ちょっと遡りますが、自由について講義していたときにいただいた質問です。
正確にはこんな質問でした。
Q.実質的自由が何をさしているのかがよく分からなかった。
「自分の能力ではできないことを政府の力でできるようにしてもらえる自由」 ということですか?
んん〜、近いけどちょっと違います。
実質的自由というのは、自らの欲求・欲望をきちんと実現できるという意味での自由のことです。
とりわけ、病気や障害や社会的諸条件等によってそうした欲求・欲望の実現が困難である場合に、
政府の力によってそれを補完してもらう権利と密接に結びつくことになりますが、
私の理解するかぎり、実質的自由は直接的に、
「自分の能力でできないことを政府の力でできるようにしてもらえる自由」
を意味するわけではありません。
このへんがちょっとビミョーなところなので、自分としてもちゃんと整理できているか自信ありませんが、
やはりこれは違うと言っておくべきなのでしょう。
「自由」 っていう言葉はいろんなシチュエーションで使われますが、
自分の能力によって自分の欲求・欲望を実現することができるのかどうかという意味で、
自由とか不自由と言うことがありますね。
実質的自由とはそういう意味です。
で、もしも不自由がある場合に、それが本人の責任に帰せられるようなことではなく、
先天的なものであったり、不可抗的なものである場合には、
それを社会的に補完してあげるべきだという話になっていくわけです。
したがって実質的自由とは何かという話と、
実質的に不自由な人がいた場合にそれを補完してあげるべきだという話とは、
段階を分けて理解しておくべきだと私は思っています。
これは次回以降の、本来どの自由が 「自由」 と呼ぶのにふさわしいかという話とも関わってきますが、
自由を理解する上でひじょうに重要な問題にも関連してきますので、
みんなにもぜひ理解しておいてほしいと思います。
たしかに能力が欠落・不足している場合に、その状態を指して 「不自由」 と呼ぶことはありますが、
しかし、ではそうした欠落・不足を誰かに補ってもらったからといって、
そのときに私たちは 「自由になった」 と言うでしょうか?
幸と不幸も単純な二項対立関係にないのですが、
(この意味での) 自由と不自由はそれ以上に単純な対立関係にはありません。
したがって、実質的自由という概念は倫理学においてあまり有効な概念ではないのではないか、
というのが今のところの私の結論です。
これに関してはまだ自分でもきちんと整理しきれていないので、
もうちょっと頭のなかが整理できたら、再論してみたいと思います。
とりあえず今日のところは、いただいたご質問に対し、
A.実質的自由とは、「自分の能力ではできないことを政府の力でできるようにしてもらえる自由」
のことではありません。
とだけお答えしておくことにしたいと思います。
正確にはこんな質問でした。
Q.実質的自由が何をさしているのかがよく分からなかった。
「自分の能力ではできないことを政府の力でできるようにしてもらえる自由」 ということですか?
んん〜、近いけどちょっと違います。
実質的自由というのは、自らの欲求・欲望をきちんと実現できるという意味での自由のことです。
とりわけ、病気や障害や社会的諸条件等によってそうした欲求・欲望の実現が困難である場合に、
政府の力によってそれを補完してもらう権利と密接に結びつくことになりますが、
私の理解するかぎり、実質的自由は直接的に、
「自分の能力でできないことを政府の力でできるようにしてもらえる自由」
を意味するわけではありません。
このへんがちょっとビミョーなところなので、自分としてもちゃんと整理できているか自信ありませんが、
やはりこれは違うと言っておくべきなのでしょう。
「自由」 っていう言葉はいろんなシチュエーションで使われますが、
自分の能力によって自分の欲求・欲望を実現することができるのかどうかという意味で、
自由とか不自由と言うことがありますね。
実質的自由とはそういう意味です。
で、もしも不自由がある場合に、それが本人の責任に帰せられるようなことではなく、
先天的なものであったり、不可抗的なものである場合には、
それを社会的に補完してあげるべきだという話になっていくわけです。
したがって実質的自由とは何かという話と、
実質的に不自由な人がいた場合にそれを補完してあげるべきだという話とは、
段階を分けて理解しておくべきだと私は思っています。
これは次回以降の、本来どの自由が 「自由」 と呼ぶのにふさわしいかという話とも関わってきますが、
自由を理解する上でひじょうに重要な問題にも関連してきますので、
みんなにもぜひ理解しておいてほしいと思います。
たしかに能力が欠落・不足している場合に、その状態を指して 「不自由」 と呼ぶことはありますが、
しかし、ではそうした欠落・不足を誰かに補ってもらったからといって、
そのときに私たちは 「自由になった」 と言うでしょうか?
幸と不幸も単純な二項対立関係にないのですが、
(この意味での) 自由と不自由はそれ以上に単純な対立関係にはありません。
したがって、実質的自由という概念は倫理学においてあまり有効な概念ではないのではないか、
というのが今のところの私の結論です。
これに関してはまだ自分でもきちんと整理しきれていないので、
もうちょっと頭のなかが整理できたら、再論してみたいと思います。
とりあえず今日のところは、いただいたご質問に対し、
A.実質的自由とは、「自分の能力ではできないことを政府の力でできるようにしてもらえる自由」
のことではありません。
とだけお答えしておくことにしたいと思います。
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