- 松永史談会 -

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松永史談会6月例会のご案内 第二報

2018年06月01日 | 松永史談会関係 告知板


主催者側としては6月18日は史料の熟覧と撮影(純粋に史料調査)を行う予定。時間があればそれに基づいた本荘重政研究、例えば遺著『自白法鑑』など踏まえた本庄重政晩年の「心の風景(inscape)」に関して解説するかもしれない。


6月例会配布資料・・・・本庄重政晩年の論理と境地に関する詳細は7月例会に回すこともある。

追加資料




岡山藩から「奉公お構」の通達が出され、本荘自身は仕官の道が立たれたが、池田光政のもとを去った理由が本荘自身に奉公の希望がなく、「工夫の道を広め」るためだったとは・・・・。渡り鳥人生を選択し、備後福山藩領内で行ったことは新田開発とニュータウン建設事業だった。




大橋健二は江戸初期の代表的な陽明学者熊沢蕃山の著書の一つ『集義和書』の中の一文を捉え、その精神の気高さを称賛。たしかに本荘重政と同じような陰陽五行説関連のレトリック・比喩を駆使した蕃山だが、その文章には心に響くものがある。
その点本荘の文章はまことに味気ない。


蕃山の治山治水論を捉えてかれこそ日本のエコロジー思想家の先駆けと持ち上げている。古くより蕃山は治山植林論者として認識されておりその限りにおいて間違いではない(吉田東伍『徳川政教考』、冨山房、明治27)。
そういう面では水野時代の福山藩の財政基盤を整備する立場から塩浜を金山に代わるものとして導入するなど本荘は殖産興業を優先した開発論者と言えたかもしれない。
なお、福山藩では松永湾岸の「内海」(干潟や水面)を藩主水野勝成の殺傷場(狩場)として指定し、予め漁労生活を営む周辺住民をそこから締め出す措置を取りながら、干潟干拓後の貞享3(1686)年には湾岸10ヵ村(山波・高須・西村・今津・神村・柳津・藁江・金見・藤江・浦崎)より漁猟に対する課税(運上金)制度を設け、藤江村(漁猟)請所(岡本山路氏)にその役割を担わせている。また新規の新涯築立に対しても同様に田畑塩浜の面積に応じた地代銀を山路氏に対して納付することを義務付けている(『松永町誌』、390-391頁)。




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