本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

小説017 : reProfesional#90

2008-10-08 00:00:05 | reProfesional
chapter#17 マゾヒズム、パラフィリア(性的倒錯)

およそボクは思う。自分の価値なんていうのを客観的に推し量るということは不可能だと。ただひとついえるとすると、ボクたちは生きるという行為において、SMに近いことを行っているのではないかと。
日本語で言うと、恒常的に、いじめっこと、いじめられっこという関係はおそらく、多くの人間関係のさなかにおいて成立しているのではないかと。

「ボクはA君の視線が怖い。
 でも、B君を見ていると辱めてやろうという気になるんだ。
 Aさんをみていると、ペニスをのど元にぶち込んでやろうという、情意がこだまする。それに対して、Bさんをみていると、そのすらりとのびた脚先の足の土踏まずで、顔を踏みにじられたくなる。」

* 注釈 :
性的なことを文学的に描くのは難しい。時にグロテスクな表現になるし、時に大きく誤解を生む。

いじめられっこの立場に身をおくことで屈辱感を味わい、いじめっこ立場に身をおくことで安心感を味わう。
さっきの章からの続きではあるが、人間というのは、何かにつけ、上下の関係をつけたがる。

マゾヒズムに人生を置くか、サディストとして、人生を置くか?
いずれにしても、ボク等は倒錯せざるを得ない。つまり、そんな質問はばかげた質問でしかないし、さっきのボクの、A君、B君、Aさん、Bさんの記述で明らかのように、人間関係においては、おそらくその場その場である程度の妥協を重ねながらその関係性は構築されていくのだろう。
でも、ボクは思う。
サディストに自分はなれる、自分はサディストであると、人生という物語の中で、身を置いてしまうものは失敗者、落伍者であると。
もちろん、それがセックスの一時的な場面においてなら、それはある程度許容できるのではないかと思う。
でも、人生というのは、相手をいためつけることで、一時的な自己満足を味わえるほど、容易なものではないのではないかとボクは思う。

ボクは、人生というのは、というと押し付けになるので、いいたくないが、すくなくとも、ボクの人生においては、ボクはあくまでもマゾヒズムを貫きたい。

*注釈: 自己同一性、アイデンティティ、そんな言葉をボクは聞いたことがある。この言葉を解釈する限り、「自己」というのは、常にいわゆる自己と一致しないという意味合いを強く感じなくもない。

さて、注釈をはさんで、なんで、ボクがマゾヒズムを貫きたいかということを見ていこう。
ボクはボクはこれまでいみじくも書き連ねてきた「日々の忌まわしい記憶」「退散してしまったほうがいい環境」といったような、いわばサディズムに近しいような言葉を思い出す。
人間というのは醜いもので、あるべき自分、ありたい自分という像と、実際の自分の中で、同一性を推し量ろうとして、絶えず失敗を繰り返してしまう存在ではないかと思う。

今、ボクがこうして文章を書いているのも、無意識における領域に多くを任せて、おそらく無意識の領域で思考を回転させ、睡魔と闘いながら、明日への同一性への恐れを抱きながら、こうやって時間を殺していくという罪を行っている。

~内白
与えられた時間というのは、そう長くはない。
自分はだめな人間だ、だがもっと快感を味わえるはずだ、こんなところで、生の性欲を枯渇していてはだめだ。
自分には学ばないといけないことがまだまだある。

ボクには、そんな内白が頻繁に訪れることがある。
完全におそらく理想の自分というものと合致しているものはいないのではないかと思う。それだと、おそらくすべての人間が、性的倒錯・パラフィリアであるといえるのではないだろうか?
つまり、すべての人間が変体で、SかMかというのを演じ続けている。

性的快感の後には疲労感が訪れる。
つまり、まともに生きようとしていれば、疲労感はある。

自分の正確な価値なんて、推し量ることはできない。
それならば、自分を一段低く見て、自分を少しでも日々、ましな方向に磨き上げていく。鋭利なたわしで、その垢をそぎ落としていく。
不安な睡魔の中で、同一性のバランスを保とうとする。

失敗という屈辱の中で、自分に快の感情を生み、射精をし、疲労感を味わう。
疲労も、射精も決して一人では成就できないものだ。

こうもりが暗闇で羽安目をしているこの時間。
ボクはまた、朝があけると、こうもりのいる巣に身を運ぶ。
こうもりが、いや今、目の前にいるこうもりがたとえ、息を引き取ったとしても、このこうもりとは別のグロテスクな人生の預け主というのが必要だ。
ボクは決して、人の下で一生を生きて生きたいなどということを願っているわけではない。しかし、自分を恒常的に磨き続けていくために、自分の価値をより高めるために、ボクはハイエナという新しい生物であろうと思っている。

別に、ハイエナという動物自体が、存在として新しいといっているわけでもなく、ボクは自分なりのハイエナ像を創造していければと思う。
ハイエナは人に正確に記述を試みるなら、裏切られることなどはない。

ハイエナの未熟さゆえに、百獣の王であったり、こうもりに虐げられる。
ほんとうの、ハイエナは、本当のマゾは、サド侯爵に、それとわかっていながら、身を人生を授ける。
いわば、敬虔な宗教の一員なのである。別に、マゾは、サド侯爵に使えているわけではない。さげすまれるという任務の中で、サド侯爵を満足させてやっている。

性的倒錯、パラフィリア。
なんとも甘美な響きだろう。
マゾであるボクは、いわばマゾ戦略という、戦術を使ってやろうと決心したボクは、この物語の中でほかでもない自分が主人公であろうと決心したボクは、性的な倒錯を自在に操ろうとしているのだ。

ただ、注意しないといけないのは、マゾであるがゆえに、失敗を失敗として甘美に味わえなくなってしまっては、たとえそれが、一時的なものであっても、マゾである使徒=ボクの戦術は瓦解してしまう。
マゾであるがゆえに、倒錯した雇用関係を巧妙に操るということに、全意識を集中しない限り、ボクはただのアホづらの、唾液を垂れ流し、サド侯爵の排泄物を口に押し込められるという決して、快楽ではなく、精神崩壊へと向かうだけである。

そう、ボクは、別に、マゾでもなければ、サドでもない、ハイエナ、Hというイニシャルであるだけなのだ。それゆえ、ボクはこのハイエナ=Hという動物であることを新しいというように表現したのである。

ハイエナという存在を改めて、確認し、消えてしまった「小説を読めない理由」の前段階をようやく生めることができた。
この第一部の本題でもある、上のトピックをそろそろ語る土台をできたのではないか?

満月の夜に、狼に、ヴァンパイアに、そんな話はよく聞く、それでは、ハイエナはいつ、ハイエナになるんだろうか?

そんなことを考えつつ、ボクはとりあえず、遠めに空を舞うこうもりを眺めていた。
コメント
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