8/5日午後、南禅寺に向かいました。
地下鉄中央線で蹴上げで降りて。
右上は、インクライン
南禅寺入り口の疎水の際のお地蔵さんは皆さんが良くお詣りしているようですね。
有名な山門です。
石川五右衛門が「絶景かな絶景かな」と言ったとか。
法堂
現在の法堂は明治42年(1909)に再建されたもので、内部の須弥壇上中央に本尊釈迦如来、
右側に獅子に騎る文殊菩薩、左側に象に騎る普賢菩薩の三尊像を安置し、
床は一面の敷瓦となっております。
屋根は林立する巨大な欅の円柱に支えられ、
天井には今尾景年画伯畢生の大作と云われる幡龍が描かれています。
建長寺も川崎大師そうですが、ゆったりとお詣り出来ますね。
有名な疎水の水路です。
方丈で面白いものを見つけました。
東山三十六峯の名前がわかりました。
第一は比叡山ですね。
素敵なお説教を見つけました。
今、白川学館で神道を学んでいますが、同じことなのですね。
七沢久子先生の「おみち」の話は、まさにこのことなのですね。
「御祈祷をしても好転しない」という人がいますが、祈祷をしたから好転するのではなく、
その時の心のあり方とその後の生き方が大切なのであります。
私達は日常、心の中に煩悩(ぼんのう)を抱き、
世の中の真実の相(すがた)を見失いがちです。
好きなものに対しては貪り(むさぼり)となり、嫌いなものに対しては瞋り(いかり)となる。
貪って得られず、瞋って斥けられ(しりぞけ)ない時、心は迷いにおちて行くのです。
そして心が迷っている時には、世の中の真実のすがたが見えないので、
不安が生ずることになり、絶望への道を辿る(たどる)ことにもなるのです。
祈りの真の目的は、煩悩を捨てて、心の中をからっぽにして、
なすべきことに一生懸命努力する生き方を見い出すことであります。
努力を尽くせば、どんな結果でも悔いなく受け入れられる筈。(はず)
そしてその結果を生活にどう生かしていくかが最も大切ことなのであります。
祈りとは無心になって真実の姿を見つめ、
縁を生かしていけるような清々しい心を見いだすことで、
それが祈りの御利益であります。(南禅寺の掲示版から)
最近、耳にすることは、御利益を求めようとすることが
増えているのは、世の中が不安を煽ることが増えているためかも知れません。
中華街では、占いの館が大繁盛しています。
明日は、方丈の庭を紹介します。
ありがとうございます。
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