- 松永史談会 -

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阿部氏入部後始まった「田盛大明神祭礼」

2018年02月26日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
田盛庄司神話を祭礼化した近世起源の村行事・・・・神主・河本家が田盛庄司の子孫だと規定し、そこに高須村・西村・東村といった周辺諸村の庄屋・神社関係者たちが集合し会食するというものだ。このとき初穂米(古来祭祀を主導した豪族がその費用や供物とするために支配民から徴収したものだが、ここでは神に献じるために収穫作業の前に予め穂苅された稲穂から取れた米)をつかって醸造された濁酒がふるまわれたようだ。河本四郎左衛門眉旨は教養もあり、親(幼名:弥八、1776年/18歳で庄屋となり、石井熊峰門下として字:士端、号:廣岡、22歳になる天明元年に四郎左衛門、天明7年に富太に改名した。寛政5年に藩に対し「時論12章」を献策し名字帯刀。寛政9年に家禄を得ることになる河本保平和義)の代から郷士(月3石or 在方扶持人)として福山藩の家中に組み入れられており、周辺の村々の庄屋からも一目置かれる存在だったのだろうか。18世紀といえば藤井川河口部左岸の高須・西村・今津三ヶ村入会干潟の干拓事業が進められた時期(宝暦5年築堤、明和3年補強工事、寛政元年修復工事、寛政2年補強工事、天明9年6月洪水発生に伴う災害復旧工事)に当たり、その難工事を円滑に進めるためには、関係諸村は協調して行かざるを得なかったはずだ。(やや穿った見方をするようだが、)そのために持たれた会食を伴う寄り合いを捉えて河本四郎左衛門は(『備後郡村誌』の例が正にそうであったように村民の目に触れないこの答書のような場の中では)自分に都合よく「田盛大明神祭礼」と言っていた可能性もある。後述することとも関連することだが、この人物(河本保平和義&四郎左衛門眉旨父子)たちならこのくらいのことはやってのけただろうと思えてならない。

文化15(1818)年旧暦1月27日夕方-28日は新暦に直すと1818年3月3日―4日にあたる。28日は仏滅だったようだ。



次の史料は阿部氏が福山領に入部したときに差し出されたデータに、文化12,3年ごろの調査データ(『福山志料』編纂時にあたる)が加えられて編纂されたもので文政元年(1818)に藩に提出された『備後郡村誌』だ。つまり、河本四郎左衛門によって作成された「今津村風俗問状答書」が作成されたまさに同じ時期にこの『備後郡村誌』が編纂されていたことになる。この郡村誌には剣大明神にかんして新羅国王と田盛(田盛庄司安邦)のことが朱書され、この部分が文化期の追記であることが判る。すでに白鳳期の村長田盛庄司(安邦)という文言を有する史料がすべて偽文書であることは論証済みだが、この文言は18世紀に再建された『蓮華寺由緒書』にも記載されていたようだ。
正徳元年(1711)ー文政元年(1818)期までの100年あまりの間に河本氏は蓮華寺を巻き込む形で過去の偽造を繰り返した。そうした中で剣大明神境内の「田盛之社」が神主河本氏によって建立され、それだけにとどまらず河本氏の祖先をまつった当該神社を近隣村を巻き込む形での今津村の村落行事化したことを河本四郎左衛門作成のこれら一連の史料は主張したもの。考えてみればたんなる作り話にしか過ぎない河本家(天正・慶長期の毛利氏による惣国検地上に安毛(弥介)在住の孫左衛門と記載された人物が河本氏の史料上明らかな祖先、庄司でもなく「中こやの惣兵衛」のような10町歩規模の田畠を有する在地領主級の大百姓でもなかった)の祖先神話に実体性を持たせるために藤井川河口部一帯の盟主を演じるなど随分と厚顔無恥な事を行ったものだ。今津宿の本陣、福山城の西の砦として位置づけられた剣大明神の神主そして今津村の庄屋職を近世を通じて独占的に兼帯してきたことがこうした腐敗体質を生み出す契機となったのかもしれない。河本保平和義の場合、自分の管理する剣大明神を式内社・高諸神社に変更しようとしたり、剣大明神を「当一国総鎮守」するなど過去の偽造に積極的に加担した

菅原守編纂『備後向嶋岩子島史』にも『御調郡誌』の説を引用しつつ島内産土神を「椙(杉)原別宮」からの分霊だとか和泉式部伝説を史実と主張したりする(208-209頁)一方、向島西八幡境内の石碑(昭和9年建立)に刻まれた本社が「備後国総社」だとの文言については嘘だと批判(157頁)。自分の村の神社を備後国の総鎮守だという偽史言説は備後国各地ではいろんな形で流布していたようだ。

河本和義の母親は豊田氏だが,これが沼隈郡高須村で帰農した水野浪人:豊田氏であったか否かいまのところころ未確認(確認予定なし)、

河本四郎左衛門らの執拗な過去偽造行為の痕跡:今津浦に漂着した新羅の王
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