並べてみると、山吹が生育していた環境は水辺であることを推測させる歌がたくさんあるのです。まずはそれらを上げてみましょう。
①かはづ鳴く神奈備川に影見えて今か咲くらむ山吹の花 (万葉集 1435)
②吉野川岸の山吹ふく風に底のかげさへ移ろひにけり (古今集 春 124)
③花ざかりまだも過ぎぬに吉野河影にうつろふ岸の山吹 (後撰集 春 121)
④沼水にかはづ鳴くなりむべしこそ岸の山吹さかりなりけれ (後拾遺 春 158)
⑤限りありて散るだに惜しき山吹をいたくな折りそ井出の川波 (金葉集 春 77)
⑥吉野川岸の山吹咲きぬれば底にぞ深き色は見えける (千載集 春 114)
⑦岩根こす清滝河のはやければ浪折りかくる岸の山吹 (新古今 春 160)
まだまだたくさんあるのですが、各歌集一首ずつ上げてみました。歌の意味はいずれもわかりやすく、「岸の山吹」が慣用的に詠まれていることがわかります。また花の影が水面に映ると詠んだり、波が枝を折るというのですから、水際に咲いていると推測されます。「かはづ」とセットに詠まれていることも特徴ですが、これについて、はいずれ改めてお話しするつもりです。神南備川・吉野川・清滝川が詠まれていますが、いずれも山地の清流で、葦の茂るような下流ではありません。
このように、山吹は清流の岸に咲くものであり、水に映る姿が特に喜ばれたのです。また川の流れに浮かぶ山吹の花を意匠化した「山吹水紋」という紋章がありますが、このような山吹理解に基づくものと言うことができるでしょう。そのような山吹の理解は近世まで伝えられていたことは、松尾芭蕉の「ほろほろと山吹散るか滝の音」という俳諧によっても明かです。もし野生の山吹が清流の波が洗うような所に咲いていることがあれば、それこそ千金の値ある見ものなのですから、十分に堪能して下さい。