とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「羅生門」シリーズ① 「批評する〈語り手〉」(田中実)

2018-08-09 14:42:18 | 国語
 芥川龍之介の「羅生門」を授業で扱う予定である。教材研究をメモ的に書き残しておく。今回は田中実氏の『小説の力』という書籍において「羅生門」を扱った章「批評する〈語り手〉」について思う所を書いておく。

 田中氏はこれまでの多く見られる『羅生門』論は〈明るい『羅生門』論〉であるという。それは「若い下人が内なる拘束から解放され「盗賊」になる話」だという。例えば三好行雄氏は、老婆について、

「人間的秩序の崩壊のなかに生きるものならば、生き延びるためにする行為は、秩序社会の倫理の側から見れば当然禁忌(タブー)そのものに映ることであったとしても、それは許されてしかるべきもの」

と紹介している。田中氏はさらに三好氏の論を引用しながら、

「『下人に真に必要だったのは〈許すべからざる悪〉を許すための新しい認識の世界、超越的な倫理をさらに超えるたまの論理にほかならぬ。下人と老婆の遭遇は認識と認識の出会い』であり、そこには『倫理の終焉』『〈虚無〉』の世界が生じ、『〈無明の闇〉』にいたると論じ、(三好氏の論は)多大な反響を起こした。」

と解説する。

 田中氏がここで述べているのは老婆と下人が同じ次元で語り合っているということであり、さらには〈語り手〉も同じレベルにいることである。

 この三好氏の論を批判する形で、田中氏は自身の論を展開する。田中氏は老婆は社会秩序の崩壊した生の場、つまり「崩壊しつつある」世界に生きていたのだという。その中で「ひとつの生命体として弱肉強食の生き物の摂理を生きるためにいきていただけだ」という。だから老婆のことばは論理なんてものではなく、生きていくためだけの「方便」にすぎないのだ。一方下人は生きていくのに困ってはいるものの、まだ秩序のある世界に生きていた。言ってみれば老婆が餓死寸前の状態であったのに対して、下人はリストラされた程度のものでまだ最下層までは落ちていないのだ。下人が老婆の論理を借りて自分も盗人になることを肯定するのだが、それは老婆の単なる「方便」を、下人は自己の論理としてしまったということであり、老婆と下人のことばにはあきらかな階層の違いがあると田中氏は主張しているのである。

 ここで「批評する〈語り手〉」の意味が説明される。引用する。

「述べたように、老婆の〈ことば〉は生きるための方便である。その老婆の〈ことば〉は考える男である下人には伝わらない。下人が行為を獲得し、「夜の底」に駆け下りていくときのある種の「解放」感、それこそ〈語り手〉の批評の対象であり、〈語り手〉は下人が己の既成の〈観念〉によって〈世界〉の方を組み替えてしまう、その若々しい倨傲と錯誤、観念の陥穽にあることを語っていたのだった。」

 つまり、〈語り手〉は下人と老婆を客観的に見つめ、その論理の階層の違いを描くことによって、その違いに気づかずにことを起こしてしまう人間を批判しているというのだ。

 田中氏はこの論をさらに発展させ、次のように芥川論を展開する。

「芥川の小説の主眼は登場人物どうしの対立であるよりも、そうした人物を〈語り手〉がどのように捉え、批評していくのかに特徴がある。」

 確かに芥川の小説は〈語り手〉が目立つ。〈語り手〉が目立つことによって物語世界が構造化され、物語自体を批判的に見る視点を感じずにはいられない。

 だとしたら、これは芥川だけの問題なのか。一つの近代文学の傾向であったのか。「小説」というジャンルの構造に潜在的に存在するものであるのか、なだ、「語り」についての体系的な研究や解釈の必要な問題のように思われる。

 田中氏のこの論は文学における重要な問題を提示している。
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