一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【117】

2012-01-15 14:19:54 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【117】
Kitazawa, Masakuni  

 この冬は寒いが、ここ数日はおだやかな晴天で心なしか暖かい。昨夜(9日)は満月で、枯れて白くみえる芝生に樹々のかぐろい影がくっきりと映るほど明るく、海上遠くきらめく大島の町々の灯火もかすむほどであった。

理性の誤り 

 進行中の本の第2章も書き終え、神戸芸術工科大学大学院に依頼された博士論文の精読やコメントの作成も終わったので、久しぶりにのんびりと、溜まっていたニューヨーク・タイムズの書評紙を読みはじめた。なかでも心理学者のダニエル・カーネマンの『思考する、早く、遅く』の、ジム・ホルト(Jim Holt)による書評がきわめて興味深かったので紹介しておきたい(Kahneman,Daniel.Thinking,Fast and Slow. Farrar,Straus & Giroux, 2011:Nov.27)。 

 前回の「日記」(116)で、啓蒙的合理主義に反対するルソーの思想を紹介したが、それに関連する証拠(エヴィデンス)ともいえる。その観点から私見を交えて考えてみよう。 

 著者のカーネマンは、心理学者つまり非経済学者としてノーベル経済学賞をはじめて受賞した人である。なぜならアダム・スミス以来、経済学では、経済を担う人間つまりホモ・エコノミクスはつねに合理的に選択し、行動すると考え、それを前提に学説を展開してきた。ところが彼は、ホモ・エコノミクスの選択や行動はけっして合理的ではなく、むしろ非合理的であることを、種々の実験を通して実証してしまったからである。 

 脳の機能についてはこの書評はまったく触れていないが、いうまでもなく無意識的で身体的・感性的なものをつかさどる右脳と、意識的で言語的・知性的なものをつかさどる左脳が、この問題に深くかかわっている。 

 すなわちカーネマンによれば、ものを考えるときシステム1とシステム2が作動するという。システム1とは、自動的で直観的で早く、ひろく無意識的である。それに対してシステム2は、熟考的で分析的で遅く、意識的・理性的である。たとえば相手の表情を見て好意的か敵対的かを瞬時に判断するのはシステム1であり、税金の申告書を書いたり、なんらかの問題を考えたりするのはシステム2である。 

 常識から考えると、システム1よりシステム2の方が優位にあると思われるし、その理性的選択によって確信や信念がもたらされると思うのが当然である。反対にシステム1による判断は、軽率で誤りが多いと推定される。 

 ところが彼が行った諸種の心理学的実験によれば、この二つのシステムの作動によってもたらされる判断はまったく逆であることがわかる。つまりひとびとが理性的なものとして抱いている確信や信念が、いかに誤ったものであるかが実証されるのだ。

実験にみるシステム1とシステム2 

 たとえば彼が行った実験のひとつに「リンダ問題」がある。リンダという若い女性を想定する。前提があるが、それは、彼女はフェミニズムに深い関心があるという情報である。さてそこで、次の2題のうち彼女がどちらである「確率」が高いか、1題を選択してもらう:

 1)リンダは銀行出納係である。2)リンダは銀行出納係であり、フェミニズム運動にかかわっている。 

 学生の85パーセントは2)を選択した。純粋な確率問題であるから、1)の確率はひじょうに高く、たとえフェミニズムに関心があっても、堅い職業である銀行の出納係がフェミニズム運動にかかわる2)の確率はひじょうに低い。したがって正答は1)である。 

 アンケートへの返答は当然システム2の作動であるから、学生たちは理性的に熟考したはずである。だがなぜほとんどの学生が誤ってしまったのか? それは理性的判断には誤りはないという「自己確信」(セルフ・コンフィデンス)または「自信過剰」(オーヴァーコンフィデンス)からであるとカーネマンはいう。ある学生は「この問題についての意見を述べよといわれたと思ってしまった」といったが、自己確信は、結局このように思い込みとなってしまう。 

 このほかの多くの実験も同じ結果をもたらした。つまり理性的判断と考えられるもののほとんどは、判断基準の忘却、ありそうなことへの雪崩打ち、妥当性という幻影などなどによる「合理性」の破綻を示しているというのだ。 

 ノーベル経済学賞を受賞した経済行動における理性的判断、つまりシステム2の作動についての実験や分析もまったくおなじ結果であった。

近代理性の誤謬 

 カーネマンや書評者の意見とかなり異なるが、これらの実験をふまえて、私自身の見解を述べよう。 

 つまり近代理性は強固なデカルト的二元論に立脚している。それを打破して理性概念を拡大しようとしたカントなどの試みはいまなお正当に評価されているといい難いが、その問題は他日に譲るとして(現在進行中の本では取りあげた)、こうした近代理性の誤謬が日常的であるのは、この二元論に由来する。 

 すなわち、ルソーの説いたように、人間性の基礎は自然であり、内なる自然としての身体性や感性である。そこからカーネマンのいうシステム1が生じる。だが直観と呼ばれるその思考体系は、私の用語によれば意識的行為であるプラクシスに対する無意識的行動のレベルのプラティークである。だがこの無意識の領域の思考体系つまりシステム1こそ、たとえば意識的に文法を学ばなくても母語を自由に正確に繰れるように、構造的であり、超合理的なのだ。それを構造的理性、あるいはサルトルが挑戦して挫折した用語とはまったく異なる真の弁証法的理性と名づけることができるだろう。 

 なぜ弁証法的か? それは右脳の思考体系システム1と左脳の思考体系システム2との絶えざる対話(ディアレクティケー)によって構成されるからである。後頭部に位置して右脳と左脳とを結ぶ脳梁(コルプス・カロッスム)がその対話をつかさどるが、その容積が大きいほどこの弁証法が活発であることを示している。男性よりも女性が、同じ男性でも芸術家の方が脳梁の容積が大きいのは、きわめて示唆的である。 

 脱近代文明やそれを支える知を考えるとき、われわれは先駆者ルソーが提起した問題が、この「理性とはなにか」に深くかかわっていることに気づく。誤謬だらけの近代理性を克服し、人間の全体的理性であるこの構造的または弁証法的理性を回復なくてはならない。