とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

『ヘンリー五世』を読みました

2019-02-17 21:07:00 | 読書
 シェークスピアの『ヘンリー五世』を松坂桃李主演の芝居を今度見に行くので予習として読みました。松岡和子訳のちくま文庫版です。

 シェークスピアは何度見てもなぜこれがいいのかわかりません。しかし、これはいいものだ。演劇における古典であり、シェークスピアを基礎におかなければ演劇を本当に理解できないのだと思うようになり、遅きに失したのですが、今から学びなおそうと思うようになりました。
 
 『ヘンリー五世』は、ストーリーとしては史実をベースに作られているのでむずかしいことはありません。水戸黄門みたいにヘンリーが身分を隠して兵士の中に紛れ込むことは演劇的なおもしろさがあります。方言の使用、英語とフランス語の絡みなど言葉の挑戦が興味を引きます。これも演劇的な試みのように思えます。これらの発明はその後の演劇に大きな影響を与えているのはあきらかです。これがシェークスピアの発明なのか、それともその前からあったのか、あるいは演劇構造の中で自然発生的に生じるものなのか知りたいと思いました。

 シェークスピア目標死ぬまでにしっかりと学んでいきたい人です。まずは実際に芝居を観たいと思います。
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「羅生門」⑧〔「合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった」〕

2019-02-16 09:21:03 | 国語
 「羅生門」において「作者」と名乗る「語り手」の介入が目立つ場面をもう一つあげる。これも有名な場面なので覚えている人も多いであろう。引用する

 その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、飢え死にをするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、飢え死にを選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していたのである。

 下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。


 この記述に違和感を覚える読者も多いのではないだろうか。この後下人は老婆に詰め寄ることになるわけだが、その理由は「合理的」なものではない。下人は老婆の行動に憎悪を感じる明確な理由はない。下人の勝手な思い込みなのである。「作者」と名乗る「語り手」は無理矢理理屈付け、それを納得させようとするのだ。

 この部分から「羅生門」という小説が破綻していると考えることもできよう。物語の展開に無理があり、その無理をうまく処理できていないからだ。まじめな作者だったら、もっとうまい理屈を作り上げる。しかし芥川は「下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった」という理屈にならないようないい加減な理屈でここを済ませてしまっているのである。これを許せない読者もいるであろう。

 しかし一方ではこのいい加減さが、下人の幼さを強調する役割も果たしている。さらに「作者」と呼ばれる「語り手」の胡散臭さも強調されている。その意味で印象に残るおもしろい記述に感じるのである。
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池江璃花子さんはすごすぎる

2019-02-14 09:30:01 | 社会
 池江里佳子さんの白血病の発表は大きな驚きだった。本人もショックだっただろうし、その精神的な葛藤を想像するだけでも痛々しく感じる。一方では病気に立ち向かう強い意志をコメントで発表している姿に感動する。

 私も池江さんを応援したいと思いながら、「池江さんを応援する」という気持ちにしっくりこないでいる。私なんかに応援されても彼女にとっては力になるはずがないと思ってしまうからだ。池江さんは私よりも努力をして、心と体を鍛えている。そんな尊敬すべき対象を「応援する」なんておこがましい気持ちがするのだ。逆に池江さんの前向きに病気と立ち向かう姿は私を叱咤激励しているように感じるのである。すぐに弱音を吐き、自分を見失い冷静でいられなくなる私に対して、もっと強くなれと言っているような気がするのだ。

 「がっかりだ」と言った桜田大臣もひどいが、それを国会でしつこく取り上げる野党もなさけない。今回の池江さんの病気はそんな下世話な次元ではとらえてはいけない。もっと深く高尚な次元のもののような気がする。
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映画評『ファースト・マン』

2019-02-11 16:22:33 | 映画
 事実が淡々と描かれ、登場人物は多くを語らない。しかし心の中の葛藤は観客に直接伝わってくる。いい映画であった。

 アポロ11号で人類で初めて月面に降り立ったニール・アームストロング船長を描く映画である。娘の死や会社での不遇などを乗り越えてNASAの試験に合格する。そこではつらい訓練が待ち受けているが、それを乗り越えていく。一方ではソ連が宇宙開発に先んじていることに焦りを感じる。そして自身が乗っている宇宙船が事故に見舞われ、また仲間が事故で死ぬ。妻は不安を感じるようになり、世間はアポロ計画に反対するようになる。映画の観客は精神が分裂しそうになるような危機を主人公に感じるが、主人公はじっとこらえて自分の道を突き進む。この精神力に感動する。

 私は月着陸の映像を小学校の時に見た。次の年に大阪万博があり、「月の石」が展示され日本人の注目を集めていた。人類の成功物語として当たり前のように受け止めていたあの出来事の裏には、こんなに人間的なドラマがあったのだ。

 人間のいとおしいほどの「愚かさ」とそれだからこその偉大さを見つめさせられた。
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柳家小三治独演会(2019年2月9日 シベールアリーナ)

2019-02-10 07:06:09 | 落語
 今年も柳家小三治師匠の落語会が山形市のシベールアリーナであり聞きに行った。

 前座として柳家三之助さんが「のめる」を、そして小三治師匠が「野ざらし」を語り中入り。中入り後、柳家一琴さんの紙切りがあり、再び小三治師匠の「小言念仏」で終了だった。

 今年の小三治師匠は元気でサービス精神旺盛であった。去年は病気入院があったので少ししんみりとした落語会だったのですが、今年は元気で話がとまらないという様子でした。「野ざらし」のまくらは1時間近くなった。前日のマッサージの話、疎開先の岩沼市の話、そして戦争の話。「戦争だけはいけない」と強く語っていた。シベールアリーナの落語会開催のいきさつ、落語協会への愚痴、そしてシベールアリーナでの落語をライフワークにしたいと、地元の落語ファン、小三治ファンへの温かい言葉まで語ってくれた。シベールが大変なことになっているだけに、この言葉はシベールアリーナのスタッフにとってうれしい言葉であっただろう。このまくらが長すぎたのか、マネージャーに怒られたとのこと。おそらく帰りの時間が決まっていたのであろう。中入り後は少し巻き気味。とは言え、充分すぎる内容だった。

 「野ざらし」は滑稽話。そして「小言念仏」は小三治師匠のよさがとてもよくでる演目である。一定の念仏のリズムが進行する中で、会場の雰囲気がどんどん盛り上がっていく。ライブの感覚である。これは落語を聞くというよりは、落語で楽しむという感覚であった。本当に楽しかった。

 14時開演で16時終演予定となっていたが、実際には16:30に終了。帰りの新幹線に間に合ったでしょうか。
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