- 松永史談会 -

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今津町の「土手」と「柳町」

2016年12月07日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
今津町・土手 合原醤油店(販売)・・・・坂本屋村上さん(醤油醸造)のところに残っていた醤油壺


川本酒店(屋号「あぶらや」)に残っていた佐野酒店(吾妻橋東詰にかつて立地)の清酒壺に「今津・柳町」。柳町の呼称は字地名「柳ノ内」起源らしい。吾妻橋東詰め経由での鞆往還の入り口部分が「柳町」。明治・野取帳では村上重右衛門所有地だった場所。



赤丸・青マークは合原姓住宅。図中の「土手」は便宜的に注記したもので、「今津町 土手」が含意したものとは異なる可能性があり、要確認。


これら2店舗の場所の特定は他日を期す。屋号についても九州往還・鞆往還筋の旧家のそれに関しては悉皆的に調べ上げる必要がある。
麻生酒場を経営した麻生唯右衛門、岡田熊太郎(呉服の広田屋)辺りまでの坂道添いの町家地区を柳町といった。

この住宅地図は河本基一家資料ではなく河本英三郎家資料。各種地方史料と校合してみたが誤りが多く、ここでは区域を限って便宜的に引用した。



大正期の今津町・土手(部分)。吾妻橋東詰めに当たる。



最近見つけた古地図。明治地租改正事業の中で作成された野取帳と対応するが、松永村の末広町分の記載もある。旧石井保次郎所有地(旧島田薬局~福田嘉三郎経営の旧衣料品店「まねき」)


山陽鉄道会社の松永駅開業後町場化が促進されたわけだが、当時の土手部分を除く一帯の土地所有は平櫛又四郎、平櫛小兵衛(426番地only)、石井保次郎によるものだった。この辺の事情(地代収入および不動産売却益面での、地主側の増収増益願望)は田畑の宅地転用を円滑に進め、商業者の来住に対してプラス側に作用したと思われる。この点で一般の自作農の場合は、吾妻橋東詰め以東の西国街道筋において町場化がみられなかったことからも判るように、田畑に対する家産意識の大きさが作用して、当該鞆往還沿いの町場形成に必要な土地の売却、田畑の宅地転用はもっと難航したはず。

明治期の鞆往還・・・神村の「げんこうさん(石井病院)」前経由で松永東町に至る道路と今津・柳町経由で松永東町に至る道路の2系統があった。前者が本来の鞆往還。

明治30年正式2万


大正3年沼隈郡明細全図

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