一般財団法人 知と文明のフォーラム

近代主義に縛られた「文明」を方向転換させるために、自らの身体性と自然の力を取戻し、新たに得た認識を「知」に高めよう。

伊豆高原日記【31】

2007-08-28 06:49:01 | 伊豆高原日記

北沢方邦の伊豆高原日記【31】
Kitazawa,Masakuni  

 伊豆高原にはめずらしく、30度以上の日が数日つづく猛暑も一段落し、海からの涼しい微風が再び心地よく吹きはじめた。旧暦ではいま七月、つまり初秋であるが、夜きわだつ虫の音を別として、昼はまだ秋の気配は少ない。秋の最初の伝統行事であったタナバタ(今年は8月19日)の夕も、湿気が多く、星影もあざやかとはいいがたかった。もっともこの地も街灯や人工照明が増えたおかげで、かつての夏の銀河のまばゆいばかりの輝きも、すっかり褪せたことは事実である。

中世グローバル文明の興亡

 数学やコンピュータに詳しくないひとでも、アルゴリズムという術語は耳にしたことがあるだろう。数学的には再帰(帰納)関数と定義されるが、一定の数学的手続きを有限回くりかえすことで完結した結果がえられる方式をいう。たとえばフィボナッチ数列というものがある:

 0,1,1,2,3,5,8,13,21……
 
 これは第2項以後、前の数字を足すことで後の数がえられる。数式化することもできるが、こうしたものを(原始的)再帰関数という。

 再帰関数は、ゲーデルがあの有名な不完全性定理の証明に使って一躍脚光を浴び、さらにコンピュータ・プログラムの作成に不可欠として、情報技術を担う最強の数学的道具となった。

 このアルゴリズムの語は、九世紀のイスラームの数学者アル・コワリズミ(ラテン語でAlgoritmi)の発見に由来している。アルゴリズムに限らない。語頭にアル、つまりアラビア語の定冠詞のつく用語は、すべて中世イスラームの発見や発明に由来する。たとえばアルジェブラ(代数)、アルカリ、アルカロイドやアルコール、アルム(明礬)などの化学用語、アレルギーやアルビノ(白子または色素欠乏症)などの医学用語などである。アルがつかなくてもアル・ウドが訛ったリュート(弦楽器)、タリフ(関税)など、多数の用語はアラビア語からきている。

 音階名ド、レ、ミ、ファ、ソル、ラ、シは、アラブの音階名ダル、ラ(ra)、ミ、ファ、サド、ラ(la)、シンの訛化である。そもそも上記のフィボナッチ数列で書いた数字はアラビア数字であり、それまではヨーロッパは煩雑なローマ数字(たとえば2007年はMMVIIと表記する)を使っていた。

 文明のあらゆる分野におそるべき影響をふるったイスラームの思想や科学や芸術とはなんであったのか。またそれはなぜ中世に黄金時代を築いたのか。そしてなぜこの巨大なグローバル文明は、18世紀以後没落を余儀なくされたのか。こうした疑問に応えるマイケル・ハミルトン・モーガンの『失われた歴史;イスラーム科学者、思想家、芸術家の永続的遺産』Michael Hamilton Morgan.Lost History;The Enduring Legacy of Muslim Scientists,Thinkers, and Artists. National Geographic Society,2007.を、きわめて興味深く読了した。

イスラーム拡大の秘密

 片手に『アル・クルアーン(コーラン)』、片手に剣というイスラーム像は、十字軍戦争以来の西欧がつくりあげたものであって、イスラームはほんらい決して好戦的ではない。にもかかわらず8・9世紀、イスラームの領土が短期間に急激に拡大したのは、その宗教的寛容と経済政策のおかげであった。

 先行する兄弟宗教であるユダヤ教とキリスト教をイスラームは十分に尊敬し――周知のように『クルアーン』には『聖書』の記述が多く取り入れられている――、進出した地ではモスクが建設されるまで、これらの宗教の寺院の一隅を借りてイスラームの礼拝が行われていた。兄弟宗教だけではない。ペルシアのゾロアスター教、インドのヒンドゥー教なども尊重され、改宗が強制されるようなことはけっしてなかった。ただムスリム(イスラーム教徒)に比べ、異教徒は税金を高く徴収されたので、その理由から自発的に改宗するひとびとは多かった。

 この宗教的寛容が異教徒の学者や技術者、あるいは商人や貿易商をイスラームの都市に惹きつけ、彼らのエネルギーと創意を発揮させ、空前の経済的繁栄と科学や技術、あるいは医学や芸術の黄金時代をもたらしたのだ。事実、たとえばクルタワ(コルドバ)を首都とするスペインのウマイヤー王朝時代、キリスト教による迫害を逃れ、ユダヤ人の学者や芸術家がコルドバやトレドに集まり、それらの大学や研究機関のレベルを飛躍的に向上させた。

 王朝の交替などでは戦乱や血腥い騒乱が起きたことは事実であるが、どの王朝もこの宗教的寛容と学芸の保護や振興という政策は、忠実に受け継いだ。なぜならこの時代のイスラームは、「信仰」と「理性」を厳密に区別し、政策や学問における理性の行使こそ、神の教えにかなうものとされたからである。

 イスラームだけではない。13世紀に東西にわたる大帝国を築いたモンゴルにしても、敵対するものは容赦なく殺戮したが、降伏や同盟を選ぶものには寛容であり、とりわけ異教を尊重したからである。モンゴルの宗教はラマと呼ばれる仏教であり、仏教は他宗教にきわめて寛容であった。東は中国の元、西はこのイスラーム圏にわたる大帝国は、それぞれの地域の文化を尊重しただけではなく、それらの大規模な交流をはかり、中世世界に「ひとつの巨大なグローバル文明」(モーガン)を築きあげるにいたった。

 従来の好戦的で侵略的なモンゴルという西欧中心主義的史観をくつがえす、このモンゴル観も画期的である。

「失われた歴史」の遺産

 事実、東の元の皇帝フビライの弟フレグが西の帝国の元首となり、現在のアゼルバイジャンに首都を築いたが、そこにバグダッドからアル・トゥシを招き、当時世界最大の天文台を造営させた。天文学者にして数学者のこのアル・トゥシこそすでに13世紀に、地球や惑星が太陽の周りを回転している事実を正確に計算した大科学者である。中世からルネサンスにかけてのヨーロッパの学僧や知識人の教養の出発点は、アラビア語の習得であったが、コペルニクスの「地動説」は、このアル・トゥシをはじめとするイスラーム天文学の文献からの借用であることが、近年明らかにされた。

 アル・トゥシだけではない。9世紀のペルシアのオマール・ハイヤームは、詩集『ルバイヤート』の詩人として知られ、18世紀のその英語訳はヨーロッパ・ロマン主義勃興の引き鉄となったが、本職は宮廷数学者・天文学者であり、たとえば1年の日数を365・2918と計算していた。現在のスーパー・コンピュータによる計算では365・2910とされているから、その正確さは驚異でさえある。

 イスラーム世界では、早くから地球が球体であると認識され、その直径や赤道の円周などもほとんど正確に計算されていた(現在の数値とは数百キロ程度の誤差しかない)。中国で発明された磁石(指南)やイスラームの発明である天体観測の機器(四分儀・六分儀)を搭載したイスラームの船団は、インド洋をへて中国までの海のシルク・ロードを開拓していた。あるいは世界最初のパラシュートやグライダー(イスタンブールでの数十分飛行が記録されている)、あるいは揚水ポンプなど、レオナルド・ダ・ヴィンチに先立つ多くの技術的発明とその実験・実施は枚挙にいとまがない。

 化学はアラビア語でアル・ケミーというが、それがヨーロッパにアルケミー(錬金術)として誤伝し、ほんらいのケミストリー(化学)と長い間共存することとなった。医学の分野でのマイモニデス(ラテン名)、哲学の分野でのアヴィケンナ(同、イブン・シーナー)やアヴェロエス(同、イブン・ラシード)などが中世やルネサンスにあたえた大きな影響は、西欧哲学史や科学史でも早くから扱われていたことはいうまでもない。だが近代の成立の基底とさえなったこれらイスラームの、さらにはさかのぼって中国やインドあるいはイスラーム以前のペルシアなどのこれらの科学や技術、詩文学や音楽などは、西欧のルネサンス以後、なぜその黄金時代の輝きを失ってしまったのだろうか。

 それは西欧近代が、植民地の開拓と資源の収奪という帝国主義的制覇の道を歩み、それにともなって中東やアジアが貧困の沼地に沈みはじめたからである。イスラーム文明の夕映えであるオットマン・トルコ――しかしその残照はモーツァルトやベートーヴェン、レッシングやゲーテ、あるいはドラクロアなどの良きオリエンタリズムに反映している――を最後に、イスラームの太陽は地平線に没する。

 だが、西欧近代の絶頂であるとともにその没落の開始を告げるグローバリズム制覇のいまこそ、われわれはこのイスラーム文明の根底にあった寛容と共生の精神を学ばなくてはならない。これは、西欧グローバリズムに暴力で対抗しようとしている一部のムスリムにとっても、根本的な教訓となるはずである。

 『失われた歴史』は現在の世界とその未来についても、深く考えさせてくれる。邦訳がでたら一読を薦めたい。