高島平三郎(1865-1946)は我が国における心理学・児童学のパイオニアの一人だった。終生旺盛な文筆活動をつづけた人であった。文部事務官西村茂樹が編集長を務めた「教育時論」に投稿した彼の論考は50本近くある。最初のものは明治19(1886)年5月25日発売の教育時論40号に掲載された蜻州生(高島平三郎のペンネーム)「新体の詩:春野」。明治19年5月といえば沼隈郡金見尋常小学校校長(明治17年9月ー明治21年4月)時代に当たる。高島の特徴は専門的な論考の外に、漢詩とか新体詩などもあり、そもそも文筆家気質否投稿魔(自制できないほどの投稿好き)風のところがあったのだろうか。非常に社交的で、物事に対して万事意欲的に取り組める青年校長だった。
高島の論考は帝国大学出のライターのように外書を駆使した海外学会動向の紹介とかはなく、自分が教育現場で経験したことや見聞したことを整理した感じのものが多い(高島の限界①)。従って、大隈重信のように我が国の教育界全体に対して号令するといった高尚なものや高楠順次郎のように国民教育全般に対してそれを論評するということはなく、終生児童教育に関わる分野で蜷局をまいていたたようなところがあった。その辺は高島の分を弁えた称賛すべき態度というよりもやはりもう一つの限界②といってよい部分だ。ライターとしての高島は徳富蘇峰(高島の長男文雄結婚時の仲人)世代の人で論旨を読み取りやすい、中庸を弁えた論理的な思考のできる人だったが、徳富のような天下国家や頼山陽の全体像を論ずるといったスケールの大きな議論、世論を形成してしまうくらいの迫力ある大風呂敷を拡げるということはできなかった。
教育時論363(明治28.5.15)
社説「新領土における教育的施設の順序」
教育時論375(明治28.9.15)
社説「朝鮮留学生」
教育時論381(明治28.11.15)
高島平三郎「心理漫筆」の投稿始まる。
教育時論382・383・384・385
高島平三郎「続心理漫筆」
教育時論405・406・407・408、409(明治29.8.25)
このころ高島平三郎・西田幾多郎(”西田神学”を代表する『善の研究』の第一編 純粋経験 辺りは高島平三郎と類似の用語体系/ターミノロジー)がともに投稿。
教育時論504(明治32.4.15)
松本孝次郎「児童研究におけるフレーベルの位置」
明治34-36年ごろの面白論題
校風(生徒の群集心理)の研究
教科書検定について
英国の領土教育を記述し我が国の領土教育を論ず
士風の頽弛
教育時論664(明治36.9.25)
朝河貫一「海外における東洋史教授の困難」(上下)
教育時論667(明治36.10.25)
教科書事件を特集
教育時論667(明治37.8.25)
国民思想の健全を期す
クロパトキン「進化と相助(相互扶助ヵ)」⇔要確認
明治39-40年ごろ大隈重信は教育時論にしばしば投稿
教育時論783(明治40.1.15)
山本瀧之助「青年団体雑感」
教育時論785(明治40.2.5)
元良勇次郎「低能児児童教育の一法」
教育時論800(明治40.7.5)
高楠順次郎「国民教育者に望む」
教育時論815
元良勇次郎「心理学上より見たる品性の修養」
教育時論833(明治41年6月5日)
高島平三郎「児童の感化」
下田次郎「都会の児童」
吉田熊次「ドイツ児童教育の新生面」
元良勇次郎「精神の操練」
教育時論818(明治41.1.5)
山本瀧之助「昨年の青年団体」
大隈伯爵「教育論」
教育時論844
留岡幸助「感化教育談」
教育時論848
高島平三郎「児童道徳教育の発達」
教育時論860
高島蜻洲「漢詩」
教育時論1052(大正3年5月25日)
大隈重信「全帝国の教育家に告ぐ」
教育時論1121(大正5.6.5)
高島平三郎「精神生活の対比現象」
教育時論1151
高島平三郎「家庭における新入学児の取扱」
教育時論1175
高島平三郎「日本児童の道徳意識」
教育時論1424
後藤新平「少年団運動の使命」
此の少年団(ボーイスカウト・ガールスカウト)運動を通じて高島平三郎ー三島通陽ー後藤新平ー二荒芳徳伯爵(ー例えば金光教)などは繋がっていた。
関連記事
関連資料(PWD=taka)
教育ジャーナリズム史研究会 編教育関係雑誌目次集成 第1期(教育一般編) 第1巻 (教育時論 1号~245号)~第8巻
高島の論考は帝国大学出のライターのように外書を駆使した海外学会動向の紹介とかはなく、自分が教育現場で経験したことや見聞したことを整理した感じのものが多い(高島の限界①)。従って、大隈重信のように我が国の教育界全体に対して号令するといった高尚なものや高楠順次郎のように国民教育全般に対してそれを論評するということはなく、終生児童教育に関わる分野で蜷局をまいていたたようなところがあった。その辺は高島の分を弁えた称賛すべき態度というよりもやはりもう一つの限界②といってよい部分だ。ライターとしての高島は徳富蘇峰(高島の長男文雄結婚時の仲人)世代の人で論旨を読み取りやすい、中庸を弁えた論理的な思考のできる人だったが、徳富のような天下国家や頼山陽の全体像を論ずるといったスケールの大きな議論、世論を形成してしまうくらいの迫力ある大風呂敷を拡げるということはできなかった。
教育時論363(明治28.5.15)
社説「新領土における教育的施設の順序」
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教育時論405・406・407・408、409(明治29.8.25)
このころ高島平三郎・西田幾多郎(”西田神学”を代表する『善の研究』の第一編 純粋経験 辺りは高島平三郎と類似の用語体系/ターミノロジー)がともに投稿。
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明治34-36年ごろの面白論題
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教育時論800(明治40.7.5)
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教育時論844
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教育時論1052(大正3年5月25日)
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教育時論1175
高島平三郎「日本児童の道徳意識」
教育時論1424
後藤新平「少年団運動の使命」
此の少年団(ボーイスカウト・ガールスカウト)運動を通じて高島平三郎ー三島通陽ー後藤新平ー二荒芳徳伯爵(ー例えば金光教)などは繋がっていた。
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