- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

吾輩は武井節庵の墓守である。

2016年12月09日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
こんな記事を目の当たりにすると武井節庵という人が少し気の毒になる。

実をいうと目下わたしは節庵墓の私設墓守だ。


武井節庵は頼山陽門下の大物漢学者森田節斎(1811-1868)の登場(山路機谷のもとに転がり込んできた関係)で出る幕をなくしたか。なんといっても長州藩の勤王志士たちは吉田松陰を介して森田節斎の孫弟子たちなのだから。そういう点でいえば江戸生活を体験した垢抜けした武井節庵だったが、故郷でも今津でも誰からも慕われないという面でやはりダメ人間だったのだろか(福山藩の江木鰐水は阪谷朗蘆宛ての手紙の中で武井を小馬鹿にしてた)。わたしには決してそうは思えないのだが・・・。お墓は没後7年目(墓誌には17年目に墓石を建立とあるが、これは弔い上げを念頭に置いた記述だろうか、正しくは7年目に墓石を立てている)に二人の弟子によって建てられたもの。2022年6月1日知ったことだが、武井節庵の伯父見龍(1781-1844)は江戸中期の勤王家で後年諏訪に定住した「天龍道人」こと渋川虚庵 の依頼で文化5(1808)年に「天龍道人碑碣銘」なるものを撰文(『諏訪史料叢書』の「天龍道人史料」のなかにも収録)。
参考)天龍道人碑碣銘の紹介文
高橋碧山の墓誌に武井の記述があった。節庵は高橋西山と交友があったので、息子碧山の教育を武井節庵(や北条晦堂(『松永町誌』に寺子屋の先生高橋氏の項目で言及)坂谷朗蘆)に委ねたのだろう。


この人は肉親からも備後の漢詩愛好家たちからも見捨てられた存在だったのだろうか。わたしは茅野市と武井父子が出した『諏訪八勝図詩』第二版の復刻版(昭和56年、限定300部・・・・116号を2020年9月15日東京の古書店より購入済み)を出した印刷屋(考古学者でもある武井幸重さん)にもこの辺の情報は提供済。あちらにはまったく武井節庵情報が不足しているということだった。
【メモ】山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』、岡谷書店が”武井見龍一族と松島北渚”(204-207頁)の中で武井節庵について言及

墓石のサイズは尾道・慈観寺にある宇都宮龍山のものより大きめ。この地方の一番の大馬鹿(大墓)は山路機谷が生前に建てたもの。



なお、武井節庵墓の周辺には寛文~宝永といった近世前半の墓石がかなりあるが、それらは神村石井家(和田石井氏ヵ)とか沼隈町の枝広といった寺の創建に関わった大旦那筋のものだ。江戸前半期の石井清十郎墓(笠石付き墓石/石井清十郎は和田石井氏系、寛文ー元禄期の神村庄屋ヵ⇒『松永市本郷町誌』、316頁・・・石井清十郎は和田石井氏の公儀名⇔元禄13年検地帳記載の松永村槙島新涯の開発者=所有者”五左衞門”)はこの墓地で一番ジャンボ。話が横道にそれるようだが、この寺の西側河谷はかつて「西迫」(明治以後は字・東坂)という地字の場所だったが、この一角は中世の沼隈郡神村分の土地があったことが判っている。神村石井はそのことと何らかの関係があったのかどうか、いまのところ不明だ。参考までに石井右京進(松永石井家の祖・石井石見守清信の親族)の位牌か過去帳は今津蓮花寺にあるらしい(要確認・・・蓮花寺住職に確認をとったが無いとの回答だった)。






武井のお墓の手前、斜め奥の笠石付きの大きな墓は石井孫右衛門の墓だ。神村石井家の墓石は入江屋系のそれよりも100年ほど古い。この寺の創建に深くかかわった家なのだろう。舟形光背墓・板碑型墓石については今後注意して見て行きたい。参考までに言及しておくと福山藩主阿部家家中で戒名に院殿-大居士号を付された御仁の墓石(@福山実相寺)より、江戸中期の神村屋石井氏の墓石の方が大きい。ただしこちらの戒名は「院号なしの信士」止まり。


関連記事
『山路機谷先生傳--附森田節斎と平川鴨里』復刻版昭和60年(元版昭和8)が平川鴨里に対して薫陶を与えた先生筋の人間の一人として森田節斎夫妻、山路機谷らと並んで武井節庵に言及(105頁)。墓誌が126-127頁。
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史料紹介 小倉豊文校訂 『葛原勾当日記』

2016年12月09日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
数か月前までネット上(藤沢市の渡内書店)で販売されていた。たしか¥4000。



いま私が知る限り、福山の児島書店(天満屋裏)で¥18000、アマゾンで¥32800。笑ってしまうくらいの高値で売り出されている。地元の公立図書館には禁帯出のものを含めかなりの冊数が所蔵されている。校訂者の小倉は広島大学の先生だった御仁。精魂(ご当人は80歳の老体に鞭打ちつつ全身全霊を)傾けて取り組んだ感じで社会史研究の史料として使えそうだ。
江戸末から明治初期にかけて活躍した、京都以西では並ぶものなしと言われた生田流筝曲(琴)の名人で、童謡作家葛原しげるの御祖父さんに当たる人物の、文政10(1827)年から明治15(1882)年までの出稽古記録だ。


凡例の一部


目次の一部(本文註・補註は小倉豊文の研究成果で、有用・・・・ただし、率直に言って内容的には遣り残し多々という意味では不徹底さ・手抜きも・・・・・・まあ、そう考えるよりも少年時代から、葛原しげるによる特別の薫陶を受けてこられた小倉氏は後学のものに多くの課題を残されたと解して感謝するというのがよいのだろうと思う。)   

記述はこんな感じ・・角倉志朗『禅道探究日録』の最晩年の記述がこんな感じ。松永村の高須屋とは麻生吉兵衛家のこと(下之町に別荘)。天保期には高須屋を稽古場として使っている。黒鉄屋とは福山・深津の藤井与一右衛門家のことだろう。文字通りのお稽古日誌。しかし、なかなか・・・・・・


勾当の愚痴まじりのユーモアーこの頃の文面は珍しく豊かな感情表出


私としては邦楽の知識がないのが悔やまれるが、如何にこの史料を料理するか思案するのは実に楽しい。
弟子たちを演奏技術に応じて組(表組・裏組・中組・奥組・四季組・外組)に分け、それぞれ組別にいくつかの課題曲を練習させている。この辺は邦楽の楽曲に関する知識不足を補ってくれそう。

三吉傾山の大成館で漢学を学んだ三井勝治郎は其の後数学・英語をそれぞれ別個に塾経営をする先生のもとを訪れそこで学んでいる。高島平三郎の場合も同様であった。そういう意味においてここで紹介した葛原は良家の子女たちにお琴・三味線を教えるために備後・備中各地の会場(豪商・豪農の屋敷の一角)を使ってその土地土地の入門者たちに対して出稽古を行っていた訳だ。

出稽古先として松永・柳津・藤江が記載されている頁に付けた付箋 江戸時代は松永・高須屋が中心、明治期に入って件数は少ないが、松永岡本某、島屋(村上氏)おきく、入江屋石井(石井竹荘夫人が勾当の弟子)が出てくる。幕末期に柳津の西屋(干鰯商柳田氏)、藤江・岡本は山路機谷家だろうか、少々。


この日記には若干、社会史的出来事、一年を振り返った勾当の社会生活面での所感、安政元年に岡山県邑久郡尻海(牛窓の北に位置する港町)で受けた大地震とそのとき勾当らがとった津波に対する警戒行動、藩主が危篤の折に国中での歌舞音曲の禁止令、四国に渡海するときに、村上とはともに乗船したくないとの気持ちの吐露・風の神送りに鐘太鼓を鳴らすことが禁止されたとか、最近(安政六年)コロリが流行しているとの記述、慶應元年の記事として当時評判の漢学者・興譲館の坂谷朗蘆先生のことなどまことに興味深い。
朗蘆の死の報(明治14年正月)に接し、挽歌一首「散る花はまた咲く頃のあるものを春待つ甲斐の無きぞ悲しき」。勾当は朗蘆の事を老いらくの友だと感じていたようだ。
嘉永五年5月28日柳津で読んだ歌の一首「誠とは誠無きこそ誠にて,誠は仏の誠をぞ得る」というのは思索的だった勾当の一面を垣間見せるもの。
そのほか雨乞神事に3日3晩琴の演奏をさせられ、その暑さには往生したことなど、断片的ならが史料としてつかえそうな記述もあるし、母親の病死とその直後の父親の自殺(心臓下を短刀か何かで刺したもの・・・「切れものを取り出し、手業に心下を突き」と記述)。世相に関する盲人の感度、安政大地震の余震・雷に対する感じ方は盲人勾当の身体性を知る手掛かりが得られるだろう。
山本瀧之助『月と親』、大正14という著書(小冊子)があったが、この諺「月と親は何時もよきもの」を人が話すの聞いて歌を詠んでいる。嘉永5年当時の人たちにとってはポピュラーな諺(親は良い、月は宵とを掛けた一種の洒落を含んだもの)だったようだ。
ここから先は研究次元の話題になるので非公開

本日記については紀田順一郎『日記の虚実』、新潮選書、1988、9-24頁が取り上げている。アマゾンでは雑本扱い(価格1円)で入手できるが、まあ、文芸的過ぎて読んでも読まなくてもよい内容だ。


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