新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

岸田さん、善政を施して下さい

2022-11-22 07:31:15 | コラム
年金の所得が153万円以上は:

「後期高齢者に優しい政治をお願いします」と申し上げたいのだ。

報道によれば、高齢者健康保険の財務状況が悪化するので、財務省は来年度からは年金生活者でも金額が多い者に対しては、保険料を現在よりも年間14万円増額することを検討中だとか決定したとかである。本日を以て90歳に達した当方に言わせれば「悪政」である。思うに、財務省にも岸田内閣にも80歳台後半にさしかかって、この年齢層に入れば心身共にどれほど辛い状態になるかをお解りの方がおられないから、このような悪意に満ちたことを考えるのだと思う。

当方は今月では大病院でも掛かりつけのクリニックでも定期検査や診断が輻輳して2割負担にさせられた支払額が跳ね上がっただけではなく、それに伴って調剤薬局での薬代も嵩んできた。下記の金額をご覧になって「何だ。大したことはないじゃないか」と言われるかを伺いたいものだ。

その合計金額だけを記載してみれば、7回の通院で支払った額が¥6,510、薬代は¥11,361で合計金額は¥17,871となった。1割だったら¥8,000で済んだのにと言う前に、僅か1%にしかならない高齢者の窓口負担を増やすことが、高齢者健康保険の財務状況悪化を改善することになるのかと問いかけたいし、財務官僚も国会議員たちも病院やクリニックに行ってみれば、そこにいる患者が老人ばかりだと解るはずだ。

だから負担の増加をお願いするのだという理論は、私は間違っていると言いたい。何とかして生存しようと辛い状態を医学にたよって切り抜けたことに対して、罰を科すというのが政治のあるべき姿かということ。

72歳が終わる頃までの当方は、1時間ほどサッカーやフットサルをやっても筋肉痛すら感じなかった、バリバリの前期高齢者だった。それが、その最終月に心筋梗塞に襲われてからは「出るは出るは」であちこちが痛んできて、一時は「国立国際医療研究センター病院の全科目を制覇するか」と冗談も出たほど病気ばかりとなった。

換言すれば、70歳代を過ぎて80歳にもなれば、それまでに使ってきた体とその器官が弱ってくるものなのだ。だから病院通いになるのだ。だから、高齢者の医療費が嵩んでくるのが怪しからんという財務省(なのかな?)の考え方が間違っていると言うのだ。80歳が近くなった年のクラス会で幹事が冒頭に宣言したことは「病気と孫の話はなし」だった。私は今月が言わば例外的に負担額が大きくなったが、今後とも、毎月の負担額が減少することはないと思う。

それなのにも拘わらず、来年から保険料を増やすというのは、俗な言い方にすれば「ダブルパンチ」だ。しかも、年金の手取りは何とか方式で計算するので、来年は目減りするのが明らかだと報じられている。健康保険か国家財政の為かどうか知らないが、病気になる高齢者が悪いのだと言わんばかりの政治が「善政」かどうか、岸田さんは良く考えて欲しい。財務官僚が言ってくることを真に受けているようでは、まともな政治とは言えないと思う。再考を促したい。

私は1994年1月末までは自分の為、我が国の為、アメリカの会社の為に、文字通り体が粉になりそうなほど一所懸命に働いて来た。その報償として多少収入は増えたし、その分だけの年金を頂戴していると思う。しかし、その全てに対する報いが、恰もペナルティのような負担の増加という形の報いが来るのは納得できかねている。私が言うことが間違っていると思う方は是非お聞かせ頂きたいものだ。


またもや事実上の更迭とは情けない

2022-11-21 07:36:50 | コラム
岸田文雄内閣総理大臣の優柔不断を非難して済むことか:

またまた報道機関が世論調査をして、内閣支持率が下がったと嬉々として報じているではないか。

「だから言ったじゃないか」と言いたくもなる、実質的には私が言い続けた「野垂れ死に」である寺田稔総務大臣の辞任である。週刊文春の記事を読んだ瞬間に「速やかに対応しなければ、またもや岸田内閣の閣僚・寺田総務大臣の野垂れ死にの危険性が待っている」と感じたのが私だけではなかったと思いたいのだ。同時に、毎度のことだが、彼ら自身に満足な調査能力がなく、週刊文春の記事に基づいて内閣を責め立てる野党も極めてみっともない有様だと言いたい。

事がここまで来ると、岸田文雄という方の「危機管理能力」と「危機対応力」に、あらためて本格的に疑問を抱かざるを得ない。過去の実例からして週刊文春他の告発記事を根拠にしたマスコミの背後からの援護射撃に遭って実質的更迭である辞任に追い込まれた閣僚が何人いたかということだ。ご自身で任命された閣僚を庇い立てされたい心情は理解できないこともないが、それでは事の本質を見損なっているとお気付きではないのが、心底情けないのだ。

岸田総理には猛省以上の反省を促したい。「任命責任がどうの」と言って会見で謝れば済む問題ではないと思う。

寺田氏の後任はあの民主党政権の外務大臣だった松本剛明氏である。松本氏の家系と学歴を拝見すると、さぞかし立派な方だろうと思う。総理も松本氏も週刊文春の標的にならないように、今後の振る舞いには細心の注意を払って頂きたいものだ。勿論、所謂「身体検査」は万全だったのだろうな。こういう問題で、この国の内外に重要な課題が目白押しの時期に、国政を停滞させられるような事案の発生はもう避けて欲しい。直ぐ隣に手くすね引いて待っている国があるのだから。


11月20日 その2 間もなくW杯サッカーがカタールで開催される

2022-11-20 11:42:06 | コラム
我がフル代表のサッカーを振り返ってみた:

始めに一言「私は我が代表選手たちは闘争本能を素直に表して、狩猟民族の諸国に農耕民族でもやるときはやるのだと見せてやってくれと願っている」のである。

正確にはNHKのBSのお陰で、21世紀以前の我が国のサッカーを、懐かしく見る機会があったのだった。そして、痛感したことは「明らかに我が代表のサッカーの質は、森保一監督になってから顕著に変化していた」点だった。

どのように変わってきたかと言えば「森保以前のサッカーは兎に角ひたすら攻める」のに対して「現在の代表のサッカーは、後陣でのバックス間の横パスの交換と、前線からでも惜しみなくバックゥワードパスをして、兎に角ボールキープ率(time of possessionでも良いか?)を上げて、相手に攻める機会を与えないような狙いがあるのか」と疑わせてくれるのだ。兎に角慎重で安全第一のサッカーにしか見えない。

NHKは私に(だけではないと思うが)過去の我らの代表の真摯敢闘振りを見せてくれて、「嘗ては、直向きに攻めるサッカーをしていたこと」を再確認させてくれたのだった。あの頃には私が「責任逃れのパス回し」と非難攻撃するパスはせずに「自分で持ち込んでシュートを狙うか、相手を抜き去って前に進む」サッカーをやっていたのだった。バックス間の横パス交換などもしていなかった。善意の表現を使えば「パス交換によるキープ力が向上してきた」模様なのだ。

即ち、森保氏が監督に就任されて以降は、吉田麻也を中心にして良く言えば「前線にいる者が何時かはマークを外してフリーになってくれるのを待とう」という機会を狙っているだけで、嘗てのように積極的に(これも今や「アグレッシブ」というカタカナ語になってしまった)に相手の守りを自分で切り開こうとすることは禁じられたかの如くになってしまった。言い換えれば「スリルがない安全第一のサッカー」になってしまったと思えて仕方がない。

私は2005年までは(と言えば72歳だったが)若い世代とも交流する機会があるような、サッカーやフットサルを楽しんできた。そこで知り得たことは「現代(近代?)の人たちは我々の頃とは比較にならないほど球扱いに優れ(例えばリフティング)、スピードもあるのだが、怖さがないと言うのか、攻撃的ではないのかなと感じていた。即ち、優れた技術を活かして攻めに攻めるという闘争精神溢れるサッカーをしないのだった。

森保ジャパンはそのようなサッカーというか精神構造を表しているのか、最近漸く台頭してきた(私に言わせれば「往年のように自分でやって見せよう」という姿勢)伊東純也と三苫薫が目立つくらいで、後は「慎重に検討して、もしつけ込める隙が見つかったら攻めていくか」と、安全第一で味方同士の細かい前に進まないパス交換を重視しているかのように見えて仕方がない。

私はこのようなキープ時間尊重のサッカーは、選手たちが幼少の頃からクラブか、部活とやらの先生や指導者に仕込まれたものなのか、サンフレッチェ広島を何度も優勝させた森保一氏の信条なのかは解るはずもない。だが、WMフォーメーションの時代に育った私には「まだるっこくて、消極的」なサッカーにしか見えなくて不満なのだ。NHKのお陰で狩猟民族の諸外国のサッカーも見ることが出来たが、ボールキープ率狙いではなく、闘争本能剥き出しの争いだった。

私はマスコミには「低迷していたかの感があったドイツになら引分けで勝ち点1が取れて、上手く行けばグループを抜けてベスト8などと戯けたことを言うのではなく、原点に戻って闘争本能を出して『倒れて後やむ』の精神でやってくれ」くらいのことを言っても、バチは当たらないと思うのだ。

W杯のサッカーを見ている人たちの中には、単なる我が代表を応援する人だけではなく、「サッカーとは」を知って見ている者がいるのを忘れて欲しくないのだ。森保監督に信頼を寄せていない者もここに一名いるのも、無視して欲しくない。彼は大迫を外したことを「良くやった」と評価しているのだ。それほど、人によってはサッカーの見方が違うと認識して貰いたいのだ。でも、何とかグループリーグを突破できれば素晴らしいと願っている。


寺田稔総務大臣の更迭を検討

2022-11-20 07:59:24 | コラム
またもや「検討」と報じられてしまった:

私には岸田文雄内閣総理大臣の目の前の課題の処理の姿勢が、優柔不断なのかあるいは「慎重に検討癖」の何れかに思えて仕方がない。だが、昨夜辺りから報じられ始めた寺田稔総務大臣の辞任ではなくて更迭の件は、マスコミと野党の悪意ある「政治の緊急課題の焦点をずらして総理の判断を惑わせようとする質の悪い戦法」だと思うようにしている。彼らは何かと言えば寺田大臣の失態を事細かに掘り下げては「悪質だ」、「辞任すべきだ」と、さも最重要問題の如くに騒ぎ立てている。

それは、私は今や岸田内閣が抱えている国の内外の喫緊の課題の中には「寺田問題」などは、もしも組み入れたとしても重要性も緊急性も低いと考えている。私にはこの問題が「激化するインフレーション対策」や「円安対策」や「第8波対応」や「国防費というか安全保障問題」等々よりも重大ではないとしか考えられないのだ。

野党もマスコミも如何にも緊急課題のように寺田問題を騒ぎ立てるのは、彼らが意図しているのか否かまでは解らないが、岸田内閣と国民に物事の重要性と緊急性を見誤らせているだけだとしか思えないのだ。しかも、折悪しく岸田総理はG20だのASEANだのという海外での会合で、総理の価値の基準からすれば重要案件に真剣に取り組まれて「外遊中」だったのだ。しかも、留守を預かる官房長官も副長官の対応も不十分であるとしか見えないのが宜しくないだ。

野党とマスコミ連合はただひたすら岸田内閣の揚げ足を取ることに専念しているのだと見える。総理は純情にもその作戦にまともに取り組まれたのか「説明責任を果たして職務に専念させる」というような、何れは野垂れ死になってしまいかねない慎重な対応で臨まれた。山際大志郎氏は“Better late than never.”で外遊前に処置されたが、寺田問題は逡巡が傷を深くしたし、野党とマスコミ連合を勢い付かせるだけのことになった。

私には決断が遅いというか、全部の問題を抱え込んでしまうのは岸田文雄という方の性格なのか、あるいは側近に人を得ていないのかの何れか、もしかすると両方かと怖れている。

私は総理自身が「閣僚問題に関しては自分の判断が遅かった。国民の皆様に心配をさせて申し訳なかった。今回は潔く寺田大臣を交替させて速やかに重要課題に真っ向から取り組んでいくので、一層のご支援を」のように対処されれば、野党もマスコミも静かになるだろう。

念の為に申し上げて置くが、当方の論調は全てテレビと新聞報道に基づいている。


11月19日 その2 私は敢えて言うが

2022-11-19 08:59:22 | コラム
昨日の“I gift ball police.”が不人気(不評?)だったのは残念だ:

恐らく、この件へのアクセスは大袈裟に言えば史上最悪だった。それこそ「何故だ」の思いだ。私が強調したかった点は「今では何処の何方が言い出したことか知らないが、小学校の3年だったかから教え始め、中学でも3年教えた英語教育の成果が“I gift ball police.“だったことを何とも思わないのか」なのである。

あの表現だけで理解して貰えなかったのだから追加すれば、“give”を思いつかなかった生徒が“gift”と言えた「単語学習偏重」の凄まじい負の成果だ。「与える」を思いつかないでも「贈り物」が出てきたのには、論評のしようがなかった。

これを聞いて思いだしたことがあった。それは、今日までに何度も採り上げた「一聴英語ペラペラ風の方が『子供が大きくなったので』と言いたいときにgrowが出てこないで、children become bigと言ったのと良く似ている」のである。何度でも言うが「単語を覚えさせるだけで、文章の中でと言うか、流れの中でその単語をどう使えば良いか」を教えていないから、考えが纏まらずにあのようなことになってしまうのだ。

私はこのような英語の教え方では「百年河清を待つ」に等しいと何度も指摘してきた。何年勉強しても会話が出来るようにならないと嘆くのは適切ではないとも指摘した。そもそも英語を教えている狙いには、会話能力乃至は自己の考えの表現など入っていないのだとも指摘した。試験で良い点を取り、TOEICや英検での成績を問題にしていると、I gift ball police.のようになってしまうことが解って貰えなかったのが本当に残念だった。

また、私の英語教育論は学校とは違うからだろうか否定される気持ちは解っている。だが、言いたくはないが、私が個人指導した場合に成果が挙がったのは何故かと考えて欲しい。尤も、忘れて欲しくないことは「私は万人に英語の教育を強いる意味はないし、我が国では必要がない」とも何度も言ってきた。

お仕舞いに、フランス文学のTK博士が指摘してくれことを挙げておこう。それは「このテストの採点はフィリピンに送ってやって貰うのだ」という点。東京都は我が国で採点できないようなテストを何で強行するのかが不可解だ。まさか、英語の教師たちはそんな時間が取れないと言うのか、または自分たちには採点の能力がないとでも言い訳しているのか。不可解であるし、私の主張が不人気だったのは残念だ。