- 松永史談会 -

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『西備遠藤実記』に言う「大谷深山小田越」

2014年11月16日 | 断想および雑談
藩主阿部正倫(まさとも)時代の福山藩では幕藩体制中期の代表的農民一揆「福山藩天明一揆」が発生。その時の状況を江戸時代の藩主の福山藩領認識の欠如と藩主正倫に気に入られ総郡之御用惣掛にまで出世する遠藤弁蔵の当時の非情な施策とそれに反発して起こされた農民一揆(天明一揆)の領内諸村での動静を「西備遠藤実記」は詳細にルポしている。こちらは一種の告発本たる「西備遠藤実記」の紹介論文だ。




小田谷と大谷(旧本郷温泉峡)の間の馬背形の山体


現在祭礼で使われている高張提灯(尾道市高須町)




夜分、上有地から新庄村に抜けるときに道を間違って大谷深山小田越を行い、午後10時前後に本郷村庄屋石井宅に到着したという話だが、「大谷深山小田越」は旧福山市本郷町と芦品郡との境界部に位置する峠(溜池は小田池)だ。

元禄検地帳や宝永期の本郷村絵図に「小田(こだ)」という地名(二人の名請け人が居住した小集落地名、元文年中/1736-41年の小田池造成に伴い廃村化)が出てくる。また『村史』に小田池普請関係(何故か小田池は「月小田池」と記載、沼隈郡諸村挙げての夫役提供で完成)の文書がある。この辺は新庄奥山と称していた場所に当たり、「小田池」が現存し、その池の西縁に当たる山地斜面に湯女奥(ゆなおく:現在の本郷森林公園のある一帯)へ通じる古道(幅員1㍍強)の痕跡が断片的に残る。一帯は明治以後赤松が繁茂し、昭和30年ごろまではマツタケのたくさん採れたところ。

「小田谷」を北上し、図面では省略されているが元官林(御建山)とある部分に峠がある。それを越えて有地と新庄本郷とを結んだ古道上に「大谷深山小田越」があったわけだ。『西備遠藤実記』にはここを「凄々(すごすご)しくもたち越えて」と表現しているが、夜中に提灯の明かりを頼りに細い急坂を登った様をなかなか上手く表現している。

今津村保長に「河本膳左衛門」の名がみられるが、河本亀之助の親父さん。小前総代の中の「小川恒松」(わたしの高祖父の末弟)は『河本亀之助追悼録』に亀之助が東京に出発する前にあいさつ回りに訪れた人物の一人。お世話になっていたのだろ。
戸長河本幹之丞は河本本家のご当主で、餞別50銭を亀之助に渡している。永年今津村の村長を務めた。
村上専三は松永村郷侍の島屋村上氏ご当主の公儀名。
絵図面は近世以来の懸案事項であった新庄奥山の入会山の分割相論時のもので、この山論は昭和12年大審院判決が出るまで続いた。

A:上有地、B:本郷
大谷深山小田越・・・・・小田(こだ)池と呼ぶので、小田越は「こだこえ」と読むのだと思う。なお、融道男『祖父 融道玄の生涯』では福山藩士の家系に生まれた小田勝太郎のルーツに関して、有地村の字・迫で迫という居所の地名を転用して姓を名乗っていたが、本姓は小田(おだ)だったとしている、ケースもある。

「大谷深山」という言い方は地元では慣用されていない呼称だろと思う。集落から遠く離れた奥地の山は深山ではなく”奥山”(例えば湯女奥山)というのが普通だからだ。参考までに、地域の入り口=「口」(用例としては京都府の通称「口丹波」)、対するのが「奥」(用例としては京都府の通称「奥丹波」)。
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