一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

楽しい映画と美しいオペラ―その35

2011-01-14 22:28:39 | 楽しい映画と美しいオペラ

楽しい映画と美しいオペラ――その35


          日本映画の最高傑作『浮雲』
                   
―高峰秀子を追悼する
 

 昨年の暮れ28日に高峰秀子が亡くなった。享年86歳。歳に不足はないが、私の心の奥深くに生き続けている数少ない女優のひとりである。心より哀悼の意を表したい。5歳での子役が初出演というから、1979年、55歳で銀幕を引退するまで、じつに50年の長きにわたる映画人生だった。出演作品も169本にのぼるという。そして特筆すべきは、1945年の終戦の年には22歳であったという事実である。それからの約20年間、日本映画は黄金期を迎える。高峰秀子は女優として最高の位置にいたといえる。じじつ、衣笠貞之介、小津安二郎、五所平之介、豊田四郎、木下恵介、成瀬巳喜男などの錚々たる監督の映画に出演することになった。この時期私はまだせいぜい中学生で、残念ながらこれらの作品をリアルタイムで観ることはできなかった。いまはない銀座の並木座で、あるいは京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターで、そのうちの何本かを観た程度である。  

 成瀬巳喜男の『浮雲』を観たのは20年近く前の並木座で、ラストシーンの余韻に浸る間もなく館内の照明が点灯したことをよく覚えている。昨今の映画はエンディングにまで気を配っているため、受けた感動を十分鎮めることができる。昔の映画はその点まことに淡白で、『浮雲』のように最後の場面に感情の盛り上がりを見せる映画だと困ってしまう。私は流れる涙をそのままに、夜の銀座の街を歩くはめになった。それにしても私はなぜ、それほどの感動をこの映画から受けたのだろうか。これこそ日本映画史上最高の作品だと興奮したのだった。そしてその評価はいまだに変わっていない。  

 「真実だけが人を治療でき、癒すことができる」。これは下北沢の〈東京ノーヴィ・レパートリーシアター〉の演出家レオニード・アニシモフが紹介してくれたチェーホフの言葉だが、そのままこの『浮雲』にも当てはまるように思う。冬の曇天が画面全体を覆っているような、ある意味で陰鬱でやりきれない映画なのだが、生きることの真実を静かに伝えている。人は誰でも、生きていく過程で愛を求めざるを得ない。そのことは喜びをもたらすだけではなく、苦しみや哀しみの根源ともなる。女性関係にだらしなく、生活能力のない男を愛してしまったゆえに不幸のどん底に落ちていくひとりの女性――その哀しい愛の顛末が観る者の心を癒すというパラドックス。  

 この映画の成功は、なによりも高峰秀子と森雅之という類稀な名優を起用したことにある。誇張のない、静かで自然なふたりの演技は、この映画に確かなリアリティをもたらした。スタニスラフスキーの理論を知っていたかどうかはわからないが、彼らはまさに役を「生きて」おり、「演じて」いるのではなかった。高峰秀子の自然な演技は、かの杉村春子を賛嘆させたようだし、高峰は森を評して、「森さんが富岡(この映画の役名)なのか、富岡が森さんなのかわからなくなった」とまで言っている。富岡の、女性を窃視する目の艶っぽいこと。カメラはさりげなくその表情をとらえる。表情の豊かさ、そして視線、これがふたりの演技のすべてである。  

 あらゆる価値が転倒した戦争直後の日本社会。その「時代」もこの映画の重要な要素である。高峰演じるゆき子はインドシナから引き上げてくるが、農林省のタイピストだった彼女にも職が見つからない。富岡たち男でさえ食うや食わずの状況である。彼らはそれまでは考えられもしなかった手段で一山当てようと試みる。山師の跋扈である。このような状況下で女性がひとりで生きていく道はほとんど閉ざされていた。ゆき子は外人相手の娼婦にまで落ちていく。  

 屋久島での大団円は、南の風土を巧みに取り入れ、とりわけ印象深い。富岡は農林省に再雇用され、屋久島勤務を命じられる。ゆき子は強引に彼に従うが、鹿児島で体調を崩して寝込むことになる。数日後病の癒えぬまま屋久島に向かい、途中小舟に乗り換える。降りしきる雨。レインコートで身を覆い、ふたりは寄り添う。地のはてまで漂うことで、ようやく得た小康である。しかしゆき子は、屋久島にたどり着いてわずかの間に帰らぬ人となる。仕事で山に入っていた富岡が雨のなかを戻ったときには、すでにゆき子の息は絶えていた。集まった仕事仲間たちを帰した富岡は、ひとりゆき子の傍らに座し、その唇に紅を刷く。ランプのかすかな光に浮かび上がるゆき子の死に顔はあまりに美しい。たまらず富岡は慟哭する。その涙は、彼らふたりの哀しみを確かに浄化したのだった。  

 好きな外国人男優はと問われて、高峰秀子はジェームズ・スチュアートの名を挙げた(「主婦の友」、1954年11月号)。問うた三島由紀夫が驚いたほどにそれは意外な答えだったが、幼少期より苦労を重ねてきた彼女にとって、誠実さはかけがえのないものであったにちがいない。その対談の翌年、行く場所が定まらず苦悩したゆき子に比して、彼女は31歳で松山善三と結婚する。70歳代半ばのとき、一番幸せだと思う時はと質問された高峰は、外出した松山が家に帰ってくる時と答えている(「別冊太陽」、1999年)。幸せな晩年が彷彿されるようだ。

1955年 日本
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:水木洋子
撮影:玉井正夫
出演:高峰秀子、森雅之、山形勲、岡田茉莉子、加東大介、中北千枝子、金子信夫

2011年1月13日 
j-mosa