2.「鏡」を読解する
2―1.村上春樹の初期作品の語り手
「鏡」について語る前に、村上春樹の初期の作品について私の考えを述べておく。
「鏡」における語り手は「僕」である。これは「鏡」だけではなく、『風の歌を聴け』『1930年のピンボール』『羊をめぐる冒険』のいわゆる村上春樹の「初期三部作」(あるいは「鼠三部作」)でも同じである。
私は、以前まで村上春樹の「初期三部作」がどうしても好きになれなかった。「おしゃれな小説」のようにしか思えなかったのである。しかし、様々な講義や本を読んでいる中で、村上春樹が時代に抵抗し、社会に戦いを挑みながら、さまざまな工夫をしていたということが読み取れるようになった。そう考えれば確かにおもしろい。
村上春樹を読む中で、村上春樹の小説における語り手のことが気になるようになった。語り手である「僕」は誰なのか。実は「僕」は「鼠」と同一人物なのではないかと思われたのである。「僕」は「鼠」の分身なのではないか。調べてみたらそういう考えを述べている人もいる。もちろん「鼠」と「僕」が同一人物であるとすると、つじつまが合わなくなるところはたくさん出てくる。しかしそのつじつまは表面的なつじつまであり、本質的には「僕」と「鼠」が表裏一体であるという説は無理なものではない。
このように考えると、語り手の「僕」は、「鼠」が作り出した「もうひとりの自分」なのではないかと思われてくるのである。もちろん小説なのだからすべては虚構であり、その意味で「僕」が「虚像」であるというのは言うまでもないことであるが、ここで申し上げたいのは小説内のレベルでの話であり、「鼠」が実在しているという前提での話であるので誤解のないように断っておく。「僕」は「鼠」を客観的に記述するために「鼠」が想定した「語り手」なのだという仮説を提示したいのだ。
これ以上の説明は本論の趣旨とはずれていくばかりなので、別の場所でおこないたい。しかし、村上春樹論で「パラレルワールド」という言葉がよく聞かれるが、それは同じ人物のふたつの視点と考えると一番説明がつくのである。
近代小説は「私」という主体との闘いであり、その主体を描くためにさまざまな方法がとられてきた。それこそが「近代小説」の本質であり、その優れた方法論として「村上春樹方式」を生み出したというのが、私の仮説である。