- 松永史談会 -

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野取帳にみる明治初年の沼隈郡今津村における地主的土地所有状況

2016年12月04日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
藤井与一右衛門(黒金屋)・山路右衛門七(岡本)・石井四郎三郎(入江屋)、村上重右衛門(竹本屋)が地主の主だったところで、そのほかに石井保次郎(益田屋)・平櫛又四郎(大久保)といったところが挙げられる。彼らの所有地が多いのは沖田地区の往還南側と今回紹介する爲安だ。


地元の自作農:大村仁左衛門(大村軍太の親父か御祖父さん)の所有地を参考のため入れて置いた。
字爲安の138筆の農地のうち、51筆が何人かの不在地主と在地の資産家(中小地主だが竹本屋・村上重右衛門)の所有地であった。石井四郎三郎の所有地は本郷川の堤防沿いにあり、『松永市本郷町誌』にも同町管内の本郷川河岸には同人の所有地がかなりあったと記述をしており、もしかすると福山藩による本郷川堤防の普請が石井四郎三郎のお手伝いのもと行われたか・・・・。
この辺りの問題は藩側の史料での確認が必要だ。


ところが農地解放前後には土地所有関係は大きく変化し、ほとんどが地元民による自作地に。この史料を見る限り、尾庵・村上薫の場合と異なり、竹本屋は【不在地主】として扱われたのか農地は完全に小作人の手に渡った感じだ。大久保平櫛又策さんは一時期地元銀行の重役をしたりしていたが、農地解放で田地を失い、大きなショックを受けたようだ。

1981-83番地の土地(生産性の低い、崖下の低湿田)の所有者名に大村軍太(野取帳では大村仁左衛門)とある。








爲安河原(写真中央部、榎の大木のある、白壁の土塀をもつジャンボサイズの居宅が村上重右衛門家住宅)


現在の爲安地区

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黙庵石井友三郎の筆跡

2016年12月04日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
石井亮吉の親父・石井友三郎(漢詩人としては黙庵、俳人としては瓢水)。蓮華寺の住職時は善学。この地方の名士、社交的で多趣味の人だった。

最晩年に坊さんになる前は、第三代目松永町町長。その前は助役、明治30年代初めに一時期入江屋石井一族の創設した金穀貸付業者穀蕃社の代表社員。穀蕃社が休業後はやがて出家し京都へ。大坂とあるのでその夜逃げしていたころものだろう。

福山城博物館蔵

三列目 向かって左から2人目の洋装の御仁:大林一彦(医師・投資家、映画監督大林の御祖父さん)。その右側の小柄な面長の人物が石井友三郎。浚明館に入塾してきた高島平三郎の優秀さを息子亮吉に語っていたようだ。高島の刻苦勉励譚はお家没落(同族会社穀蕃社の休業に伴う資産の喪失)という人生の試練に直面していた自分にとってはもちろんのこと、子弟教育においてもよきお手本になったはずだ。

写真の撮影時期だが大正13年清明節。場所沼隈郡松永町某所。写真の所蔵先は本郷屋山本家&南松永・河本家。両家の写真は子供の落書きや塩害による画像の痛みが見られたのでOGAWAが原画に沿って修整した。

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