団塊世代おじさんの日常生活

夏 日本で二番目に気温が高く、陶器と虎渓山と修道院で知られる多治見市の出身です。

小学生や幼児の孫に手を上げるなんて、とんでもない話です。

2021-10-26 02:03:11 | 日記
 中日新聞の「ねえ ねえ ちょっと」という欄に、「夫が孫にいらいら」という岐阜・困ったババさん(64)からの相談が載っていました。


 小学生や幼児の孫が八人います。

 普段は夫婦二人で静かですが、孫が遊びに来ると家の中を走り、散らかし、大声を出すのが、夫は嫌でたまらないようです。

 手を上げることも。

 私は子どもらしい姿だと思いますが、静かにと孫に声をかけるなど疲れます。

 夫は孫が嫌いなのではなさそうですが、どうしていいか悩みます。

 以上です。

 
 小学生や幼児の孫に手を上げるなんて、とんでもない話です。

 奥様しっかりしなさい!
 
 「静かにと孫に声をかけるなど疲れます。」。

 そんな事を言っていてどうするんですか!

 
 孫が遊びに来ると家の中を走り、散らかし、大声を出すのが当たり前のことでしょ。

 ご主人が孫に手を上げるなんて虐待です。

 すぐさま110番して下さい。

 警察官に暴力をやめるように説得してもらいましょう。

 孫たちに「おじいちゃんは怖い」という恐怖感を持たせてはいけないです。

 孫を来させないか、ご主人を外に出て行ってもらうかなどの対策を取らねば。

 何だったら、奥様が訪ねればいい事でしょ。



ダイアン・リネイ/ネイビー・ブルー
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75歳ぐらいで車を乗るのはやめになりそうです。

2021-10-25 02:13:57 | 日記
 中日新聞の「くらしの作文」に「惜別」というタイトルで、81歳の男性が投稿されていました。


 後期高齢者の私には、運転免許の返納問題がある。

 なかなか踏ん切れず、悩んでいる。

 子どもらが一斉に返納を迫るが「俺には俺の生活がある」と言い張って突っぱねてきた。

 在宅で妻を看て病院、薬局、買い物と走り回った車だ。

 この愛車を手放すことは考えられないことである。

 私の剣幕に子らも引いた感じだ。

 最近になって長女から「お父さん、本当は運転をやめて欲しいけど、ダメなら売り出し中のサポートカーに替えたらどうかねえ」と打診があった。

 頑固な親を見かねて妥協案が告げられてきたのである。
 ただ「やめよ、やめよ」では納得できないが、こんな感じでやんわりと言われると弱い。

 高齢者事故が記事になるのを見ると、迷いながら不承不承、この話に乗ることにした。

 今の車には妻の思い出がいっぱい詰まっている。

 よく働いてくれた。

 未練たらたらの私にディーラーの人が「この車はしっかりしているから、被災地で流された車両の代替として活動すると思う」と慰めてくれ、それも後押しとなった。

 そうかと決断した。

 俺を離れても頑張れ、俺も頑張る。

 今はサポートカーを待っている。

 別れは辛い。

 だが、より安全運転に心掛け、長生きし新しい時代を楽しんでいくつもりである。

 以上です。



 私の家の車は、16年も乗っていました。

 走行距離はそんなにいっていませんでした。

 遠出はほとんどした事がなかったからです。

 乗り潰すつもりでした。

 ところが後ろの座席から雨漏りがするようになりました。

 原因は分かりませんでした。

 修理業者さんに見てもらいましたが、「そんな事あり得ない」とびっくりされていました。

 カーウォシュ・センターで車をよく洗っていましたので、それでどこか傷ついたかも知れません。

 ディラーさんに相談したら、直すのに何十万とかかるという話で、この際新車を買って下さいと言われてしまいました。

 新車を買うなんてお金はありません。

 最低でも二百万円は必要です。

 中古の軽自動車に替える事にしました。

 息子に話しましたら「サポートカーにしたら、何だったらお金の援助はするから」と言いました。

 まだまだ子どもたちの教育費にお金がかかるのに、息子の申し出に乗るわけには行きません。

 断りました。

 近くの中古車屋さんでいい車を見つけましたので、ここで購入しました。

 近くなので、何かあればすぐ飛んで来てくださるので重宝しています。☺️

 最近 かみさんが「車を乗るのが怖い」と言っていますので、75歳ぐらいで車を乗るのはやめになりそうです。

 私は自転車に乗り馴れていますし、近くにスーパーや病院もありますので、支障はないように思います。

 車がなくなれば、保険や車検などの費用がかからなくなるので、年金暮らしの身としては助かると思います。





こんな片思いをしたことがあるな。😅   片想い (Illumination)/浜田省吾
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でも、フランス人のように足をさっと前に放り投げるようにして、颯爽と歩きたいです。

2021-10-24 00:04:50 | 日記
 中日新聞の介護シニアという欄に「柴犬フランス歩記(あるき)」というコーナーがあり「文化が身体をつくる」というタイトルで浅野素女(あさの・もとめ=フリージャーナリスト、指圧施療師)さんが投稿されていました。


 もう四十年前、初めてのフランスで疲れるなーと思ったことは、立っていることが基本の文化だということ。

 畳の文化からやってきた私は、床に座るとホッとするし、すぐに椅子を勧められることに慣れてしまっていた。

 立つ姿勢が続くと、つい腰かけたくなる。

 ところが、こちらでは長時間立っていても、みな平気の平左。

 立食パーティーはもちろんのこと、ちょっとした会合、永遠に続く立ち話、結婚式やお葬式など、立っている時間がやたら多いのである。

 デモに参加した時は、隣にいた七十五歳くらいご婦人がデモ集団の出発を立ちん坊で二時間も待ち、その後さらに三時間、最後まで音を上げずに歩き通していた。

 二十代からこの国で生活しているのでさすがに慣れたものの、いまだ家でリラックスする時は、ソファの上に横坐りしたりあぐらをかいたりしているのだから、身体に染みついた習慣というのは早々に消えるものではないらしい。

 座る文化の国と立つ文化のちがいは骨格にも影響を及ぼしている。

 百年前とは比べものにならないにしても、日本人の足首のやわらかさはいまだ別格である。

 指圧をフランスで学んだ私は、同期生のフランス人が正座はもちろん、跪座(きざ)の姿勢を取るのにさえ苦労しているのを見てきた。

 赤ちゃんの時から革靴をはかせる文化だから、早々に足首が固まってしまうのか。

 その代わり、立っている時には骨盤がすらりと伸びている。

 足をさっと前に放り投げるようにして、颯爽と歩く。

 足を引きずりぎみに歩く日本人は、靴をはいても身体の方はいまだ着物文化を引きずっている。

 それぞれの文化がそれぞれの身体をつくっている、


 以上です。


 日本人に生まれて、日本に育った私としては今更フランス人文化に変われません。

 でも、フランス人のように足をさっと前に放り投げるようにして、颯爽と歩きたいです。





糸 - 桜井和寿 BankBand
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私が悪いのではなく、耳毛が悪いんです。☺️

2021-10-23 01:26:45 | 日記
 中日新聞の「エンタ目」という欄に「耳毛が生えて考えた」というタイトル。
 「『国民の話を聞く』なんて」というサブタイトルで佃 典彦さん(劇作家・演出家・俳優)が投稿されていました。


 どうも、名古屋のミラーマン佃です。

 今日はちょっと思うところありまして「耳」をテーマにお話ししたいと思います。

 なぜ「耳」なのかと言いますと先週、耳鼻咽喉科に行きまして先生に面白いお話しを聞いたからです。

 僕の耳の穴をのぞいて先生は「モシャモシャ生えてきましたねぇ、佃さんも初老の仲間入りだねぇ」とこう言うではありませんか。

 そう、知らない間に耳毛がモシャモシャ生えていたのです。

 鼻毛と違って耳毛は自分で確認することができませんから全く気付きませんでした。

 先生はさらにこう言ったのです。

 「耳毛ってのは染色体の構造上、男にしか生えないんです。

 つまり男には必要でも女には必要ないんですよね、何ででしょうね?」。

 医学的には本当かどうかは分かりませんが、確かに耳毛モシャモシャなオバサンは見たことが無い気がします。

 でもどうして男にだけ耳毛が生えるんでしょうね?しかも年を重ねるにつれて生えてくる。

 そうかぁ、だから中高年のオヤジになると人の意見を聞かなくなるのか。

 耳毛のせいで他人の言葉が遮られてしまうんだな、なんて考えていたらテレビで岸田文雄総理がノートを手にして「私は国民の話を聞きます!」とか何とか言っています。

 へぇ、だったら岸田さんは耳毛が生えてないのかしらん?

 秘書に抜いてもらったりしてるのかな?とか余計な心配。

 僕は国民の話を聞いて政治なんかできるもんかと思っていますから、ちょっと岸田さんの事は信用できません。

 「国民の話を聞く」と言われたら何となく庶民の声をすくい上げるみたいな感じがするけれど、大企業の社長だって権力者だって国民ですからね。

 右派も左派も国民、一体誰の話を聞いて国民の声とおっしゃるつもりなのか分かりませんが誰の声を聞いたとしても国民の声を聞いた事になりますからうそではありません。

 実に巧妙です。

 先日、「ドライブ・マイ・カー」という映画を見ました。

 映画を見に行ったのに演劇で泣かされるという不思議な体験をしたのですが、この映画はまさに「他社の言葉に耳を傾ける」行為について描かれた作品だと感じました。

 多言語演劇という特殊な演出法もそうですし、妻の最後の言葉をどう受け取ったかが主人公にとって大きなテーマで、作中の「本当に自分自身を深く真っすぐ見つめるしかないんです」ってセリフには感動しました。

 兎にも角にも他人の言葉をちゃんと聞くのは難しい。

 耳毛を引っこ抜いたくらいじゃ間に合いませんねぇ。


 以上です。


>でもどうして男にだけ耳毛が生えるんでしょうね?しかも年を重ねるにつれて生えてくる。
 そうかぁ、だから中高年のオヤジになると人の意見を聞かなくなるのか。
 耳毛のせいで他人の言葉が遮られてしまうんだな

 私はかみさんから「あなたは私の話を聞こうともしない!無視している!」とよく怒られますが、仕方ないですね。耳毛がかみさんの話を遮ってしまうのだから。

 私が悪いのではなく、耳毛が悪いんです。☺️


妻に、恋人に、この想い君に届けたい4曲・・・玉置浩二 心の歌
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お医者さんがご自分がガンになって、初めて患者さんの苦しみが分かったと言われた文章を拝見したことがあります。

2021-10-22 00:03:29 | 日記
 中日新聞の日曜版「おじさん図鑑」に「美しい言葉」というタイトルで飛島圭介さんが、エッセーを書かれていました。

 災害とか事故などで多くの人が被害を受けたりすると、必ず「被災者と寄り添って、痛みを共有する」というような言葉が飛び交う。

 あるいは、個人的な事故や生活上の悩みについても同様の美しい言葉が標語のように使われる。

 ひねくれたことを言うようだが、他人の痛みに「寄り添う」ことも、「共有する」ことも、誰もできはしない。

 人の痛みは、想像したり察したりはできても、その人と同じ痛みを自分が経験することは不可能だ。

 これは、体の痛みも心の痛みも同じこと。

 だいたい、「寄り添う」ってなに?

 具体的に肩を抱いて励ますわけではなく、言葉上のことだけではないのか。

 憂い顔で「お気の毒にねえ」と声を掛けるのと違いはあるのか。

 他人の心身の痛みを、わがことのように心配し、同情するのは勝手だが、「寄り添って、痛みを共有する」といった美しい言葉を無神経に使ってほしくない。

 思いは言葉ではなく行動で示すべきだろう。

 「寄り添い」「痛みを共有」したいのなら、ボランティアに参加するとか、募金に応じるなど自分も心身に痛みを伴うことで本物の思いとなる。

 そのとき言葉は要らない。

 黙ってやる。


 以上です。
 

>ひねくれたことを言うようだが、他人の痛みに「寄り添う」ことも、「共有する」ことも、誰もできはしない。

 そうでしょうね。
 他人の痛みに「寄り添う」ことも、「共有する」ことも、誰もできないでしょうね。

 お医者さんがご自分がガンになって、初めて患者さんの苦しみが分かったと言われた文章を拝見したことがあります。

 やはり他人の痛みはわからないでしょうね。

 もし、他人の痛みが分かったとしたら、身体が持たないでしょうね。

 人間、他人の痛みが分からないように出来ているのでは?

 飛島圭介さんが言われるように、「『寄り添い』『痛みを共有』したいのなら、ボランティアに参加するとか、募金に応じるなど自分も心身に痛みを伴うことで本物の思いとなる。」。

 これも一つの方法でしょうね。



Koji Tamaki「いのちの歌」Risa Ono
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