灯籠流
毎年八月十五日の終戦記念日前後には、戦没者の供養のために、火を点じた手製の小さな灯籠を川に流す
灯籠流が行われることがあります。また戦没者供養に限らず、慰霊を目的に行われるので、精霊流と呼ばれることもあす。
このような風習は、もともとはお盆の行事として江戸時代に始まったことです。『華実年浪草』(かじつとしなみぐさ)という歳時記には、宇治の万福寺で盂蘭盆会に際して、「水灯会」(すいとうえ)が行われているとが記されています。それによれば七月十六日の夜、白蓮華の造花を三六〇個も造り、それに艾(もぐさ)の芯を立て点火して宇治川に流すのですが、まるで蛍火のようで、多くの観客が押しかけたということです。また中国の伝統的年中行事を記録した『月令広義』という明代の書物に、同様の風習が記されているとも記されています。『華実年浪草』を直接確認したい方は、ネットで「国会図書館デジタルコレクション『華実年浪草」と検索し、その巻9(秋の部巻一)の第25コマ目に載っていますから、一度御覧になって下さい。万福寺は明僧隠元が開山ですから、明の風習が送火の風習と習合したものなのでしょう。
長崎では毎年八月十五日の旧盆に、現在も精霊流という風習が行われています。長崎出身の歌手さだまさしの歌で、「精霊流し」という名前はよく知られていますが、よく灯籠流と混同されています。歌の「精霊流し」は哀愁のあるメロディーと歌詞で、どこか寂しげな印象なのですが、長崎の精霊流は爆竹が鳴り響き、耳栓を欠かせない威勢のよい祭です。新盆を迎えた故人の関係者が「精霊舟」と呼ばれる舟形を引き廻し、故人の霊を送る盂蘭盆の行事で、歌の「精霊流し」しか知らない人が初めて見ると、余りにも印象が異なるので驚くことでしょう。舟の大きさは二~三mの小さな物から、十m程度の部分を数個連結させた、まるで「デコトラ」のような派手な物まであり、魔除けのためと称して、銃声と紛う程の爆音を響かせながら市内を練り歩きます。その様子はユーチューブで見られます。
実はこの風習にも江戸時代以来の伝統があります。十九世紀末、寛政年間に書かれた『長崎聞見録』という書物には、「藁にて船を作り、生霊(精霊)祭りたる種々のものを皆積み、この船にも小さきぼんぼりを多く掛つらねて持行き、大きなる船は一二間も有、人拾人弐拾人もかかる。また貧家の船は小さく壱人にて持たるもあり。大波戸(おおはと)といふ海浜にて火を付て推流す。その火海面にかがやきて、流れ行くさま夥しきなり。この夜はみなみな寢る人なく、暁比までかくの如くさわぎて賑々(にぎにぎ)しきなり。」と記されています。
また明治44年の『東京年中行事』には、お盆過ぎに東京各地の寺で、水難者や日清日露戦争戦没者供養のため、川施餓鬼が行われると記されています。それは阿弥陀如来を刷った紙や、経木塔婆を川に流す風習です。また江戸時代末まで、お盆の頃牛島の弘福寺で、都鳥の形の灯籠100余をつないで、小舟で引いて川に流す流灯会が行われていたと記されています。水灯会がお盆の送り火の行われる7月16日に行われていることからもわかるように、これらの行事はみなお盆の供物を川に流す風習が変化したものと考えるのが自然でしょう。このように灯籠流しの風習は、江戸時代から行われていたのです。
ところがネット情報や年中行事の解説書には、「灯籠流は8月15日に行われるとは限らないが、広島が発祥地とする新しい風習である。精霊流は長崎で行われるもので、精霊船を引いて歩き、最後には解体するものである」と説明されています。終戦記念日に広島で行われることがニュースなどで放映されることから、検証すらすることなく、安易に広島起源であると思い込んでいるのでしょうか。そのように説いている人は、江戸時代の文献など全く読まず、おそらくは年中行事事典の類や先行する類書を適当に摘まみ食いしているのでしょう。このように年中行事の起源を調べるには、古い文献を読むことが不可欠なのです。慣れていないと江戸時代の文献を読むのは難しいかもしれません。しかし『東京年中行事』などは年中行事研究の基本中の基本図書であり、図書館で普通に閲覧できます。それすら読んでいないようです。たぶん年中行事事典の類を参考にしているのでしょうが、多くは民俗学的視点から書かれていて、信用できません。何故なら、民俗学では伝承を重視するあまり、文献史料が考察の材料として読まれていないからなのです。伝統的年中行事の歴史的理解がどれ程捏造されたものであるか、本当に残念でなりません。悪意があるとは思いませんが、歴史の一部なのですから、歴史的根拠によって裏付けられなければならないのです。
灯籠流はもともとはお盆の行事でした。ただし全国的には行われていなかった可能性があります。それを記述している文芸や歳時記類が少ないからです。8月15日頃に行われることが多いことには、理由があります。もともとお盆は旧暦7月15日に行われていましたが、太陽暦の採用により新暦で月遅れの8月15日に行われることが多くなっていたのですが、たまたま終戦記念日と重なったため、戦没者慰霊も祖先供養も慰霊ということで、広島の灯籠流が注目されることになりました。決して広島起源ではなく、もともとお盆の風習の一つだったのです。ただし明から渡来した水灯会で、灯籠が用いられていたかどうかはわかりません。それでも灯を点じたものを蛍火と見紛う程に川に流したのですから、似たようなものであったことは間違いありません。また長崎の精霊流しでは、江戸時代の文献では灯を点したまま海に流していますから、全く別物ではなさそうです。なぜなら、隠元は初めは長崎の中国人の寺に住職として渡来し、後に宇治に移ったのであって、長崎での風習も、明由来のものであると考えられるからです。
本来は慰霊のためとはいいながら、最近では観光的な意味も付加されされているようです。しかし川に流してしまうということから、環境保全の視点から、流しっぱなしというわけにもゆかず、いろいろ制限されるようになっているのは、やむを得ないことなのでしょう。
毎年八月十五日の終戦記念日前後には、戦没者の供養のために、火を点じた手製の小さな灯籠を川に流す
灯籠流が行われることがあります。また戦没者供養に限らず、慰霊を目的に行われるので、精霊流と呼ばれることもあす。
このような風習は、もともとはお盆の行事として江戸時代に始まったことです。『華実年浪草』(かじつとしなみぐさ)という歳時記には、宇治の万福寺で盂蘭盆会に際して、「水灯会」(すいとうえ)が行われているとが記されています。それによれば七月十六日の夜、白蓮華の造花を三六〇個も造り、それに艾(もぐさ)の芯を立て点火して宇治川に流すのですが、まるで蛍火のようで、多くの観客が押しかけたということです。また中国の伝統的年中行事を記録した『月令広義』という明代の書物に、同様の風習が記されているとも記されています。『華実年浪草』を直接確認したい方は、ネットで「国会図書館デジタルコレクション『華実年浪草」と検索し、その巻9(秋の部巻一)の第25コマ目に載っていますから、一度御覧になって下さい。万福寺は明僧隠元が開山ですから、明の風習が送火の風習と習合したものなのでしょう。
長崎では毎年八月十五日の旧盆に、現在も精霊流という風習が行われています。長崎出身の歌手さだまさしの歌で、「精霊流し」という名前はよく知られていますが、よく灯籠流と混同されています。歌の「精霊流し」は哀愁のあるメロディーと歌詞で、どこか寂しげな印象なのですが、長崎の精霊流は爆竹が鳴り響き、耳栓を欠かせない威勢のよい祭です。新盆を迎えた故人の関係者が「精霊舟」と呼ばれる舟形を引き廻し、故人の霊を送る盂蘭盆の行事で、歌の「精霊流し」しか知らない人が初めて見ると、余りにも印象が異なるので驚くことでしょう。舟の大きさは二~三mの小さな物から、十m程度の部分を数個連結させた、まるで「デコトラ」のような派手な物まであり、魔除けのためと称して、銃声と紛う程の爆音を響かせながら市内を練り歩きます。その様子はユーチューブで見られます。
実はこの風習にも江戸時代以来の伝統があります。十九世紀末、寛政年間に書かれた『長崎聞見録』という書物には、「藁にて船を作り、生霊(精霊)祭りたる種々のものを皆積み、この船にも小さきぼんぼりを多く掛つらねて持行き、大きなる船は一二間も有、人拾人弐拾人もかかる。また貧家の船は小さく壱人にて持たるもあり。大波戸(おおはと)といふ海浜にて火を付て推流す。その火海面にかがやきて、流れ行くさま夥しきなり。この夜はみなみな寢る人なく、暁比までかくの如くさわぎて賑々(にぎにぎ)しきなり。」と記されています。
また明治44年の『東京年中行事』には、お盆過ぎに東京各地の寺で、水難者や日清日露戦争戦没者供養のため、川施餓鬼が行われると記されています。それは阿弥陀如来を刷った紙や、経木塔婆を川に流す風習です。また江戸時代末まで、お盆の頃牛島の弘福寺で、都鳥の形の灯籠100余をつないで、小舟で引いて川に流す流灯会が行われていたと記されています。水灯会がお盆の送り火の行われる7月16日に行われていることからもわかるように、これらの行事はみなお盆の供物を川に流す風習が変化したものと考えるのが自然でしょう。このように灯籠流しの風習は、江戸時代から行われていたのです。
ところがネット情報や年中行事の解説書には、「灯籠流は8月15日に行われるとは限らないが、広島が発祥地とする新しい風習である。精霊流は長崎で行われるもので、精霊船を引いて歩き、最後には解体するものである」と説明されています。終戦記念日に広島で行われることがニュースなどで放映されることから、検証すらすることなく、安易に広島起源であると思い込んでいるのでしょうか。そのように説いている人は、江戸時代の文献など全く読まず、おそらくは年中行事事典の類や先行する類書を適当に摘まみ食いしているのでしょう。このように年中行事の起源を調べるには、古い文献を読むことが不可欠なのです。慣れていないと江戸時代の文献を読むのは難しいかもしれません。しかし『東京年中行事』などは年中行事研究の基本中の基本図書であり、図書館で普通に閲覧できます。それすら読んでいないようです。たぶん年中行事事典の類を参考にしているのでしょうが、多くは民俗学的視点から書かれていて、信用できません。何故なら、民俗学では伝承を重視するあまり、文献史料が考察の材料として読まれていないからなのです。伝統的年中行事の歴史的理解がどれ程捏造されたものであるか、本当に残念でなりません。悪意があるとは思いませんが、歴史の一部なのですから、歴史的根拠によって裏付けられなければならないのです。
灯籠流はもともとはお盆の行事でした。ただし全国的には行われていなかった可能性があります。それを記述している文芸や歳時記類が少ないからです。8月15日頃に行われることが多いことには、理由があります。もともとお盆は旧暦7月15日に行われていましたが、太陽暦の採用により新暦で月遅れの8月15日に行われることが多くなっていたのですが、たまたま終戦記念日と重なったため、戦没者慰霊も祖先供養も慰霊ということで、広島の灯籠流が注目されることになりました。決して広島起源ではなく、もともとお盆の風習の一つだったのです。ただし明から渡来した水灯会で、灯籠が用いられていたかどうかはわかりません。それでも灯を点じたものを蛍火と見紛う程に川に流したのですから、似たようなものであったことは間違いありません。また長崎の精霊流しでは、江戸時代の文献では灯を点したまま海に流していますから、全く別物ではなさそうです。なぜなら、隠元は初めは長崎の中国人の寺に住職として渡来し、後に宇治に移ったのであって、長崎での風習も、明由来のものであると考えられるからです。
本来は慰霊のためとはいいながら、最近では観光的な意味も付加されされているようです。しかし川に流してしまうということから、環境保全の視点から、流しっぱなしというわけにもゆかず、いろいろ制限されるようになっているのは、やむを得ないことなのでしょう。
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