『葛原勾当日記』をもって出かけ、中之町の九十九さん(醸造業九十九巳之吉の子孫)の近所で高須屋・小松屋という屋号を聞いてみたが、高須屋は吾妻橋西詰め薬屋(杉原、わたしの子供時代は駄菓子屋)なら知っているという感じでまったく埒が明かなかった。聖護院かぶらを届けに親戚に立ち寄り、承天寺墓地へ。東町理解という面ではいろいろ収穫があった(当然の事として、私としては新たな課題が見つかったという部分での収穫の方がより重要だと感じている)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/5d/8fff0517cbd95f8c67cde939dcbf03b2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/07/2029a0bedd6090c95295caa63c642481.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/38/c15f011a39918487ca169a99181c6c38.jpg)
元禄期の舟形光背墓、尾道当たりで見かけるものより、相当に小ぶり。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/d8/28ddaa8e68f981b036fe05c7a01da4cf.jpg)
法名に「釋」、「妙」がつく。承天寺近辺墓地には真宗門徒の墓がかなり含まれている。草ぼうぼうの中に墓石が立っている感じで、うっかりしていると雑草の種(”引っ付き虫”)が大量に衣服に付着する(^ω^)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/58/d3/584d26fbbac4d514961ea872fa698a3d.jpg)
かつて町内屈指の富豪(幕末期には松永村組頭で、製塩・醸造業、明治25,29年には県会議員に当選)だった東屋小川喜三次夫婦の墓は明治33年御当主の病没後は没落状態になり、土壁ははげ落ち、荒れ放題だが立派な構えの墓地に往時の面影の一端を留める。墓誌の読み取り作業は日を改めて行う予定だ・・・・再調査したが収穫なし。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/3f/d6b8bec417c601b9ea39107f755691fd.jpg)
小川家墓地全景・・・草ぼうぼう
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/a2/65af4a88ec639ec7b2c991cb2dda5fe7.jpg)
小川家墓地からみた松永の街並み
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/0c/5f5c941b6e7f2b5841dbe7c91e996e37.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/49/bb74d7981fc26d16f9d84cda64128dc4.jpg)
小川喜三次と明治維新期の農民騒乱
平櫛関連記事 栄虎(平櫛姓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/59/9e891662a14f7ad0569d1cce43465818.jpg)
小川喜三次の所有地(今津村500番地、旧三藤喜四郎持分地)を発見。喜三次の土地は沖田地区にももう一筆あったようだ。小川恒松(大前小川家・・・『河本亀之助追悼録』に石井憲吉・石井一郎らとともに出てくる御仁)との系譜関係の有無は不明。なお、499・501番地は第66国立銀行(尾道→広島銀行)の所有地(旧山路右衛門七持分地)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/27/f70a1be2e6d3d3c889dbc7fd3b82b7f6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/b5/1cfab7723dd5aa0067cd7bab20389028.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/84/34fd45ece00b93306561864d73d8ff6b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/e3/abe763432689b2ce6e621cd194b3c7a1.jpg)
高橋碧山(1849-1906)の墓誌。医師。武井節庵・北条晦堂、備中興譲館の坂谷朗蘆、21才の時に福山藩医宮森養竹(漢方)、寺地強平(洋方)。明治19年薇松泉会(古銭同好会)を作った。明治33年『西山遺稿』に当時の住所が沼隈郡松永町705番地とある。場所は湯屋ヶ橋の東詰、中之町北端山側の九十九巳之吉経営九十九酒場のあった屋敷だ。承天寺山山麓に茶室風の離れがあって、それを上ると承天寺麻生家墓地付近に出る木戸があった。賴山陽が今津・薬師寺で漢詩会をした後、宿泊したのが高橋西山の親父景張時代のこの竹原屋高橋家住宅だったが、ただし、それが705番地屋敷だったかどうかは不明。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/dd/8a405c8ce15abc4fb36a0ffa93ef9aa7.jpg)
![](https://static.yaplog.jp/static/image/emoji/95.gif)
一基だけが丸山鶴吉墓地、二基ある方は弟の丸山幸一家墓地。この丸山一族も栄枯盛衰の波の中に飲み込まれている感じだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/e4/45064f15202120db91c6d569547918d7.jpg)
東京・青山霊園の丸山鶴吉一家之墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/f3/6fa16dc78bff126fb51d744a5629f763.jpg)
麻生吉兵衛家の墓地。尾道・橋本家文書に「福山藩領松永村の高須屋吉兵衛」とある家筋だ。高須の麻生氏の家紋は卍、こちらのは「八角に剣片喰」。高須屋麻生家の旧墓地の一部は神村万福寺にある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/64/f7cb666865cac6395d3a0ee719a0ad65.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/42/0d6f662db0fc2e04d3d3d70505134736.jpg)
松永村戸長村上専三夫婦墓、夫人(竹原の豪商米屋吉井家の出、吉井氏は竹原の庄屋でもあった)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/e0/dc06716d132ec5355c46cf4bf96cb31f.jpg)
安永2年の史料に松永村郷侍(『松永町誌』、388頁)と出てくる村上専蔵家系の息子兵五郎(第二代目松永村村長、在職期間明治25-40年)の墓誌に友人得能正通の書字(丸い墓石の北側or寺側の墓石)。兵五郎は年齢的に河本亀之助と同級生くらい。兵五郎には子供がなく絶家。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/70/3d025a0284c1b4f0d3ab78fbd7a7ed21.jpg)
「本村上」(島屋村上氏)・村上専蔵家墓地の背後から
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/4a/f661a839ab4895ad31e1a5528f6eaed3.jpg)
同上村上専三家墓地の正面景
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/16/2f4c0ead7bcb60b79c8a3c997df416a9.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/82/9241f05f4d1804e5ffdb5f1857e58b4a.jpg)
この大木屋は大木屋岡本か
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/82/dd24d1482316af698fde1db203165e99.jpg)
徳島の製塩業者井出家一族の墓地だ。製塩業者のお墓は結構小ぶりなものが多い。これは彼らが1.2町歩程度の零細塩田経営を余儀なくされてきたことと無関係ではあるまい。徳島の井出の分家は住宅の解体工事中。西川國臣の墓近くにいた齢80才くらいの見覚えのある男性夫妻(たしか解体工事中の住宅の隣の井出夫婦)に質問してみたが、むかしの事はあまり知らない風だった。こちら井出良〇系(良は通字)・・・良察・良朴らはすべて医師で松永浜持主。井出良朴(西村出身の医師・・・・医師井出健爾の岳父) 井出健爾は本郷村佐藤家の出で養子、子供時代は大成館で漢学を学んだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/2d/a18d317c8dbe3c2c7afb5cf50ea4137c.jpg)
井出元常・・・こちら井出元〇系(元は通字)も松永浜持主の家筋(『松永町誌』、395-96頁)。子供墓・・・・この一家の幼児死亡率の高さは異様。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/8a/af78e86bbc37df3de031dfeb1bf01c69.jpg)
『未開牡丹詩』に登場する井出重遠墓(→重顕@豊田郡河内で醤油醸造、俳人)は井出氏一族だが別系統。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/a4/3dbb9cbbece51bdfd538a6330123a590.jpg)
尾道屋(高橋氏) 尾道屋の女房の近世末期墓(本堂裏通路沿い榊の自生木脇の太い高さ2尺くらいの石柱墓)が今津・薬師寺旧墓地にあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/5d/233ffcbe46ae7b18b7aa0d6ae94084e0.jpg)
竹原屋(高橋氏)・・・・高橋西山家とは同族。この一族の古い墓地は今津・善性寺本堂裏。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/c2/e8d6786fb2c1cc00d91c877e51f5d098.jpg)
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吉和屋亀田家
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/51/d9d5002e077f96cc0bd16a217d8c2041.jpg)
鰯屋小林と関係ありか? 有力商人たちは藩主への献金の見返りとしてほとんど名字帯刀を与えられていたか。小林の祖先は竹原の鰯屋利兵衛とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/e8/2125eca562dda4f4353d23a5b2710ee6.jpg)
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眼下に丸山家住宅。いまもむかしも借家経営花盛り、このとおり過剰供給に拍車をかけるように中高層マンションばかりが目立つ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/a7/81da64074a4b1cab7d6983cb85a304d3.jpg)
大平山の向こうに本郷奥山の山並み
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/fa/e688354f9efb5347a8eff4ba606b309e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/3b/e99b41bfbbdfffd82cc74a38ca0e517b.jpg)
近世後半~明治初年の墓は半ば無縁墓地化の様相。坂道が急で高齢者にはお墓参りは相当困難だろなと感じた。
ここへはいままでに何度か訪れているが今回も収穫の多い半日旅立った。
関連記事あとい
西町に根を張った入江屋石井系の墓地
【参考】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/45/d7b296eb30af074d2af1f483e86e3e09.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/56/5182784aba33127365e561a7b33a0714.jpg)
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元禄期の舟形光背墓、尾道当たりで見かけるものより、相当に小ぶり。
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法名に「釋」、「妙」がつく。承天寺近辺墓地には真宗門徒の墓がかなり含まれている。草ぼうぼうの中に墓石が立っている感じで、うっかりしていると雑草の種(”引っ付き虫”)が大量に衣服に付着する(^ω^)。
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かつて町内屈指の富豪(幕末期には松永村組頭で、製塩・醸造業、明治25,29年には県会議員に当選)だった東屋小川喜三次夫婦の墓は明治33年御当主の病没後は没落状態になり、土壁ははげ落ち、荒れ放題だが立派な構えの墓地に往時の面影の一端を留める。墓誌の読み取り作業は日を改めて行う予定だ・・・・再調査したが収穫なし。
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小川家墓地全景・・・草ぼうぼう
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/a2/65af4a88ec639ec7b2c991cb2dda5fe7.jpg)
小川家墓地からみた松永の街並み
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小川喜三次と明治維新期の農民騒乱
平櫛関連記事 栄虎(平櫛姓)
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小川喜三次の所有地(今津村500番地、旧三藤喜四郎持分地)を発見。喜三次の土地は沖田地区にももう一筆あったようだ。小川恒松(大前小川家・・・『河本亀之助追悼録』に石井憲吉・石井一郎らとともに出てくる御仁)との系譜関係の有無は不明。なお、499・501番地は第66国立銀行(尾道→広島銀行)の所有地(旧山路右衛門七持分地)。
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高橋碧山(1849-1906)の墓誌。医師。武井節庵・北条晦堂、備中興譲館の坂谷朗蘆、21才の時に福山藩医宮森養竹(漢方)、寺地強平(洋方)。明治19年薇松泉会(古銭同好会)を作った。明治33年『西山遺稿』に当時の住所が沼隈郡松永町705番地とある。場所は湯屋ヶ橋の東詰、中之町北端山側の九十九巳之吉経営九十九酒場のあった屋敷だ。承天寺山山麓に茶室風の離れがあって、それを上ると承天寺麻生家墓地付近に出る木戸があった。賴山陽が今津・薬師寺で漢詩会をした後、宿泊したのが高橋西山の親父景張時代のこの竹原屋高橋家住宅だったが、ただし、それが705番地屋敷だったかどうかは不明。
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一基だけが丸山鶴吉墓地、二基ある方は弟の丸山幸一家墓地。この丸山一族も栄枯盛衰の波の中に飲み込まれている感じだ。
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東京・青山霊園の丸山鶴吉一家之墓
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麻生吉兵衛家の墓地。尾道・橋本家文書に「福山藩領松永村の高須屋吉兵衛」とある家筋だ。高須の麻生氏の家紋は卍、こちらのは「八角に剣片喰」。高須屋麻生家の旧墓地の一部は神村万福寺にある。
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松永村戸長村上専三夫婦墓、夫人(竹原の豪商米屋吉井家の出、吉井氏は竹原の庄屋でもあった)
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安永2年の史料に松永村郷侍(『松永町誌』、388頁)と出てくる村上専蔵家系の息子兵五郎(第二代目松永村村長、在職期間明治25-40年)の墓誌に友人得能正通の書字(丸い墓石の北側or寺側の墓石)。兵五郎は年齢的に河本亀之助と同級生くらい。兵五郎には子供がなく絶家。
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「本村上」(島屋村上氏)・村上専蔵家墓地の背後から
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同上村上専三家墓地の正面景
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この大木屋は大木屋岡本か
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徳島の製塩業者井出家一族の墓地だ。製塩業者のお墓は結構小ぶりなものが多い。これは彼らが1.2町歩程度の零細塩田経営を余儀なくされてきたことと無関係ではあるまい。徳島の井出の分家は住宅の解体工事中。西川國臣の墓近くにいた齢80才くらいの見覚えのある男性夫妻(たしか解体工事中の住宅の隣の井出夫婦)に質問してみたが、むかしの事はあまり知らない風だった。こちら井出良〇系(良は通字)・・・良察・良朴らはすべて医師で松永浜持主。井出良朴(西村出身の医師・・・・医師井出健爾の岳父) 井出健爾は本郷村佐藤家の出で養子、子供時代は大成館で漢学を学んだ。
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井出元常・・・こちら井出元〇系(元は通字)も松永浜持主の家筋(『松永町誌』、395-96頁)。子供墓・・・・この一家の幼児死亡率の高さは異様。
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『未開牡丹詩』に登場する井出重遠墓(→重顕@豊田郡河内で醤油醸造、俳人)は井出氏一族だが別系統。
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尾道屋(高橋氏) 尾道屋の女房の近世末期墓(本堂裏通路沿い榊の自生木脇の太い高さ2尺くらいの石柱墓)が今津・薬師寺旧墓地にあった。
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竹原屋(高橋氏)・・・・高橋西山家とは同族。この一族の古い墓地は今津・善性寺本堂裏。
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吉和屋亀田家
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鰯屋小林と関係ありか? 有力商人たちは藩主への献金の見返りとしてほとんど名字帯刀を与えられていたか。小林の祖先は竹原の鰯屋利兵衛とある。
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眼下に丸山家住宅。いまもむかしも借家経営花盛り、このとおり過剰供給に拍車をかけるように中高層マンションばかりが目立つ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/21/a7/81da64074a4b1cab7d6983cb85a304d3.jpg)
大平山の向こうに本郷奥山の山並み
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近世後半~明治初年の墓は半ば無縁墓地化の様相。坂道が急で高齢者にはお墓参りは相当困難だろなと感じた。
ここへはいままでに何度か訪れているが今回も収穫の多い半日旅立った。
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西町に根を張った入江屋石井系の墓地
【参考】
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