chapter#37 娼婦の喜び
娼婦の喜びは、自分がたとえお金を払い、一時的な性欲を満たすためのはけ口としてでも、自分が存在するという確証をえられるというところにある。
娼婦はただ一人では存在できないし、その尊厳を保持することもままならない。
およそ、ほとんどの人間は娼婦のように、金でその肉体と精神を忘我の極地においやり何とか生きている。
自分ひとりでは存在価値を得ることが難しいという風に、絶望的境地を実感することは、生きていくうえでのタブーなのだろう。すべての人間はおよそ彼がよほど天真爛漫で、幸せな人間でない限り、その本質を娼婦のような人間であるといえる。
でも、だれも自分が本質的に娼婦のような人間であるなんというふうには思わないし、自分がそのような性質の人間であり、他社へ恐ろしく依存しなければ生きてイケないという事実を直視してしまうと、おそらく自らの存在を外部に自己実現という欲求のために躍進しようという気などうせてしまうだろう。
どうやら、ボクは思うのだが、この世の中、閉じ込められた帝国の中でイキイキと生きていくには、そんな存在の本質とでもいうべき部分に対して水晶体を、網膜を煙を吹いたライターで焼き尽くさないと生きていけないという性質のものであるようである。
自分の本質が娼婦のようなものであるにもかかわらず、ボクたちは出来るだけ幸福そうな顔をして生きていかなければならない。
果物を好む理由のひとつとして、さっきの章では書きそびれてしまったが、自分にも果物を食べることが出来るという淡い期待が持てるからこそ、果物を食べてみたいという欲求も起こるのであろう。
もし、自分は他社の存在に絶望的にしばられており、果物を食べるという行為そのものにも管理者の許可が必要で、管理者、保護者に口に入れてもらえないと食べられないし、ましてや、罪に手を汚さないと果物を食べられないというような状況であれば、そこまでの足かせを感じてまで、果物を食べようという努力家はいないだろう。
元来人間は、自分の存在を認めてほしいものである。この命題の中には、本質的には、他者を認めたくないというテーゼも内包されているのではないだろうか?
自分を認めてもらう代償として、必死で他者を否定しようとするおろかな人間。
ボクは思うのだが、社会、つまりは、低俗な人間の中で、つまりは自己を高揚させようという欲望もなく、ただむなしくも、他者否定のテーゼの中だけで自己顕示をなそうとするくだらない人間の中で生きていくということは、おそろしく精神の疲労をもたらすし、肉体的にもくさっていく。
こうもりがたとえいなくても、こもりによって、灰色のハトとしてかんせいされてしまった腐った鳥獣の中ですごすということは恐ろしくけだるいものである。
これだけ、けだるく、自分が娼婦のように、他者に絶望的に頼らなければ、人間的最低限度の文化的生活も営めないとわかりきっている中でそれでも、幸せそうな顔をして生きていかないといけない。そんなのは正直僕は選択したくないし、他者否定で何とか、空しくも自己存在を担保するような連中は、冗談ではなく、殺してもいい存在なのではないかと思う。
殺しても、死んでもいい、むしろ、存在の抹消こそが望まれるおろかな灰色のハトたちは、不幸にも明日ものうのうと生きている。
娼婦は幸せを感じる、自分は娼婦ではなく、あたかもビジネスを営む成功者だと感じているから、娼婦と感じてしまうボクは不幸を感じる。
本当の灰色のハトはのうのうと生きていき、ボクは死んだほうがましだと自分自身に対して思っているという矛盾に対して。
たいてい、純朴なものから順に汚されていく。罪あるものは排斥されていく。
罪は作られていく。
おろかな灰色のハトによって。
娼婦の喜びは、自分がたとえお金を払い、一時的な性欲を満たすためのはけ口としてでも、自分が存在するという確証をえられるというところにある。
娼婦はただ一人では存在できないし、その尊厳を保持することもままならない。
およそ、ほとんどの人間は娼婦のように、金でその肉体と精神を忘我の極地においやり何とか生きている。
自分ひとりでは存在価値を得ることが難しいという風に、絶望的境地を実感することは、生きていくうえでのタブーなのだろう。すべての人間はおよそ彼がよほど天真爛漫で、幸せな人間でない限り、その本質を娼婦のような人間であるといえる。
でも、だれも自分が本質的に娼婦のような人間であるなんというふうには思わないし、自分がそのような性質の人間であり、他社へ恐ろしく依存しなければ生きてイケないという事実を直視してしまうと、おそらく自らの存在を外部に自己実現という欲求のために躍進しようという気などうせてしまうだろう。
どうやら、ボクは思うのだが、この世の中、閉じ込められた帝国の中でイキイキと生きていくには、そんな存在の本質とでもいうべき部分に対して水晶体を、網膜を煙を吹いたライターで焼き尽くさないと生きていけないという性質のものであるようである。
自分の本質が娼婦のようなものであるにもかかわらず、ボクたちは出来るだけ幸福そうな顔をして生きていかなければならない。
果物を好む理由のひとつとして、さっきの章では書きそびれてしまったが、自分にも果物を食べることが出来るという淡い期待が持てるからこそ、果物を食べてみたいという欲求も起こるのであろう。
もし、自分は他社の存在に絶望的にしばられており、果物を食べるという行為そのものにも管理者の許可が必要で、管理者、保護者に口に入れてもらえないと食べられないし、ましてや、罪に手を汚さないと果物を食べられないというような状況であれば、そこまでの足かせを感じてまで、果物を食べようという努力家はいないだろう。
元来人間は、自分の存在を認めてほしいものである。この命題の中には、本質的には、他者を認めたくないというテーゼも内包されているのではないだろうか?
自分を認めてもらう代償として、必死で他者を否定しようとするおろかな人間。
ボクは思うのだが、社会、つまりは、低俗な人間の中で、つまりは自己を高揚させようという欲望もなく、ただむなしくも、他者否定のテーゼの中だけで自己顕示をなそうとするくだらない人間の中で生きていくということは、おそろしく精神の疲労をもたらすし、肉体的にもくさっていく。
こうもりがたとえいなくても、こもりによって、灰色のハトとしてかんせいされてしまった腐った鳥獣の中ですごすということは恐ろしくけだるいものである。
これだけ、けだるく、自分が娼婦のように、他者に絶望的に頼らなければ、人間的最低限度の文化的生活も営めないとわかりきっている中でそれでも、幸せそうな顔をして生きていかないといけない。そんなのは正直僕は選択したくないし、他者否定で何とか、空しくも自己存在を担保するような連中は、冗談ではなく、殺してもいい存在なのではないかと思う。
殺しても、死んでもいい、むしろ、存在の抹消こそが望まれるおろかな灰色のハトたちは、不幸にも明日ものうのうと生きている。
娼婦は幸せを感じる、自分は娼婦ではなく、あたかもビジネスを営む成功者だと感じているから、娼婦と感じてしまうボクは不幸を感じる。
本当の灰色のハトはのうのうと生きていき、ボクは死んだほうがましだと自分自身に対して思っているという矛盾に対して。
たいてい、純朴なものから順に汚されていく。罪あるものは排斥されていく。
罪は作られていく。
おろかな灰色のハトによって。