一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

北沢方邦の伊豆高原日記【82】

2010-08-03 07:14:56 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【82】
Kitazawa, Masakuni  

 ヴィラ・マーヤの庭に咲き誇り、妖艶な香りを室内にまで漂わせていたヤマユリも終わり、ウグイスたちの囀りも間遠になった。世代交代が進んでいるらしく、青木が健在な頃、われわれの寝室の裏の森で、「ホー・起きろ!」と叫んでいたウグイスはいなくなり、今年は変わった鳴き声の主が登場した。昔ヴェトナム戦争たけなわの頃、ホオジロたちが「撤兵何時? 撤兵何時? ニクソンさん!」と囀っていたが、アフガン戦争たけなわの今(7月の米兵の戦死者は99名だという)、そのウグイスは、どう聴きなおしても「ホー・ギルティー! ホー・カジュアルティーズ!(ほう有罪だって! ほう犠牲者数だって!)」と英語で囀るのだ。イラクのテロも収まらず、各地で炎熱の夏がつづく。

菅政権の炎熱の夏 

 首相就任時にせっかく激励の手紙を書いたのに、参議院選挙で民主党の大敗である。菅首相の消費税発言が大敗の原因だといわれるが、そんな単純な問題ではない。事実選挙中の世論調査でも、消費税増税容認は半数近くまであった。 

 論争を受けて立たず、菅内閣の支持率が高いうちに選挙という前国会末期の民主党の逃げの姿勢、消費税をめぐる首相の迷走などさまざまな要因があるが、根本問題は、仮に消費税を上げるとしても、たんなる財政赤字補てんではなく、それを国や社会の将来にどう使うのか、という未来像をまったく提示できない民主党、あるいは究極には日本の政治全体の貧困にある。 

 問題はこの大敗によって民主党内の小沢・反小沢の権力闘争が激化し、民主党全体が果てしのない迷走状態に陥り、わが国自体が漂流状態となることである。もっとも党内の同士を増やしながらこの権力闘争を徹底的に戦い抜き、党を分裂させ、自民党の谷垣派など最良の部分と合体して新党をつくり、解散に打ってでるというのも一案かもしれない。私だったらそうしたいものだ。

詩について 

 雑誌「洪水」の池田康さんの勧めで、詩集を出すこととなった。デザインを杉浦康平さんが快く引き受けてくださり、内容はともかく、期待のもてる装本となるはずだ。詩は敗戦直後15歳の時から書きはじめたが、この本には1960年代からのものを、年代順に配列してある。あとがきに代わる詩論をという池田さんの注文で、詩について考え、書くことになった。すでにこの「詩論」の原稿もお渡ししてある。関心のあるかたは、この秋に出版予定の詩集『目にみえない世界のきざし』をぜひお読みいただきたい(出版は洪水企画、発売元は未定)。 

 「詩論」では、わが国の和歌や俳句、あるいはホピの祭りの詩、中世イスラームのルバイー(四行詩、複数形ルバイヤート)、またゲーテの『西東詩篇』などそれこそ「世界詩」に触れているが、ここではそこで述べた世界的に偉大な詩人たちのなかの二人、芭蕉とリルケについてその要旨を記しておきたい。 

 意外な取り合わせと思われるかもしれないが、リルケと芭蕉は対極的な立場から彼らの偉大な作品を完成させたと思う。 

 すなわち、ホピやいイスラーム世界の詩、あるいはわが国でも『万葉集』などは、それぞれの種族集団に共有の宇宙論を詩の源泉とし、一見単なる叙景や風物の描写と思われる表現でも、その背後にこの深い宇宙論の影を宿している。 

 それに対して、たとえば新古今以後のわが国の和歌は、きわめて抒情的となっていったが、しかしその感情表現は西欧近代の詩歌と異なり、のちの俳句の季語が典型であるように、万人共有の風土的情緒、または共有の詩的場を前提に、巧みさや繊細さをきそったものである。だが西欧近代では、同じ抒情でも、個人の主観性を通じた表現である。 

 サラセンの吟遊詩人の圧倒的影響から出発した西欧中世のトルバドゥールの恋愛詩は、個人の主観的な愛をうたうのではなく、騎士道的恋愛(アムール・クルトワーズ)という共有のエートスのうえに立ち、時には恋人の姿に聖母のおもざしを重ねたりしていた。だが近代の恋愛詩は、きわめて個人的で主観的な愛の表現であり、風景をうたうとしても、それはあくまで個人の主観に映じたものへの感情移入である。 

 だがこうした近代詩から出発したリルケが到達した晩年の孤高の諸作品は、自己の主観性の枠組みを徹底的にそぎ落とし、風光や事物のモノ自体をして語らせ、それらを言語的に造形することによって、深い宇宙論の影を宿すにいたっている。 

 他方芭蕉は、主観性の枠組み以前のひとであるが、むしろリルケとは逆に、季語に代表される共有の場からひとり抜けでて、風光や事物それ自体を語らせることによって現世を解脱し、宇宙論の深みを開示し、禅でいう観照の境地に達している。 

 いずれにしろこの二人の孤高の大詩人は、近代と非近代という対照的な道をたどりながら、同じ「目にみえない世界」にいたったのだ。

予告編 

 私の予告ばかりで恐縮であるが、この9月にマイケル・ハミルトン・モーガンの『失われた歴史』の翻訳が拙訳で平凡社から刊行されることになった。わが国の戦後の教育やメディアは、長いあいだ西欧中心史観に毒されてきたが、これはその偏見を正す好著である。 

 たとえば人類の歴史ではじめてコペルニクスが地動説を唱えたとか、ルネサンス時代はじめて地球が球形であることが発見され、コロンブスが大航海に乗りだしたとか、あるいはそれに類する偏見である。

 代数やアルゴリズムの発見、球面三角法による諸天体の正確な位置の計算や、球形である地球の緯度経度の正確な計算から、レオナルド・ダ・ヴィンチのはるか以前に水圧ポンプやクランクシャフトといった機械、またいまでいうハンググライダーによる実際の飛行などのテクノロジーにいたるまで、中世イスラームの科学や技術がいかに高度なものであって、中世やルネッサンス以後の西欧にいかに圧倒的な影響をあたえたか、詳述されている。 

 西欧中心主義歴史観から離脱し、新しい歴史観について考えるためにも貴重な本である。ぜひお読みいただきたい。