「林真理子のマイストーリー」
朝日新聞連載小説・林真理子の「マイストーリー」を11回まで読んだ。とにかく読みやすい。すぐ「マイスト」と親しくなってしまった、自費出版の自分史を書き終えたが、刊行前に亡くなった男。わたしはこのよう例を知っている。還暦が近づき体調不良の歌人が、はじめて歌集を作った。しかし原稿が印刷されている時に倒れ、完成したときは意識不明、彼女が亡くなってから遺歌集として短歌の仲間たちに贈られたことがあった。その仲間たちのなかには「遺歌集にならないように」と急いで歌集を作った人が何人かいた。かなり前のことだが。
「マイスト」も自費出版で自分史らしきを書き配本直前に亡くなった。その本の編集を担当した男が仏前で亡くなった男の妻と二人で話すシーンからはじまった。出版の費用は100万円だと亡夫は云っていたが、300万円だと聞いて妻は驚く。遺影の前で夫を批判し、編集者は夫を庇う。二人の会話が面白い。キレイごとの小説とは違う。今日も「マイスト」から私の朝が始まる。
昨日⑩で「小説を書こうとする人間は自己認識が甘い」ことを、林真理子は指摘している。その例として『岡本多恵子第一作品集』は「若い頃の本人とおぼしき女性がえらく高みから自己分析をしながら男性を翻弄している」。これはフィクションだが。なるほどと共感する。一生に一冊の歌集。いわゆる素人歌人の歌集を私は何冊もいただいている。とても心にしみる歌があり、素人だのプロだのと決めつけるのはプロ歌人のつもりの歌人の奢りだ思う。
しかし歌集の「あとがき」を読みガッカリすることが多い。恵まれない生い立ち、涙に明け暮れた日々、などと不幸を強調する。自分の倖せを強調する「あとがき」も多い。両親、兄弟姉妹、子供、孫にまで大切にされ、自身の人生に感謝しているなどなど。「あとがき」を読むと「オイシイ歌」が不味くなってしまう。私たち人間は喜怒哀楽の生き物だ。日々、折々、気持ちが変化する。その気分を一首にしている。読者に鑑賞を任せているのだ。作者の思いを押し付けるのは読者には鬱陶しいのではないか。「マイスト」は軽いようで私には重い小説になりそうだ。 ※ マイストーリーを「マイスト」にします。スミマセン 林真理子先生、
5月12日 「マイスト」の挿絵もいいですね。まるで短歌一首。 松井多絵子