一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

〈身体性〉とは? 第3回(4回連載)

2008-06-12 09:09:02 | 〈身体性〉とは?

 

   

第3回 (4回連載・毎月10日掲載)  ■青木やよひ

 

3.時代によって変わる身体観 

 人間が内面的な成熟をとげ、自立的=自律的な存在となるためには、身体を媒介にした自然とのかかわりを問いなおさねばならないのはたしかなことである。しかしこの場合にわれわれは、自分と身体というレベルだけでなく、その時代・その社会において身体がどのように考えられ、扱われているかという、イデオロギーとしての身体観を無視することはできない。

 身体とは一見、人間にとって自然から贈られた動物的与件そのもののように思える。しかし人間は、己れの身体を意識によって客体化し、状況として把握しうる動物である。したがって、身体がその時代や社会によってどう意味づけられ、またそれをどう受容するかが、われわれの意識を大きく左右することになる。事実、身体とは、文字通り自然の果実として裸で産みおとされながら、ほとんどその瞬間から文化の洗礼を受け、それぞれ特有の仕方で社会化の対象とされる。(*)

 出産の儀礼や新生児の扱い方などには、かつてはそれぞれの地方で独特の習俗が守られており、男女の性別もその大きな要因となっていた。つまり身体とは自然と文化の接点であって、身体が人間存在を規制する仕方は、単にその生物学的条件に還元することはできない。身体性とは、むしろ文化そのものであるとさえ言えよう。

 かつて18世紀のヨーロッパでは、身体については人前で口にすることさえはばかられたという。ビクトリア朝時代のイギリスでは、夫婦でさえもお互いの裸体を生涯見ることがなかったといわれる。このように、身体が人間の精神活動から排除されて、見えない世界に閉じこめられていた時代にくらべると、現代では身体は公然のものとなっている。映像の世界でも活字の世界でも、裸体や性行為の場面が過剰なまでに提供され、衣服もまた身体をかくすものであるよりも身体を美しく見せるものへと変化してきている。とくに近年おこっている健康ブームなどを見れば、人びとがこれほど身体に関心を強めている時代はかつてなかったのではないかと思われる。

 このように、こと身体に関しては、同じ近代人でありながら、この200年ほどのあいだに大きな考え方の変動がおこっているように見える。つまり、かつての精神主義に代わって、一種の身体主義が、時代の潮流としてわれわれの周囲にうずまいているようにさえ思える。

(*)フランソワーズ・ルークス『肉体――伝統社会における慣習と知恵』な  どを参照。