「羅生門」を読むと、「作者」と名乗る「語り手」がどんどん小説の中に入り込み、過剰な説明を加える最初に強く印象に残る。「語り手」が介入してくることはあるが、普段はそんなに意識しない。なぜ「語り手」の介入を意識するのか。それは「作者はさっき~」の記述があるからである。その段落を引用する。
作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申の刻こく下がりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日あすの暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
「羅生門」においてこの部分が目立つのである。印象に残る。とくに高校生にとっては小説の中に「作者」がでしゃばって登場してきたことに新鮮さを感じるようである。この「語り手」は「今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。」とたいしたことではないことを、むずかしく表現したり、平安朝の話なのに、「Sentimentalisme」と気取ってフランスを使ったりする。出しゃばりすぎているのである。
「羅生門」という小説は過剰な「語り手」の介入が大きな特徴である。ここで「語り手」に注目させることによって、小説という表現形式を相対化し、意識化していくことは絶対に高校の国語教育においてやるべきことである。「羅生門」は、小説が物語とどう違うのか、あるいは他の表現形式とどう違うのかなどを考えさせ、理解させるのに最適な小説なのである。そして「小説」というジャンルがどういうものかを意識することによって、表現を学ぶことにもつながる。
私たちは小学校から物語や簡単な小説を学び、あるいは読書によってたくさんの小説を読んできた。小説をよみながら、小説とはどういうものかを考えることはなかったはずである。小説は何の疑いもなくそこに存在していたので、小説とは何かを考えることをしていなかった。しかし小説の枠の中で小説を考えても、閉じた世界から抜け出すことはできないので、考える内容は自家撞着に陥るだけである。読解が広がらない。しかし「小説」という形式自体を客観的に見つめることができれば、そこに作者の意図を読むことができ、その作者の意図を批判的に読むことも可能になる。人間が普段の生活では見えていないことが多い。しかし、例えばドローンを使って空中のカメラから俯瞰的にみる視点を手に入れれば、いままで見えなかったものが見えてくるというのと同じことである。
こうして「小説」の構造を学ぶことによって新たに地平にたつことができる。高校1年生はそろそろそれに適した年代だと思われるし、「羅生門」はそのための教材としては最適のものである。
なお、「羅生門」においては「作者」ということばを使っているが、私はその「作者」を「語り手」と言っている。説明が混乱してわかりにくくなってしまっているかもしれない。しかし、一般的に「作者」と「語り手」は違うものである。これについては説明が長くなるので、別の機会に。
作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申の刻こく下がりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日あすの暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
「羅生門」においてこの部分が目立つのである。印象に残る。とくに高校生にとっては小説の中に「作者」がでしゃばって登場してきたことに新鮮さを感じるようである。この「語り手」は「今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。」とたいしたことではないことを、むずかしく表現したり、平安朝の話なのに、「Sentimentalisme」と気取ってフランスを使ったりする。出しゃばりすぎているのである。
「羅生門」という小説は過剰な「語り手」の介入が大きな特徴である。ここで「語り手」に注目させることによって、小説という表現形式を相対化し、意識化していくことは絶対に高校の国語教育においてやるべきことである。「羅生門」は、小説が物語とどう違うのか、あるいは他の表現形式とどう違うのかなどを考えさせ、理解させるのに最適な小説なのである。そして「小説」というジャンルがどういうものかを意識することによって、表現を学ぶことにもつながる。
私たちは小学校から物語や簡単な小説を学び、あるいは読書によってたくさんの小説を読んできた。小説をよみながら、小説とはどういうものかを考えることはなかったはずである。小説は何の疑いもなくそこに存在していたので、小説とは何かを考えることをしていなかった。しかし小説の枠の中で小説を考えても、閉じた世界から抜け出すことはできないので、考える内容は自家撞着に陥るだけである。読解が広がらない。しかし「小説」という形式自体を客観的に見つめることができれば、そこに作者の意図を読むことができ、その作者の意図を批判的に読むことも可能になる。人間が普段の生活では見えていないことが多い。しかし、例えばドローンを使って空中のカメラから俯瞰的にみる視点を手に入れれば、いままで見えなかったものが見えてくるというのと同じことである。
こうして「小説」の構造を学ぶことによって新たに地平にたつことができる。高校1年生はそろそろそれに適した年代だと思われるし、「羅生門」はそのための教材としては最適のものである。
なお、「羅生門」においては「作者」ということばを使っているが、私はその「作者」を「語り手」と言っている。説明が混乱してわかりにくくなってしまっているかもしれない。しかし、一般的に「作者」と「語り手」は違うものである。これについては説明が長くなるので、別の機会に。