本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

小説019 : reProfesional#92

2008-10-10 00:40:00 | reProfesional
chapter#19 都合の悪さ

まじめに生きようとすれば、その生真面目なもののかっこわるさが象徴するように、「都合の悪さ」は生じる。なぜだろう。ボクは考えてみた。
ボクは、さすがにまだ小説を読み込む、小説を読むという行為に身を投じてみるということを人生を通してしたことがない。
おそらく、理由はいろいろあるんだろうけど、おそらく、小説を読むという行為に、けだるさというか、面白みを感じれていないということがあるだろう。
以前どのチャプターかは、正確には覚えていないが、ボクは小説を読むという行為と、人生の中での「興味」「情熱」との関連を述べた気がする。

ボクは、ようやくこの第一部を書くにあたって、人生に対する情熱を取り戻しつつある。決して、ボクが書物を読んでいなかったからといって、人生に対する情熱を完全に失ってしまっていたわけではないが、ボクは本当に倒錯状態にあったのだろう。
こうもりの吸血により、人生という血管の血液を吸い尽くされようとしていた。でも、ボクの人生は捨てたもんじゃない。そう教えてくれる男が一人いた。
彼は、おそらく、退屈なんだと思う。
ボクの人生に自分の映し絵を見ていて、「このまんまじゃ、おまえはつまらない人生を送るぞ!」そういうシグナルを送ってくれていたんだと思う。

彼が今、ボクに対してどういう印象を持っているかどうか知らないが、彼は、こうもりが奪っていった僕の血液を取り戻してくれた。彼は、ボクにとって救世主だったのかもしれない。

でも、ボクは都合の悪さを感じてた。人は生きていく中で、他者を解釈しようとする彼もおそらく、ボクをボクが思っている自分とは違う仕方で解釈をしてくれた。そのおかげで、ボクはいき永らえた。

他者が自分に対してどういう解釈をおこなっているか、それを推し量るのは、非常に難しいんじゃないかと思う。いまだMの段階にあるボクにとっては、もしくは、生涯を通して、Sより、Mであることに、重きを置くこと心のどこかでよしとしてしまっているボクにとっては、プラスの評価をされることはいい意味での都合の悪さを生じさせる。

書物を読むことも、いわば、粘膜と粘膜を異性間ですりあわせることに似ている。ひとりの人間の頭脳を短時間であるにしても、共存する、それを読書とすると、良くも悪くも、「ひきずり」の経験をともなう。
生真面目に、それにひきずられてみよう。
そうすれば、あたかも、川の上流から下流に流れる桃太郎のもものように、自分を切り開いてくれることもあるかもしれない。
戦略的に、ながされよう。今のボクはそんなレベルだと思う。
でも、そんなレベルでずっといるんじゃ、ボクは、万年Mの阿呆づらと一緒になってしまう。

そこのコントロールの難儀さもボクがどういう風に命名してよいかという戸惑いをかんじている「都合の悪さ」「ひきづられ」の経験が生じるのであろう。
どうなんだろうか?
今のボクと周囲の他者との関係は、こんな風にしか描写できないんだろうか?
今のボクに簡単に描写できるのは、自分がどちらかというと人生の中での、この物語の中でのポジショニングをマゾに近いものとしているということ、それから「ひきづられ」の経験の中で、うまく、こうもりとの距離感を保つことでなんとかのりきろうとしていること。これくらいだろう。

「人生はいすに座り、物思いにふけっているやつには好転の女神をつれてきてくれない。好転の、いや君の人生の中での勝利の女神を連れてきてくれるのは、その前髪をつかもうとするものだけだ。」

川を流れる箱舟。

きっと、今のボクがもっと物語を自分よりに持ってこようとするためのヒントというのは、「ひきづられ」の経験の構造を明確にし、「都合の悪さ」の構造を理解し、それをこうもりとの関係性において、いかに優位に立ち、ハイエナとして、より優位に築くための命題に回答を試みることができるかということにかかっているのであろう。
コメント
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