とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

百田尚樹氏「漢文廃止」を提唱 結論だけは一緒だが全然違う

2017-04-08 09:51:58 | 国語
 百田尚樹氏が「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」と語ったとネットに出ていた。百田氏が主張しているのは、日本人は「中国への漠然とした憧れ」を持ち、それが尖閣問題で日本人が中国に対峙する際に弊害になっている。日本人が「中国への漠然とした憧れ」を持つ理由は、日本人が漢文を学んでいるからだ、という論理である。とても乱暴な論理だ。根拠と主張が離れすぎていてまともな論理ではない。

 漢文を学んでいるという根拠をもとに、現在の中国に対して「漠然とした憧れ」を持っているという結論に達するとは思われない。これを言い始めたら、日本人は数学を学んでいるから論理的な思考をするはずである。理科を学んでいるから、科学的な思考をするはずである。

 百歩譲って「中国への漠然とした憧れ」を認めるとしよう。その際も中国の憧れが尖閣問題で日本人が対峙する際の弊害になっているという論理がわからない。中国に憧れがあるから、中国と戦争しようとしないということなのであろうか。逆に日本人には根強い中国人に対する差別意識があるように感じている。もちろんこれをいいことだと言っているわけではないが、尖閣問題で日本人が大樹する際の弊害になっているという理由が「中国への漠然とした憧れ」があるからだという主張はまったくナンセンスにしか思われない。

 以上のように考え、漢文履修の問題と尖閣問題を結びつけるのは明らかに無理があると思われる。

 私も漢文を廃止するという結論だけは賛成である。しかしその理由は違う。最近の高校生は学ぶべきものがたくさんある。国際化に向けた、英語の習得にはもっと時間をかけるべきだし、新しい情報分野やコミュニケーション法なども学ばなければならない。もちろん科学振興のために理数系の授業時間を十分に確保しなければならない。もはや時間が足りないのである。
 
 私は国語教師であり、国語教師の立場からも、現在の高校国語教育に大きな問題を感じている。これについては別のブログで紹介しているので、参照していただければ幸いである。簡単に言うと、これからの国語教育で一番必要になってくるのは、すべての教科の基礎となる言語技術の獲得だということである。そこに時間を割くためには、どうしてもどこかを削らなければならない。削るのは漢文が一番適当であろうと思われるのである。

 そもそも漢文の訓読は全員ができる必要はない。漢文の内容自体は古文の分野で扱ってもいいものである。返り点とかを気にしながら読む必要などないはずだ。また、むかしは漢文の学習は外国語学習としての意味合いも多少あったのではないかと思われる。中国語を読むという意味合いである。しかし、英語の学習がこれだけ盛んになればその役割はすでに終わったと言っていい。

 漢文が悪いと言っているのではない。大切な文化である。しかし、他にやらなければならないことがたくさんある中で、現在のような形で授業に位置づけられるのは、全体のバランスを欠くことになる。

 最低限お願いしたいのは、記述式の導入と同時にセンター試験から漢文を外すことである。それによって適正な扱いに変化してくるように思われる。
コメント
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