まさおさまの 何でも倫理学

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脳死と植物状態の違い

2020-05-07 01:12:54 | 看護学校「哲学」
植物状態と脳死の違いを簡単にまとめると以下のようになります。

 植物状態‥‥脳幹は機能している
       ∴自発呼吸がある

 脳  死‥‥少なくとも脳幹が機能していない
       ∴自発呼吸がなく、人工呼吸器が必要

ざっくり言うと、脳のなかの脳幹と呼ばれる部分が機能しているかいないか、
というのが大きなちがいです。
脳幹は、人間が無意識的にできることを司っている部位です。
呼吸とか、心拍とか、消化とか、ホルモン分泌とか、新陳代謝とか…。
つまり、人間が寝ているときにもできることをコントロールしているのが脳幹です。
植物状態の場合、動いたり話したりができず意識活動がないとはいえ、
脳幹がまだ機能していますので、上記のようなことはできるわけです。
植物状態というのは、要するに寝たきりの状態であり、
植物が動かないし話さないけれど呼吸はして生きているのと同様、
自分で呼吸をしているし心拍もあり、ちゃんと生きているわけです。
これに対して脳死は、この脳幹部分も働いていません。
したがって呼吸その他ができないわけで、だから人工呼吸器に繋がれているわけです。

脳死というのは人工呼吸器というものが開発されたことによって初めて生じました。
人工呼吸器が普及したのが1950年代ですから、
それ以前には人類20万年の歴史において脳死なんてまったく存在しなかったわけです。
それまでは自発呼吸の停止に至った人はいずれ間もなく心臓も停止して、
死亡(=心臓死)してしまうのが当たり前でした。
マウス・トゥ・マウスによる人工呼吸という方法が開発されて、
しばらくの間、酸素を供給してあげられるようになりましたし、
その間に治療を施すことによって回復するという人も増えてきましたが、
そんなにいつまでもマウス・トゥ・マウスは続けられず限界があります。
人工呼吸器はその問題を解消する素晴らしい発明だったのです。
これが開発され普及したことによって、
それまで救えなかった多くの患者さんを救うことができるようになりました。
その点は医学と医療技術の大勝利だったと言うことができるでしょう。

しかしながら人工呼吸器も万能ではないので、
すべての患者さんを助けられるわけではありません。
人工呼吸器を用いた治療を施してもあいかわらず助けることはできず、
失われていた命はありました。
それは仕方のないことです。
ただ、それとは別に新しい問題も生まれてきました。
回復するわけでもなく、といってすぐに死亡(=心停止)してしまうわけでもない、
中間状態の患者さんが新たに生み出されることになったのです。

最初に書いたとおり、脳幹は心拍も司っているので、
ふだんは、運動したり緊張したときに心拍を上げたり、
リラックスしているときに心拍を下げたりというコントロールも脳幹が行っています。
脳幹が機能しなくなれば、自発呼吸が失われると同時に、
そうした心拍のコントロールもできなくなってしまいます。
なので脳幹が機能しなくなれば心臓も停止してしまってもおかしくないはずなのですが、
しかしながら心臓には、いざというときのためにバックアップ機能が備わっており、
万一の場合に脳幹から指令が来なくなっても、自動で拍動できるようになっています。
この自動拍動は酸素をエネルギーとして動いているので、
呼吸が止まればいずれこの心拍も止まってしまうのですが、
酸素が供給されれば心拍は維持されます。
そのために、脳幹が機能しなくなって自発呼吸が失われ、
人工呼吸器につながれて、その間に様々な治療を試みたが回復させることはできず、
自発呼吸は戻ってこないまま、しかし心停止に至ってしまうわけでもなく、
人工呼吸器によって酸素が供給され続けているために、
心臓の自動機構によって心拍が維持されるという、
人類がこれまで経験したことがないような新しい中間状態が生み出されました。

こうした状態の患者さんのことを当初は、
「超過昏睡」、「不可逆的昏睡」などと呼んでいました。
「不可逆的」というのは「可逆的」の反対語で、
「可逆的」は逆戻りあり、つまり回復することがありうる一時的な、
という意味の言葉なので、
「不可逆的」は一時的ではなくもうけっして回復することがありえない、
という意味の形容詞になります。
この言葉は脳死のことを考える上でひじょうに重要になってきますので、
これもいっしょにぜひ覚えておいてください。
いずれにしても昏睡状態のなかのすごいやつみたいに命名されていたわけですが、
こういう患者さんの心臓を臓器移植に使いたいという必要性から、
1968年になって「脳死」という概念が生み出されることになりました。
「昏睡」だったら眠っているだけで生きているわけですが、
「脳死」と言い換えれば死者として扱うことが可能になるわけです。
「脳死」という言葉自体が価値判断を含んだ概念だったということがわかるでしょう。

話を戻しましょう。
植物状態と脳死の違いとして、
回復する可能性があるかないかということを挙げる人がよくいますが、
これは不正解です。
脳死の場合はもちろん 「死」 なんですから、
回復の可能性があっては絶対にいけないわけですが、
植物状態のほうも、定義上は 「回復の見込みがないこと」 という文言が含まれています。
ただし、そう書きたくなってしまう気持ちはわからなくもなくて、
よく植物状態の患者さんを取り上げたドキュメンタリー番組などで、
家族や看護師があきらめることなく、
普通の患者と同じように声がけしたりタッチングしたりし続けたことによって、
奇跡的に意識を取り戻したとか、意思の疎通が可能になったとか、
場合によっては歩けるくらいに回復したというような話が取り上げられますので、
植物状態は回復可能なものだと思い込んでしまったのでしょう。
しかし、それは稀なケースですので、植物状態がすべて回復可能だというわけではありませんし、
むしろ厳密な言い方をするならば、回復した人たちは回復してしまったわけですから、
定義上、植物状態ではなかったと言うべきなのだろうと思います。
(植物状態の定義については次回扱います。)
しかしながら、植物状態に関しては回復するかしないかは何とも言えませんので、
定義のなかに 「回復の見込みがない」 ということを含める必要もなければ、
「回復の可能性がある」 と言い切ることもできず、
したがって、脳死とのちがいとして回復可能性を挙げることはできないのです。

なので、脳死と植物状態の違いは脳幹が機能しているか否か、
自発呼吸があるか否かなのだということをよく覚えておいてください。
ただし、これはまだ脳死の定義ではありません。
脳死の定義についてはさらに難しい問題が含まれていて、
実はまだ脳死の定義は世界中でひとつに確定されていません。
これが次のお話になります。

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