とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「羅生門」⑩〔下人の行方は誰も知らない〕

2019-02-24 19:25:40 | 国語
「羅生門」の最後の一文、
「下人の行方は誰も知らない。」
は「羅生門」の授業でよく扱われる部分である。今回は最初にいくつかのの授業実践例をあげ、そのいい点と問題点を簡単に説明する。そして最後に「語り手」を意識した私の解釈を紹介し、その可能性について考えたい。

 まずはよく行われる授業実践例をいくつかあげる。
 
①一番授業でよく行われる単純な発問ならば、
「下人はその後どうなったのか。」
というものがある。本文で「誰も知らない。」と言ってるんだから、そんなこと考えてはいけないとつっこみを入れたくなるが、それでも考えたくなる問題ではある。小説の読解で大切なことは人間の心理の変化を読み取ることである。羅生門における老婆との出会いが「下人」をどう変化させたのかは小説の中核であり、それを考えさせる意味では悪い発問ではない。しかし、やはり作者の意図は「その後」は「知らない」というものである。下人のその後を考えることは作者の意図からは離れていくものであるということは肝に銘じる必要がある。

②最後の一文の直前の部分から引用する。
「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。下人の行方は誰も知らない。」
下人は行方不明になったのではない。闇に消えたのだ。そこで、
「なぜ下人は闇に消えなければいけなくなったのか」
という発問もできそうである。
この発問は、「その1」よりは無理矢理感が少ないが、授業者が誘導しているようにも感じられる。なぜなら「黒洞々たる夜」という表現に、人間の心の闇を読み取ってしまうからだ。「犯罪者」「裏社会」「汚れた心」など悪い言葉がどうしても連想される。この発問からは下人のその後が限定されてしまいそうなのである。しかし下人の行為はそこまで非難されるべきなのか。下人の行為だけでそこまでの闇を表現したかったのか。私にはそれこそSentimentalismeにすぎる解釈のように思われる。

その3
 芥川龍之介は「羅生門」の最後を何度か書き換えている。
 雑誌初出時
「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあつた。」
 短編集収録時
「下人は、既に、雨を冒して京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。」
 そして現在のもの
「下人の行方は、誰も知らない」 
 これらの違いを考えさせ、作者の意図をさぐることもできそうである。

 しかしこれも作者の意図を限定させることにつながる。基本的には現在流通しているもので解釈するのが正当である。

 以上のようにどれもおもしろい授業になる可能性があるが、問題がないわけではない。

 今回「作者」と名乗る「語り手」について考えてきたので、それを踏まえてこのラストの部分を考えてみる。

 ラストの場面をもう一度読んでみよう。

「しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪をさかさまにして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
  下人の行方ゆくえは、誰も知らない。」

 一般的に「語り手」は誰か特定の人物だけに焦点をあてる。複数の人物に焦点があたることはあるが、あまりに多くの人物に焦点があてるとまだろっこしくなるので、あまり多くの人物に焦点はあてない。多くの場合は一人だけに焦点が当てられている。

 「羅生門」の場合は「語り手」の視点は下人に焦点があたっていた。時には下人の心の中を描いたほど、「下人焦点」の語りであった。しかしここで引用した「しばらく、」の後は老婆に焦点があたり、そして最後の「下人の行方は誰も知らない。」においては焦点を失っている。そこで次のような発問が考えられる。

「『作者』と名乗る『語り手』は『羅生門』においてずっと下人に焦点を当ててきた。しかし最後になって「語り手」は下人に焦点を当てるのをやめてしまった。それはなぜか。」

 面倒くさい発問になってしまうが、決して無理な発問ではない。

 私自身の解釈はこうだ。「語り手」はもはや下人に焦点を当てる必要を感じなくなったのである。なぜなら、下人は若気の至りかもしれないが正義感があった。その正義感と、生きるためにもがく心の間でゆれていた。その心のゆれこそが文学に値するものであった。この心の揺れがあったから語りかったのだ。ところが老婆から自分勝手な理屈で髪と服をぬすんでしまった下人は「普通の人」になったしまった。生きるためには生きるだけの「普通の人」になってしまったのである。もはや下人に対する興味はないのである。だから「語り手」から焦点をはずしてしまう。

 そもそも語り手はその気になればどこまでだって下人に焦点を当てるのはかのうなのである。ところがやめてしまったというのは語り手の都合なのだ。

 今、「語り手」はもはや下人に焦点をあてる必要を感じなくなったと書いたが、正確に言えば、作者が「語り手」の下人に対する焦点を外してしまったのである。この最後の瞬間、読者は「下人」だけでなく、「語り手」も相対化され、客観的に「下人」や「語り手」を見る目を獲得することができる。これによって、以前から言っているように「語り手」は全能の人物ではなく俗物なのではないかという印象も与えることができる。見事な終わり方である。
コメント (2)
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