新教育課程の高校の国語が大きく変わる。一番大きいのは2年生以降に勉強するこれまでの「現代文」と言っていた分野が「論理国語」と「文学国語」に分かれるということである。「論理国語」は主に評論文を学び。「文学国語」は小説や詩歌などの文学作品を主に学ぶことになる。以前にもこのブログに詳しく書いたのだが、おそらくほとんどの進学校は「論理国語」を選ぶことになる。これは一概に小説軽視というわけではない。授業時数の関係でどちらも選ぶわけにはいかず、だとすれば入試のためには評論を重視せざるをないからだ。
この変更はありえない。自国の文化を教えることを軽視している国はない。ヨーロッパなどでは、分厚い教科書に自国の有名な文学作品がまるごと載っているそうである。自国の文化を教えることはその国の教育にとっての核心である。だから国語教師のほとんどがこの変更に反対であるはずだ。
しかし、現在の高校の国語教師はほとんどが何も考えずに、自分が教わった通りに授業を行っているだけだ。なんの勉強もしていない。そんな国語教師がいまさら偉そうに言っても説得力がない。本当にくそみたいな国語教師が多いのだ。この原因は教員が忙しすぎることにあるのも確かなので同情すべき点もあるが、解説で読解力があがるはずがない。生徒は解釈例を身につけるだけで、創造性は全く生まれない。これは現代の教育ではない。
もちろん少数ではあるが、すばらしい国語教師もいる。しかし現実は寂しい状況だ。
大学教授などで変更案を批判する人は多い。しかし、それならば高校の国語の実態も批判しなければ片手落ちだ。そもそも国語教育をリードすべきだった大学の国語教育の専門の教授陣こそが批判されるべきだ。
犯人探しをしても意味がない。みんなでもう一度この国の国語教育がどうあるべきか考える必要がある。