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『閑吟集』現代語戯訳1 (100番歌まで)

2023-09-06 08:27:00 | 歴史
『閑吟集』現代語戯訳 1(100番歌まで)


 室町時代の小歌などの歌詞集である『閑吟集』を、私なりに現代語訳にしてみました。現代語訳はネット上にも多く、出版もされていますから、今さら古典文芸の専門家でもない私が訳す程のことはないので、今もそのまま歌の歌詞になるようにと、五音と七音を活かして訳してみました。その制約があるため、当然ながら大胆な意訳をせざるを得ず、正確な現代語訳にはなっていません。出版されている注釈書と異なることもありますが、もともとが歌ですから、人によって解釈に幅があるのはやむを得ません。高校の日本史の授業の教材研究の合間に、面白半分にやってみただけのことですから、お許し下さい。
 〇は原文、◎は私の現代語訳、◇は私のコメントです。ただ所詮は素人ですから、解釈に誤りがあるかもしれませんし、日本史の教諭が私の本職ですから、目の付け所が文芸的ではありません。 



〇いくたびも摘め 生田の若菜 君も千代を積むべし  2番歌
◎いくたびも摘んであげましょ 生田の若菜 菜を摘むほどに齢(よわい)も積んで 目出度く千歳となればよい
◇新春に野辺で若菜を摘み、それを贈って相手の長寿を祈念する歌ですから、この歌は年始のめでたい席で歌われたものでしょう。若菜の葉を「摘む」ことと、「年の端(は・葉)」を「積む」ことを掛けていますが、それは若菜を摘めば摘む程、「年の端」(年齢のこと)を積んで長生きできると信じられていたからです。この様に長寿を祈念して若菜を摘む歌は、王朝和歌には枚挙に暇がありません。新春の若菜摘みや七草粥は、現在では厄除けのためと説明されていますが、文献史料で見る限りでは、室町時代以降のものです。本来はこの歌にあるように、長寿を祈念するまじないでしたから、それが室町時代にも継承されていることを確認でき、歴史学的には重要な史料です。現代語訳とはいうものの、原歌は「いくたび」と「生田」の頭韻「いくた」をそろえていますので、現代語訳でもそこは崩すわけにはいきませんでした。生田は現在の神戸市にある歌枕で、王朝和歌では若菜摘みで知られていました。韻をそろえたり同音異義語による掛詞を用いたり、内容も王朝和歌に倣ったものであることからすれば、『閑吟集』を深く読むためには、古歌の知識が不可欠であることがよくわかります。これ以後も古歌を踏まえた歌がたくさん登場しますので、納得していただけることでしょう。

〇木の芽春雨降るとても 木の芽春雨降るとても なほ消えがたきこの野辺の 雪の下なる若菜をば 今幾日(いくか)ありて摘ままし 春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞みて白雪の 消えし跡こそ路となれ 4番歌
◎木の芽も張るの春雨降れど 野辺の白雪まだ残る 埋もれて見えない雪間の若菜 幾日待てば摘めるのか
 春が立ったというならきっと 吉野の山にも春霞 山の白雪ようやく消えて 消えたそばから路となる 
◇この歌は伝世阿弥作の謡曲「二人静」のほぼ冒頭に近い部分から、そのまま採られています。「二人静」の粗筋は次の様なものです。吉野山の勝手神社の女(菜摘女)が、正月七日の七種の神事に必要な若菜を摘みに行くと、里の女が現れて、自分を供養してくれるように頼みます。神職にこのことを告げると、供養を頼んだ女の霊が菜摘女にのり移り、静御前の霊であると称します。そして神社に伝えられていた静の舞装束を身につけて菜摘女が舞い始めると、同じ姿の静の霊が現れ、義経と雪の吉野山で別れた悲しみを語り、再び供養を頼んで消えてしまったと言う話です。「二人静」という題は、この舞の情景から採られているわけです。
 この歌は、多くの古歌を踏まえていて、古典和歌に詳しい人なら、思い当たる歌がたくさんあることでしょう。「木の芽はる(張る)」は木の芽が膨らむという意味なのですが、春には木の芽が膨らむことから、「春」に掛かる枕詞となっていて、「木の芽はる雨」は慣用的に歌に詠まれていました。また春雨が降ると野辺の緑が色濃くなるので、「春雨は野辺のかぞいろ(両親のこと)」と詠み、春雨は野辺を育む親であるという理解が共有されていました。要するに春雨と野辺の緑は相性のよい取り合わせだったのです。「雪の下なる若菜をば 今幾日(いくか)ありて摘ままし」の部分は、「春日野の飛ぶ火の野守出でて見よ今幾日ありて若菜摘みてむ」(古今和歌集』19)が下敷きになっていることは明らかです。また雪の消えやらぬ野辺の若菜は、「雪間の若菜」と称して、白と緑の対比が美しく、雪と若菜を一緒に詠むことが、若菜摘みの歌の常套でした。「春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞みて」の部分は、「春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は看らん」(『拾遺和歌集』1)を踏まえています。吉野は雪が早く降り、いつまでも消え残る所という理解があり、春が立つと都人は吉野山の雪はどんな様子かと、思いを馳せるものという理解も共有されていました。雪がまだらにとけてくると、山肌が見え始めるのですが、現代人にはただ単に山肌が見えるようになったということに過ぎませんが、自然を擬人的に理解していた古人にとっては、それは春や新年が山を越えてやって来る道であり、またその足跡であるという理解することがあったのです。

〇めでたやな 松の下 千代も引く千代 千代千代と  6番歌
◎めでたいことよ 千代松の下 千代を祈って 小松を引けば 千代千代千代の 後までも
◇古来、新年には長寿を記念する様々な風習が行われてきましたが、現代も続く門松はその一つです。この歌も4番歌と同じ様に、新春のめでたい席で歌われたものでしょう。平安時代には門松を立てる風習に先立って、小松引きという行事が行われていました。その年最初の子(ね)の日に、野辺に出て芽生えて間もない小松(若松)を根ごと引き抜いて持ち帰り、長寿を祈念して植えるのです。これは「子の日の小松」「小松引き」とか、単に「子の日」と呼ばれました。この歌の「千代も引く」の「引く」とは、明らかにこの小松引きに拠る言葉で、5番歌にも「小松引けば」と詠まれています。そして11世紀中頃には門松の風習が派生します。ただし松の長寿にあやかるという発想は、早くも『万葉集』(1043番歌)に見られます。そして唱歌「荒城の月」に「千代の松ヶ枝」と歌われている様に、「千代松」の理解は、現在まで継承されているわけです。門松について一般には年神を招く依り代であると説明されることがあるのですが、そのような信仰を示す古文献は皆無であり、とんでもない出鱈目です。なお「めでたやな」の「な」は詠嘆を表す終助詞です。

〇誰(た)が袖ふれし 梅が香ぞ 春に問はばや 物言う月に 逢ひたやなう  8番歌
◎どなたの袖が触れたのか 梅の移り香なお残る  昔恋しい春の夜 月に問うてはみたものの 
◇どこからともなく梅の花の香りが漂って来る春の夜、月を見ては昔を思い起こす場面のようです。微かな香りだけを記憶に残して別れてしまった恋人に、なお心惹かれている歌かもしれません。この歌は、「梅の花誰が袖ふれし匂ひとぞ春や昔の月に問はばや」(新古今 46)を本歌としています。微かな梅の花の香りを香をたきしめた衣の香に擬えたり、月を見て昔を懐かしく思い起こすのは、王朝和歌にしばしば見られる趣向です。懐旧の月の歌としては、阿倍仲麻呂が唐から帰国を前にして詠んだ「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」という歌がよく知られています。古歌には梅と月を共に詠み込んだ歌が数え切れない程あります。夜は暗いため、視覚より嗅覚が敏感となり、梅の香が際立つものなのですが、その様な美意識は、室町時代には継承されていたわけです。『閑吟集』全体に言えることですが、流行歌とはいえ、しっかりと古歌の知識に裏付けられていますから、当時の庶民の歌学的知識は、相当に豊かなものだったことがわかります。「・・・・なう」という終助詞は、中世以降に使われるようになったもので、相手に同意を求めるような余韻があり、『閑吟集』には多く用いられています。これは『閑吟集』の歌には、宴席で歌われた歌が多いということと無関係ではないでしょう。

〇只(ただ)吟ジテ臥スベシ 梅花ノ月 仏ニ成リ天ニ生マルルモ惣(すべ)テ是(これ)虚(きょ)  9番歌
◎浮き世では 月影に浮かぶ梅を愛で 床に臥しては歌を詠み 思うがままにするがよい 西の彼方の極楽に 仏と成って生まれても いったいそれが何になる
◇梅の香の漂ってくる春の月夜、床に横たわりながら独り静かに、それこそ「閑吟」する場面でしょう。漢文に直せば「只吟可臥梅花月 成仏生天惣是虚」という漢詩なのですが、これに類する詩句は五山僧の詩文にたくさんあるそうです。本来は五山の臨済宗で生死も世間の一切のものも全て空であると、「空」の境地を説いた偈(禅僧が悟境を表した韻文)なのでしょう。「天に生まれるのも仏になるのも、全て虚である。ただ梅花の月に吟ずべし」という理解は、本来は仏教的「空」の思想に基づいた自然理解であって、虚無的な享楽主義・刹那主義を説くものではありません。しかしその境地を理解できない凡人は、逆説的真理には心が及ばず、「来世のことより現世のこと」と、刹那的・享楽的に理解してしまうのです。月夜の梅は、それ程に美しい情趣なのでしょう。それにしても現代人は、昼間の梅を愛でこそすれ、月影に浮かぶ幻想的な白梅の美しさを愛でることは少ない様に思います。少々脱線しますが、羊羹で知られる和菓子の老舗である虎屋に、「夜の梅」という銘菓があります。羊羹を切ると、断面に黒っぽい餡の色を背景に、小豆の粒が白く朧に浮かんで見えるのですが、それがまるで夜の梅の花のようだというのでしょう。店の説明によれば、元禄年間以来のものというので驚いたのですが、何とも典雅な名前を付けたものと感心しました。

〇梅花(ばいか)は雨に 柳絮(りゅうじょ)は風に 世はたゞ嘘に揉まれゆく  10番歌
◎梅の花が雨にこぼれてゆくように 柳の絮(綿・わた)が空に乱れてゆくように 私の恋も嘘にまみれて消えてゆく
◇季節の移ろいが儚い様に、世の中ことは偽りに翫ばれているというのですが、「世」とはこの場合は「男女の仲」と理解した方がよさそうですから、恋の儚さを嘆いているわけです。「嘘に揉まれる」というのですから、恋に振り回される程の葛藤があったのでしょう。現代語訳では、梅の花が散ることを少々気取って「こぼれる」と表現しましたが、古歌にその様な表現があるわけではありません。柳絮とは現代人にはあまり馴染みがありませんが、柳の綿状の種子のことで、柳の仲間のポプラや湿地に生い立つ川柳(ネコヤナギ)の類によく見られます。ポプラの多い札幌では、舞い上がった柳絮が道路や公園に降り積もり、まるで初雪の様に見えます。ただし柳には雄株と雌株があり、柳絮は雌株にしか見られません。柳絮が飛び散るのは晩春から初夏にかけての頃ですから、夏の到来を感じさせる景物です。日本では歌に詠まれることは少ないのですが、柳はもともと漢人好みの樹木で、漢詩にはよく詠まれています。その影響でしょうか、五山僧の詩文からは、「花落絮飛」に類する句が夥しく見つかります。ただし春の景色として詠むのではなく、禅問答や宗教観・人生観を表す句として詠まれています。この歌の作者はその様な禅宗の知識を知っていて、それを庶民感覚で捉え、恋の歌に仕立て直したわけです。綿毛をよくよく観察すると、芥子粒ほどの種子が隠れているのですが、風に吹かれると、一斉に空に溶けるように見えなくなってしまいます。それと同じ様に、世の中のことは空虚に過ぎないというのでしょう。

〇吉野川の花筏(いかだ) 浮かれてこがれ候よの 浮かれてこがれ候よの   14番歌
◎私ゃ吉野の花筏 浮いて浮かれて流されて 漕いで焦がれているばかりなの
◇恋い焦がれても結局は流されてしまう恋を、自虐的に詠んだ歌でしょう。この歌は一種の謎解きになっています。それは原歌に「身は」を補ってみるとよくわかります。我が身を「吉野川の花筏」と解く。その心は、「筏は浮かれて漕がれ」るが、我が身は「浮かれて焦がれる」というわけです。「よの」は感動を表す間投助詞で、念を押して同意を求める場合に用いられました。現代語に直せば「・・・・だよね」といったところでしょうか。同じ様な働きを持つ「なう」と共に『閑吟集』に多く見られるのですが、それは宴席で歌われた歌であった可能性が高いことを暗示しています。吉野川は吉野山と共に桜の名所です。川面に浮いて流れる花びらは、筏になぞらえられて「花筏」と呼ばれるのですが、「筏」からの連想で、「漕がれる」に「焦がれる」が掛けられています。「浮」は「恋い焦がれて浮き浮きする」という意味にも、「さだめなき浮き世に流される」という意味にも理解できます。どちらにしても、川に浮き身を任せて恋に流されてゆくというのでしょう。

〇人は嘘(うそ)にて暮(くら)す世に なんぞよ燕子(えんし)が 実相を談じ顔なる  17番歌
◎人は皆 嘘にまみれて暮らす世に 梁(はり)の燕(つばめ)は 悟りすまして
◇この歌では、嘘と実相(仮の姿の奥にある真実の姿)が対句となっているところが眼目です。禅僧の語録や詩文には、「梁の燕、実相を談ず」「燕、真常を説く」「燕、禅を談ず」「燕子、般若を談ず」などという詩句がいくつもあり、燕が禅的真理を悟っているという理解が、禅僧に共有されていました。「世」には「世間」とも「男女の仲」という意味もありますから、真理を悟ったような顔つきが殊更に小面憎く見えるとして、梁の燕に当たっている場面でしょうか。そうであればこそ、「嘘」と「実相」の対句が活きてくるわけです。「梁の燕」と言えば、斎藤茂吉に、「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳ねの母は死にたまふなり」とい短歌があります。彼は正岡子規の説いた「写生」をさらに昇華させて、「実相観入」(実相に観入して自然・自己一元の生を写す)を主張しました。茂吉はなぜ母の死の歌に梁の燕燕を詠み込んだのか。なぜ燕でなければならなかったのか。家の中というなら、壁にヤモリが張り付いていたでもよかったのではないか。いろいろ疑問が湧いてきます。しかし茂吉の歌の解説をいくら探しても説き明かされていません。しかし私は、確証があるわけではありませんが、精神科医でもあった茂吉はこの禅語を知っていたのではないか、母の死の場面にたまたま燕がいたというのではなく、梁の燕に何らかの宗教的意味を感じ取ったのではないかと思っています。

〇吹くや心にかかるのは 花のあたりの山颪(やまおろし) 更(ふ)くる間を惜しむや まれに逢ふ夜なるらむ このまれに逢ふ夜なるらむ  22番歌
◎風吹けば 心にかかるは山風の 花を散らして吹き下ろすこと 夜更ければ 惜しまれるのはまれにしか 逢えない夜の もう明けること 逢えない夜の明けること 
◇稀にしか訪ねて来ない男との逢瀬の夜を惜しむ心を、強い風に散らされる桜花を惜しむ心になぞらえている場面で、全体が対になって構成されています。「吹く」と「更く」が掛けられていることはすぐにわかります。深刻な内容でも、宴席でこの様な言葉遊びにしてしまえば、やんやの喝采を浴びたことでしょう。

〇散らであれかし桜花 散れかし口と花心  25番歌
◎散るを惜しむは桜の花よ 散るを待つのは浮かれる花よ
◇人は美しくも儚く散る桜の花を、咲くまでは今日か明日かと心待ちにし、咲いてからは散るのを惜しむものです。桜を詠んだ歌では、咲くのを待つより、散るのを惜しむ歌の方が圧倒的に多いのですが、このことは、儚いものに心を寄せる日本人の感性に拠っているのでしょう。一方、好意を寄せる相手の言葉は、とかく口先だけのことが多く、どこまで信じてよいのやら、本心とは限らないものです。口では甘い言葉を語っても、恋心は移ろいやすいもので、すぐに散ったり色移りする花になぞらえて、古くから「花心」と呼ばれました。桜の花が散ることは惜しまれますが、移ろいやすい心の花が散ることは、ただ恨めしさが残るだけです。そんなに簡単に散ってしまう花なら、いっそのことさっさと散ってしまえというわけです。終助詞の「かし」は、柔らかい物言いで念を押すことを表し、現代語ならば「・・・・だよね」といったところでしょう。全体が「散れ」と「散るな」の対句になっていますので、現代語訳でも「惜しむ」と「待つ」の対句にしてみました。

〇神ぞ知るらん春日野の 奈良の都に年を経て 盛りふけゆく八重桜 盛りふけゆく八重桜 散ればぞ誘ふ誘へばぞ
散るはほどなく露の身の 風を待つ間のほどばかり 憂きこと繁くなくも哉 憂きこと繁くなくも哉 28番歌
◎神しらしめす神代より 春日(はるひ)のどかな春日野の 奈良の都の八重桜 盛りも過ぎた姥桜 花散るほどに風誘い 風が誘えば散り急ぐ 露のこの身もほどもなく 同じく風を待つばかり 憂きことなくと祈るのみ
◇古来、奈良は八重桜の名所として、王朝和歌にはしばしば詠まれていました。「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」の歌はよく知られています。また『徒然草』139段には、「八重桜は、奈良の都にのみありけるを、この比ぞ、世に多く成り侍はべるなる」と記されていて、奈良ゆかりの花と理解されていました。因みにこれらのことが縁で、八重桜は奈良県・奈良市の花に選ばれています。「八重」には年を重ねるという老齢の印象もあったのでしょう。老体を奈良の八重桜の古木になぞらえて、短いであろう余生に憂きことのないようにと願う場面です。上句は「春日野に若菜摘みつつ万代(よろづよ)をいはふ心は神ぞ知るらむ」(古今和歌集357)に拠っていると思われます。

〇花ゆゑゆゑに あらはれたよなう あら卯の花や 卯の花や 30番歌
◎花にもまさるあなたのせいで 知られてしまった恋の中 ああ卯の花の卯の字のせいで 憂えがまさるなおまさる
◇世間に知られない様に隠していた恋仲が、世間に知られてしまって困惑している歌と見ました。「花ゆゑに」を「あなたが花のように美しすぎるため」と理解してみたのですが、「花を見に行って」「花がきっかけで」と解釈できないこともありません。しかしそれでは恋の色気が全く感じられないので、その説は採りません。女が自らを「花」とは言わないでしょうから、男が詠んだ歌だと思います。卯の花は唱歌「夏は来ぬ」にも詠まれているように、初夏の花です。おからを卯の花と呼ぶように、真っ白な小さな花が房状に咲きますから、初夏の新緑に映えて、初々しい美しさがあります。王朝和歌以来、垣根の植栽として好まれていたのですが、近年では生け垣に植えられることは滅多になくなってしまいました。古歌では花そのものが詠まれるだけでなく、「う」という音により、「憂え」(うれえ)を導く序詞にもなっていました。ここでも露骨に「憂え」とは詠まずに、心配事を意味する「憂え」を、上品に卯の花で表しています。それは「卯の花」と言えば、当時は誰もが「卯の花の憂え」を連想するだけの歌の知識があったから可能だったのです。現代の若い人ならば、卯の花そのものを知らない可能性が高く、中には「豆腐のおからとどんな関係があるのか?」とすら思ってしまうかもしれません。私が指導した高校生は、豆腐のおからさえ知りませんでしたから。

〇新茶の若立ち 摘みつ摘まれつ 挽(ひ)いつ振られつ それこそ若い時の 花かよなう  32番歌
◎新茶の若芽の若立ちを あなたと摘んだらつねられて 臼で挽いたら袖引かれ 篩(ふるい)振ったり振られたり 若い今だけ花が咲く
◇この歌は、若いカップルが茶摘みや製茶をしながら、戯れている場面で、「摘み」の「つ」に引かれて、「つ」の連続に心地よいリズムがあり、人だけでなく、歌そのものも活き活きしています。完了を表す助動詞では、「ぬ」と「つ」がよく似ていますが、「ぬ」が無意志的であるのに対して、「つ」は意志的動作に用いられますから、若い男女が茶摘みをしつつ、承知でじゃれ合っているのでしょう。こんなことができるのも、若いうちだけだというわけです。新茶には若い芽だけが摘まれますから、茶葉の「若立ち」と娘の「若い時」には、共通する音と意味があります。「若芽を摘む」「臼で挽く」「篩でふるう」などはいずれも製茶の過程であり、室町時代には、喫茶の風習が庶民にも普及していたことがわかる歌です。

〇かれがれの 契りの末は あだ花の 契りの末は あだ花の 面影ばかり 添ひ寝して あたり寂しき 床の上 涙の波は 音もせず 袖に流るる 川水の 逢瀬はいづくなるらん 逢瀬はいづくなるらん  34番歌
◎かたい約束したはずなのに 二人の仲は今にもかれて 実を結ばずに散る花よ 添い寝するのは面影ばかりで 独り寂しい床の上 袖しぼらせる涙の川を 渡る逢瀬はどこにある
◇この歌は、疎遠になってしまったことを嘆いて、おそらくは女が涙を流している場面でしょう。「かれがれ」は漢字で表現すれば「離れ離れ」であり、これで「かれがれ」と読みます。「かる」とは表面では「枯れる」ですが、裏では「離れる」こと、つまり関係が疎遠になることを意味しています。それは百人一首に収められた「山里は冬ぞ寂しさまさりける 人目も草もかれぬと思へば」という歌を思い出せば、納得していただけることでしょう。「末の契り」というのですから、将来を堅く約束したはずだったのに、男が訪ねて来なくなり、添い寝をしてくれるのは、以前の面影ばかりだというのです。それでもまだ「逢ふ瀬」がありそうですから、歌の中の二人は、完全に別れてしまったのではなく、何か訳あって距離が離れているのかもしれません。「袖に流るる川」という言葉がありますから、縁語の「逢ふ瀬」という言葉も活きてくるわけです。

〇おもかげばかり残して 東(あづま)の方(かた)へ下りし人の名は しらしらと言ふまじ 35番歌
◎面影だけを残しおき 逢坂山の関越えて 往ってしまったあの人の 名前は胸に秘めおいて 決して口には出しませぬ
◇この歌は、東国に下っていった男を追いかけたくても、何かの事情でそれが叶わず、都に留まらざるを得なかった女の恋慕の情を歌ったものでしょう。「東国」は現代人にとってはただ単に東の地域に過ぎませんが、古には山城国と近江国の境にある逢坂の関より東方のことでした。そして東国へ往く人との別れは逢坂の関と決まっていましたから、古の人にとって「東国」と聞けばすぐに「逢坂の関」を連想しました。また「逢」という字が用いられているため、逢坂は恋に関わる歌枕として、『万葉集』以来多くの歌が詠まれてきました。「相坂の関し正(まさ)しきものならば飽かず別るる君をとどめよ」(古今集 374番歌)という歌は、「逢坂」が東国への入口であり、別れの場所でもあったことをよく表しています。また百人一首に収められている「これやこの行くも帰るも別れつつ知るも知らぬも逢坂の関」(後撰集1089番歌)の歌も同様です。「しらしら」は「はっきりと」という意味です。

〇さて何とせうぞ 一目見し面影が 身を離れぬ  36番歌
◎さては何としたものか ちらりと見かけただけなのに 姿が心に焼き付いて 私の身から離れない 
◇女を一目惚れしてしまった男の、自分でもどうしようもないもどかしい心を詠んだのでしょうか。もちろん男女が逆になってもよいのですが。そもそも一目惚れは、その場限りの勘違であったという危険を孕んでいますから、危うい恋の始まりです。「忘れられない」というのではなく、その人の「面影」が、自分の意志とは関係なく我が身から離れてくれないという突き放した表現には、滑稽さと深刻さがあります。「焼き付く」のは普通は「脳裏」なのでしょうが、言葉の印象が堅くなるので選びませんでした。

〇柳の陰に御待ちあれ 人問はゞなう 楊枝木(ようじぎ)切るとおしあれ  42番歌
◎柳の陰で待っててね 誰を待つのと問われたら 楊子にする枝切ってると ねえ そういうことになさってね
◇男と女がこっそりと逢う約束をして、待っているのを怪しまれた時の言い訳を、女が男に教えている場面です。楊子は文字通り楊(柳)で作るのでその名がありますから、尤もらしい理由になるわけです。柳の陰というところに、何とも言えぬ色っぽさが滲んでいます。私の考えすぎかもしれませんが、柳の枝を折ることは、中国では再会を期待するまじないに用いられていました。日本でも料亭や遊郭の入口に柳が植えられることがありましたが、その名残かもしれません。「おしあれ」(おしある)は「言う」の丁寧な表現で、現在ならば「おっしゃれ」(おっしゃる)となりますから、現代語訳でも丁寧な女言葉になるように留意しました。 

〇雲とも煙(けぶり)とも 見定めもせで 上の空なる 富士の嶺にや  43番歌
◎高嶺の雲か火を噴く煙か よく見定めてごらんなさいな 思いこがれの富士の山見て あなたの心は上の空
◇言葉の数が少ないので、解釈にはいろいろな可能性がありそうです。恋い焦がれる余りに、女に心が奪われている男を、女が「富士山のように高くて、あなたには及びでない」とからかっている場面にも見えますし、高嶺の花に憧れる余りに、盲目となっている男をからかっている場面とも理解できます。またじっくりと見定めもしない一目惚れの恋を、危ういと心配しているともとれます。『閑吟集』が成立したのは永正十五年(1518)ですが、直近の富士山の噴火は永正八年(1511)とのことですから、爆発はともかく、噴煙くらいは実際に確認できていたのでしょう。因みに『閑吟集』の仮名序文には、編者は富士山の近くに住んでいたことが記されています。「上の空」は、男の心が舞い上がってしまっていることと、富士山が空高くそびえて見えることを掛けていると理解してよいのでしょう。

〇な見さいそ な見さいそ 人の推(すい)する な見さいそ  45番歌
◎見ないでね ねえ 見ないでね いろいろ噂をされるから お願いだから見ないでね 
◇「な・・・・そ」は禁止を表しています。「さい」は珍しい表現で、古語辞典に拠れば、「軽い敬意をもって相手に要求する」助動詞で、「・・・・なさい」という意味であるとのこと。「推する」は「推しはかる」という意味ですから、二人の仲が世間に知られ邪推されたくない女の歌だと思われます。何を見て欲しくないのかは人それぞれであり、詮索は無意味でしょう。

〇世間(よのなか)は ちろりに過ぐる ちろりちろり  49番歌
◎世の中は ちらりという間に ちらりと過ぎる ちらりちちらり ちらちらり
◇考えれば深刻な人の世の儚さを、「ちろり」という惚けたような言葉で表すあたりが何とも面白い歌です。ただし「世の中」には「男女の仲」という意味もありますから、そのように解釈すれば、「世の中なんて、『ちろり』という間に過ぎてしまう。男女の仲もそんなものさ」と、歌に奥行きができます。そこでこの「ちろり」が問題になるのですが、これがなかなにか難しい。狂言の小舞謡(こまいうたい)の『暁の明星』(暁)という演目に、次のような詞章があります。「暁の明星は西へちろり東へちろり ちろりちろりとするときは 扇おっ取り刀差いて 太刀の柄に手打ち掛け・・・・」。すまた長唄の『吉原雀』(明和5年)にも「暁の明星が西へちろり東へちろり ちろりちろりとする時は・・・・」という詞章があるとのことです。そうすれば「ちろり」は、光がピカッと輝く瞬間のことを意味していると理解できそうです。ですから現代語訳では、「ちろり」という音も意識しながら、「ちらりという間に」と訳してみました。また「ちろり」の音の連続が耳に心地よく、諦観をユーモアに転換させているように感じましたので、現代語訳でもその雰囲気を出せるようにと工夫してみました。まあ所詮は「戯訳」ですので、御容赦下さい。「ちろり」は日本酒を温める酒器で、それに絡めて訳す説があります。しかしそれが成り立つためには、室町時代に既にその様な酒器があったことが確認できなければなりません。ですからそれができない以上、その説は採りませんでした。

〇何ともなやなう 何ともなやなう うき世は風波の一葉(いちよう)よ  50番歌
◎何とも仕方のないことよ どうにもならないことなのよ はかない浮き世の波風に 木の葉のように遊ばれて 
◇この歌は、儚い現世を波にもまれる木の葉に喩えています。「憂き世」を「浮き世」と見て、水に浮く木の葉や浮き草を連想するのは、古来の常套表現です。「何ともなやなう」という句は、『閑吟集』にはいくつもあります(51・127・205・293番歌)。これをどの様に解釈すればよいのでしょうか。文字通り、「何でもない」、「別に大したことではない」と軽く考えることもできます。しかしこれらの歌に当たってみると、本当は何ともないわけではなく、大層辛く悲しいのに、無理して強がっていると思えるのです。そこで反語的に理解してみました。

〇たゞ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あぢきなの世や 52番歌
◎恨み辛みも何事も 儚い夢か幻か 淀みに浮かぶ泡沫(うたかた)か 笹の葉末に置く露の 儚く消えるつゆの間の 詮無い世ながら さりながら
◇上記の50番歌と同じように、儚い現世を諦観するこころを水面の泡や葉末の露に喩えていています。水の泡と言えば、『方丈記』の冒頭部「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」が思い浮かびます。また葉末の露と言えば、豊臣秀吉の辞世「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」を思わせます。露は日が昇れば儚く消えてしまうため、「つゆ」には「わずかなこと」「わずかな時間」という意味が派生し、それを掛詞のように用いるのも、古来の常套表現です。「かごと」は漢字では「託言」と表記され、古語辞典では「恨み言」とか「ぐち」という意味とのことです。そのような「かごと」の意味を活かすならば、「思えば、この世の出来事は全て、辛いことさえも儚い夢幻のようなものさ」という意味に理解でき、「何事も夢幻」というよりは、少し深みがあるような気がします。「あぢきなの」は、この場合は無益なことを意味する「あぢきなき」のことでしょう。現代語訳の末尾に「さりながら」と付け足したのは、『閑吟集』では現世を儚いものと諦観しつつも、どこかに享楽的な視点があるということを意識したものです。

〇燻む(くすむ)人は見られぬ 夢の夢の夢の世を 現(うつつ)顔して  54番歌
◎見ちゃあおれない 根暗な奴(やつ)は この世は夢のまた夢なのに 真面目くさった顔してさ
◇「燻む」とは、地味で冴えないという意味です。次の55番歌にも言えることですが、謹厳実直であることをひやかし、享楽的・刹那的であることをもて囃すことは、『閑吟集』を貫く一つの歌風です。現世を儚いものとする理解は、平安時代の浄土信仰以来のものですが、それを来世への希望につなぐことなく、良くも悪くも開き直って力強く生きようとするのは、室町文化の庶民性を物語っています。個人的には、人生への姿勢として共感できないこともあるのですが、ここまで開き直られると、呆れつつも感心してしまいます。

〇何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ たゞ狂へ 55番歌
◎真面目くさって何になる 所詮は儚い夢なのさ 開き直って狂うだけ
◇「くすむ」という言葉は54番歌にもありますが、色が冴えないことを意味しますから、室町時代に流行した、派手で人目を驚かせる風潮を意味する「婆娑羅」(ばさら)の対極にあります。文献上はあまり目にしない言葉なのですが、「生真面目な」という意味に理解してよいと思います。「一期」とは「一生」という意味で、生まれてから死ぬまでの間のことです。憂き世を深刻に考えず、開き直っているあたりが、神仏なき現代人の共感をよぶのでしょうか。『閑吟集』では特によく知られ、人気のある歌です。ただ何に「狂う」かによって、刹那的とも熱狂的とも解釈できます。蓋し、この歌の前後には人生の諦観を詠む歌が続きますから、婆娑羅に共鳴して、刹那的・享楽的・耽美的に狂うと理解するのが自然かと思います。

〇強(し)ひてや手折らまし 折らでやかざさましやな 弥生の永き春日も なほ飽かなくに暮らしつ 56番歌 
◎桜の枝を折りとるか 折らずに髪に挿そうかと 春も弥生の一日を 心ゆくまで楽しめた
◇春の日永一日、桜の花見に興じた最後の場面でしょうか。助動詞の「まし」は助詞の「や」を伴って、ためらいの心を表していますから、折ろうか折るまいか迷っているのでしょう。『徒然草』一三七段では、「片田舎の人・・・・酒飲み連歌して、はては大きなる枝、心なく折り取りぬ」と嘆いていますが、冠や髪に挿す程度なら風情を解する「心ある者」のすることであり、マナー違反ではありません。髪に挿すということから、「髪挿し」、更に「かんざし」という言葉が派生するわけです。・このような行為は、古には神事に行われた呪術的風習で、後には行楽や饗宴でも行われるようになりました。「永き春日」と言いますが、昼間の時間が実際に長いのは夏至の頃です。反対に「秋の夜永」という言葉もありますが、実際に永いのは冬至の頃です。これらは実際の永さをもんだいにしているのではなく、日に日に永くなることに驚きを感じるからなのでしょう。「飽かなく」は「飽きることがない程に」という意味です。末尾が完了を表す助動詞「つ」で終わっていますが、同じ完了の助動詞「ぬ」が無意志的な完了であるのに対して、「つ」は意志的な完了を表しています。ですから、たまたま桜の花を見たのではなく、わざわざ花見をしようと野山に入り、日永一日、花を愛でたということがわかります。

〇卯の花襲(うのはながさね)な な召さひそよ 月に輝き顕(あらわ)るゝ   57番歌
◎卯の花襲をお召しになるな 月に照らされ目立つから
◇この歌は、夜に逢いに来ることが露顕しないようにと、女が男に目立つ服装を注意する場面を歌ったものです。「卯の花襲な」の「な」は、語調を調えるための間投助詞のようですから、特に意味はなさそうです。「な・・・・そ」」は禁止を表し、「さい」は45番歌にもあるように、軽い敬意をもって相手に要求する時に用いられますから、「な召さひそよ」は「お召しなさいますな」という意味になります。「卯の花襲」は表が白で裏が青緑の色目で、初夏に選ばれる色の組み合わせでした。源義経の愛妾静御前が、頼朝の命により鶴岡八幡宮の神前で舞った際、義経を敬慕する歌を歌ったため、頼朝の怒りをかいました。その時妻の政子が取りなしたため、頼朝は卯の花襲の衣を褒美として与えたことが、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』に記されています。それは旧暦四月、つまり卯月のことでした。この逸話は、教養ある文化人なら知っていたでしょうから、「卯の花襲」といえば、その悲恋の物語を連想したことでしょう。また月影に卯の花の白さが際立つことは、古来、「卯の花月夜」と呼ばれて和歌に詠まれ、枚挙に暇がありません。月夜の白い花には、妖しげと言いましょうか、幻想的と言いましょうか、得も言われぬ美しさがあります。 

〇我が恋は 水に燃えたつ蛍蛍 物言はで笑止(しょうし・しょうじ)の蛍  59
◎私の恋は水辺の蛍 見ずに焦がれてお恥ずかしいわ ものも言わずに忍ぶだけ
◇この歌は謎解きになっていて、「我が恋」を「蛍」と解いています。その心は「蛍が水(水辺)に燃え立つように、私は見ずに燃えて恋い焦がれる」。更に「蛍がものを言わないように、私もものを言わずに忍ぶだけ」というわけです。忍ぶ恋を蛍に見立てるのは、王朝和歌以来の常套です。蛍が鳴かないことは、ものも言わずに忍んでいること、尻尾が光ることは、恋い焦がれていることの現れと見るわけです。「音もせで思ひ(火)に燃ゆる蛍こそ鳴く虫よりもあはれなりけれ」(後拾遺和歌集 216)、「なく声も聞こえぬもののかなしきは忍びに燃ゆる蛍なりけり」(詞花和歌集 73)など、たくさん詠まれていて、小歌といえども、古歌のこころを踏まえていることに感心させられます。「笑止」という言葉は、「困ったこと、気の毒なこと、笑うべきこと、ばかばかしい事、恥ずかしいこと」など、様々な意味に用いられます。まあ自分でそう言っているのですから、自虐的な意味で理解すればよいと思います。

〇宇治の川瀬の 水車(みずぐるま) 何とうき世を めぐるらう  64番歌
◎宇治川の 八十瀬(やそせ)にかかる水車 うき世に何を 思いめぐらす
◇この歌は、止まることなく回り続ける水車に、人の世の流転を連想することを詠んでいます。水車もめぐり、世もめぐるというので、「めぐる」が効いています。鎌倉時代末期から室町時代には灌漑用具として水車が普及するのですが、1429年に来日した朝鮮使節が、灌漑用の水車に驚き、製造法を調査して持ち帰ったことが、『朝鮮王朝実録』という書物に記されています。当時としては先端技術だったのでしょう。朝鮮では作ることが困難で、導入には失敗しています。また『徒然草』の51段には、宇治の水車について次のような話が記されています。嵯峨の亀山殿の池に大井川(大堰川)の水を引くために、土地の者に命じて水車を作らせたが、一向に回らない。そこで宇治の里人を召し出して作らせたところ、いとも易々と完成させ、思い通り回って水を汲み上げた、というのです。そして結論として、「よろづに、その道を知れる者は、やんごとなき(尊い)ものなり」というのです。鎌倉時代末期から、宇治川にはいくつも水車が掛かり、よく知られていたようです。末尾の「らう」は、現在推量の助動詞「らむ」が転じたもので、室町時代以後に用いられるようになったそうです。道理で王朝文芸では見たことがありませんでした。

〇生(な)らぬあだ花 真白に見えて 憂き中垣の夕顔や  67番歌
◎仲を隔てる中垣に 真白に浮かぶ夕顔は 実を結ばないあだ花か 
◇「中垣」とは隣家との境に設けられた垣根のことですが、この場合は男女の仲を隔てる垣根でもあります。そこに夕顔の蔓が絡んで、真っ白い浮かび上がって見えています。どこにも夜とは書かれていませんが、夕顔ですから夜の場面に違いありません。「憂き」は「浮き」を掛けていると理解することもできるでしょう。月影に浮かぶ真っ白い花には幻想的な美しさがあり、歌の作詞者は『源氏物語』の夕顔の巻を連想していたことでしょう。「あだ花」の「あだ」とは「頼りにならない」とか「無駄な」という意味ですから、「生らぬあだ花」は「実が成らない無益な花」という意味です。また「実が成る」ことは「男女の仲が成る」ことを掛けています。実際には夕顔は瓢箪の仲間ですから、実が成ります。果肉を薄く長く剥いて乾燥させると干瓢ができます。干瓢がいつまで遡るかは不明ですが、文献上では15世紀までは確認できるそうです。 

〇忍ぶ軒端に瓢箪(ひょうたん)は 植ゑてな置いてな 這(は)はせて生(な)らすな 心のつれて ひよひよら ひよひよめくに  68番歌
◎忍んで通う家の軒 瓢箪なんぞを植え置いて 蔓を這わすな生らせるな 蔓(つる)に釣られてひよろひょろ 彼方(あちら)此方(こちら)靡(なび)くから 
◇「忍んで通う女の家の瓢箪」とくれば、夕顔は瓢箪の一種ですから、当時は誰もが『源氏物語』の夕顔の巻を想起したことでしょう。また蔓を這わせることは「夜這い」を連想させ、蔓が心の向くまま気の向くままに揺れるのを、男の浮気心と理解することもできそうです。「ひよひよら ひよひよめく」という表現が何とも滑稽で、和歌では到底表現しきれない境地です。「ひよひよら」という擬音語は「ひょうたん」の音に誘われたのかもしれません。

〇待つ宵は更けゆく鐘を悲しび 逢ふ夜は別れの鳥を怨む 恋ほどの重荷あらじ あら苦しや  69番歌
◎待てば待ったで甲斐もなく 夜明けを告げる悲しみの 鐘の音ばかり響きくる
 逢えば逢ったできぬぎぬの 別れを迫る怨めしい 鶏の声聞こえくる
 思えば逢おうと逢うまいと 恋ほど切ないものはなく 恋ほど苦しいものはない 
◇この歌は、「待つ宵に更けゆく鐘の声聞けば飽(あ)かぬ別れの鳥は物かは」(新古今和歌集 1191)を本歌としています。本歌では、男の来訪を待っても来ない悲しみと、後朝(きぬぎぬ)の別れ惜しむ怨みとでは、惜しむことの方が大したことではないと詠んでいますが、この歌ではどちらも恋の「重荷」であると詠んでいます。鶏が鳴くと一夜の逢瀬も後朝の別れとなるという理解は、古く「常陸国風土記」香島郡の「童子(うない)の松原」の伝承に記されているように、早くからありました。当時の時刻の知らせ方については、恐らくは平安時代の『延喜式』に定められた方法を基本として継承されていたと考えられます。『延喜式』の「陰陽寮」には、「諸時擊皷」の方法として、子午の刻には太鼓を九つ、丑・未の刻には八つ、寅・申の刻には七つ、卯・酉の刻には六つ、辰・戌の刻には五つ、巳・亥の刻には四つ打つこと。またそれぞれの刻を四分割し、それを鐘の数で知らせると規定されています。その他には寺院の鐘が時報の役目を果たしていたこともあったようですから、いわゆる明け六つの鐘の音だけでなく、まだ暗い夜明け前の暁(あかとき)にも鐘の音は聞こえたことでしょう。

〇和御料(わごりょう)思へば 安濃津(あののつ)より来たものを 俺(おれ)振りごとは こりや何事  77番歌
◎お前のことを思うからこそ 安濃津からでも来たものを ああそれなのにどういうつもり この俺様を振るなんて
◇「和御料」(我御料・和御寮)とは親しみを込めた二人称の呼称で、男女共に用いられました。「安濃津」は伊勢国の港町で、現在の津市にあたり、東国から京の都に物資を輸送するため、京の外港として繁栄しました。鎌倉時代前期編纂され、その後改訂されつつ江戸時代まで行われた『廻船式目』(廻船についての慣習法的法令集)には、天正年間に「三津」と称して、「伊勢姉津(安濃津)・博多宇津・泉州境(堺)津」が上げられています。つまり安濃津は、室町時代後期には日本三代港に数えられていましたから、港の粋な男達がたくさんいたはずです。それでも、プライドの高い都の女には振られたのでしょうか。三津(三箇の津)についてネット情報では、堺の代わりに薩摩の坊津を上げていますが、室町時代にはその重要性は薄れ、日明貿易で栄えた堺が数えられていました。

〇何を仰るぞせはせはと 上の空とよなう こなたも覚悟申した  78番歌
◎何をおっしゃる せかせかと あなたの心は上の空よね 私も覚悟を決めたわよ
◇この歌は77番歌の返歌で、もてて当然と舞い上がっている自分本位な男に愛想が尽きた、京女の強烈なしっぺ返しです。
「せはせは」は漢字ならば「忙々」と表記しますから、落ち着きのない様子を表しています。「こなた」(此方)はややこしい言葉で、一人称にも二人称にもなるのですが、この場合は「そなた」(其方)に対応する二人称の代名詞です。一般には改まったニュアンスを含む時に用いられますから、「覚悟申した」という言葉を際立たせる効果があると思います。


〇思ひやる心は君に添ひながら 何の残りて恋しかるらん 84
◎あなたを思ふ私の心は すべて添わせて遣ったのに 何が残っているからなのか どうしてこれほど恋しいの
◇「思ひやる」と言うのですから、二人は今は遠く離れているのでしょう。「心を添える」とは、現代では「親身になって注意する」という意味ですが、古には本当に心が身体から抜け出して、相手に添わせてと共に往かせることを意味していました。ですから離別の歌にはしばしば詠まれていますので、一例を挙げておきましょう。「たらちねの親のまもりとあひ添ふる心ばかりは堰きなとどめそ」(古今集 離別 368)。『閑吟集』の291番歌には、「羨ましやわが心 夜昼君に離れぬ」という歌があるのですが、心と身体が分離するものという理解が前提となっています。心が惹かれる余りに、心が身体から抜け出してしまうという理解も古くからありました。これを「あくがる」と言うのですが、後に「憧れる」という意味に多少変化します。自分の心が既に抜け出して恋する人のもとに往ってしまったのに、まだ恋しいというのは、何か残っているからなのだろうか、という意味です。

〇思ひ出すとは忘るるか 思ひ出さずや 忘れねば 85
◎思い出すというのはね 忘れていたの言い訳よ あら 思い出すわけないじゃない だって忘れはしないから  
◇理屈っぽい歌ですが、ここまで美事に決まると、言葉の対応の面白さに感嘆するばかりです。そう言えば浜崎あゆみのHANABIという歌に、「君のこと思い出す日なんてないのは 君のこと忘れた時がないから」という一節がありました。ひょっとして作詞者は『閑吟集』を読んだのかもしれませんね。実際、『閑吟集』には恋の歌が多く、現代歌謡の歌詞のヒントになりそうな歌がたくさんあります。王朝時代の和歌集には「恋歌」の部がありますが、古語に馴れていないと読み辛いものです。その点で『閑吟集』は、現代人には古歌よりも取っつきやすく、作詞をする人ならば必読の書だと思います。

〇思ひ出さぬ間なし 忘れてまどろむ夜もなし  86
◎君のこと 思い出さない時はない 君のこと 忘れて眠る夜もない
◇「間」は、「まどろむ夜」に対応していますから、昼間のことなのであり、一日中忘れられないというのでしょう。この歌の一つ前の85番歌に続き、「思い出す」と「わすれる」が対になっていますから、もともとは唱和する形で歌われていたのかもしれません。どちらの歌も、恋しくて決して忘れないことを言いたいのですが、85番歌ではわざと理屈っぽく表しているのに対し、86番歌は素直に表していて、その対比に面白さがあります。

〇思へど思はぬ振りをして しゃっとしておりゃるこそ 底は深けれ 87
◎恋していても知らんぷり しゃきっとすればする程に あなたの心は深いのよ
◇「おりゃる」は「お入りある」が転じたもので、「いらっしゃる」「おいでになる」という意味です。本心では恋しいくせに、わざと素っ気ない態度で接し、相手の気をひいたり、反応をうかがおうとしているのか、恋心を表には微塵も見せない男の姿に、かえって惹き付けられているのでしょうか。まさに恋の駆け引きの場面です。しかし余りに度が過ぎると、次の88番歌「思へど思はぬ振りをして なう 思ひ痩せに痩せ候」のように、実際に身が細ってしまいます。痩せ我慢も程々に。

〇扇の陰で目をとろめかす 主(ぬし)ある俺(おれ)を何とかしょうか しょうかしょうかしょう 90
◎扇に隠れてうっとり見つめ 夫(つま)ある私に一目惚れ いったい私をどうするつもり どうするどうするどうする気?
◇「とろめかす」とは何とも色っぽい言葉です。「目で殺す」とか「悩殺」という表現がありますが、色っぽい目つきで相手を惹き付け、夢中にさせてしまうのでせしょう。「俺」は鎌倉時代までは少年の自称でしたが、室町時代には性別にかかわらず広く使われました。それでも女性が使うと、どすが効いているとでも言いましょうか。迫力があります。江戸時代以後は女性はあまり使わなくなりましたが、地域によっては女性の自称として残っているそうです。既婚の女性が横恋慕する男のことを詠んでいる場面なのでしょうが、「何とかしょうか」と畳みかけていますから、まんざらでもなさそうです。危うい恋の始まりは、いつもこんなものなのでしょう。

〇人の心の秋の初風 告げ顔の 軒端の荻も恨めし  93
◎あの人の 心の飽(あき)を告げるのか 秋の初風そよ吹けば 軒端の荻さえ恨めしい
◇古来、古歌の世界では、秋の初風は音もなく荻の上葉(うわば)に吹くものとされ、秋風が男を、荻が男の来訪を待つ女を表すことがありました。「さりともと思ひし人は音もせで荻の上葉に風ぞ吹くなる」(後拾遺和歌集321)、「いつしかと待ちし甲斐なく秋風にそよとばかりも荻の音せぬ」(後拾遺和歌集949)という歌は、それをよく表していて、同類の歌は大層多く伝えられています。また「秋」は「飽き」に通じるため、「心の秋」「人の秋」と称して、秋は恋の終わりを予感させるという理解も共有されていました。王朝和歌では、人の心情を直接露骨に表現せず、自然の物になぞらえて表すことが多いのですが、この歌などは、その様な情趣がそのまま継承されています。




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