まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

自分の場合と家族の場合のズレ

2020-05-06 03:55:20 | 看護学校「哲学」
1.自分もしくは自分の家族が脳死状態になったときに、延命治療(人工呼吸器その他)を停止してもよいと思いますか。その理由も書いてください。
2.自分もしくは自分の家族が脳死状態になったときに、臓器提供してもよいと思いますか。その理由も書いてください。

1番と2番の問いにいっぺんに答えてもらいました。
またそれぞれに関して、自分の場合と家族の場合とに分けて考えてもらいました。
どうだったでしょうか。
なかなか考えるのは難しかったし、
人によっては考えるのが辛いと感じた人もいたかもしれません。
特に自分がそうなった時のことはスラスラ考えられるけど、
家族がそうなったと考えるのは大変だったかもしれません。
家族の場合についてもスラスラと答えられた人というのは、
たぶん、以前に家族でこの問題について話し合ったことがあって、
家族がどうしてもらいたいかを聞いたことがあったのではないでしょうか。
そういう人はわりとスラスラ答えられます。
そうでない場合はそう簡単に答えは出せなかったろうと思います。

まず、この2つの問いはどちらも価値判断を問う問題であり、
しかも個人の自由に委ねられた価値判断なので、
イエス・ノーどちらを書いていたとしても何の問題もありません。
他の人の答えを見てみるといろいろな答え、いろいろな理由があったと思いますが、
どれが正解というわけではなく、いずれもすべてその人にとっては正解です。
なので、それぞれの答えに対して異を唱える必要はなく、
どんな考えであれ、その人はそう考えるのだなと受け入れればいい話です。

次に、自分の場合と家族の場合の答えを比べてみてください。
その両者が同じ答えだったか、それとも異なる答えだったか。
同じ答えであり、理由もほぼ同じであれば、それは首尾一貫した答えです。
自分も延命治療は停止してよいし、家族の場合も停止してよい、
あるいは、自分は臓器提供はしないし、家族も臓器提供はしない等、
イエス・ノーどちらでもいいのですが、自分であれ家族であれ答えが同じなら、
何の問題もありません。

心配なのは自分の場合と家族の場合で答えがズレている人です。
実は日本人の場合、答えが異なる人がけっこう多いのです。
もちろんそれもひとつの価値観なので、答えが異なっていてもいいのですが、
現実問題として自分の意思が尊重されなくなる可能性が高くなるので心配です。
日本人の典型的な答えはこうです。
自分が脳死状態になったときは延命治療は停止してよいし臓器も提供したい、
しかし家族の場合は延命治療は停止したくないし臓器も提供したくない。
こういうふうに答える人がひじょうに多いのです。
自分の場合は、そうまでして延命したいとは思わないし、
使ってもらえるものならばどんどん使ってもらいたい、
しかし、家族の場合は万に一つの可能性にかけて最後まで最善を尽くしたいし、
大事な家族の一部を知らない誰かのために提供するなんて考えたくない、
そういう考え方の日本人がけっこういるのです。

これは家族を大切にする日本人らしい価値観なのでそれはそれでいいのですが、
その家族が全員同じような価値観をもっていて、
みんなこう考えているとするとどうなるでしょうか。
もしも家族の誰かが脳死になってしまった場合、
本人はもう何の意思表示もできなくなっているので、
けっきょく延命治療や臓器提供に関して判断するのは残された家族になります。
すると家族は延命治療を続ける、臓器提供はしないと決めることになります。
この家族は全員、自分だったら延命治療は停止してほしい、臓器は提供したい、
と思っていたにもかかわらず、その希望は誰もかなえてもらえなくなるのです。

こういう弊害を回避するためには、事前に家族で話し合っておく必要があります。
全員が自分の場合、家族の場合でどうしたいか希望を伝え合い、
こちらの思いとみんなの思いがズレている場合に、
どちらを尊重することにするのかじっくり話し合ってみる、
こうして相互に相手の意思を知ることによって、
いざとなったときに自分の思いだけで決めてしまうのでなく、
本人の意思を尊重するという選択肢も生まれてくる可能性が出てくるのです。
そもそも家族が脳死状態に陥ったりしたら、残された者はパニックになり、
冷静に考えることができなくなってしまいます。
そういうときに本人がどうしてほしいと思っていたかを知っているかどうかは、
判断を下す上でひじょうに重要になってきます。
それを知らずに判断を下した場合、それが本当に本人のためになっていたのか、
残された家族は一生悩み続けることになるでしょう。
そうしたことにならないためにも、事前に家族で話し合っておく必要があるのです。
皆さんもぜひこの機会に、この問題について家族で話し合ってみてください。

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