新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月20日 その2 間もなくW杯サッカーがカタールで開催される

2022-11-20 11:42:06 | コラム
我がフル代表のサッカーを振り返ってみた:

始めに一言「私は我が代表選手たちは闘争本能を素直に表して、狩猟民族の諸国に農耕民族でもやるときはやるのだと見せてやってくれと願っている」のである。

正確にはNHKのBSのお陰で、21世紀以前の我が国のサッカーを、懐かしく見る機会があったのだった。そして、痛感したことは「明らかに我が代表のサッカーの質は、森保一監督になってから顕著に変化していた」点だった。

どのように変わってきたかと言えば「森保以前のサッカーは兎に角ひたすら攻める」のに対して「現在の代表のサッカーは、後陣でのバックス間の横パスの交換と、前線からでも惜しみなくバックゥワードパスをして、兎に角ボールキープ率(time of possessionでも良いか?)を上げて、相手に攻める機会を与えないような狙いがあるのか」と疑わせてくれるのだ。兎に角慎重で安全第一のサッカーにしか見えない。

NHKは私に(だけではないと思うが)過去の我らの代表の真摯敢闘振りを見せてくれて、「嘗ては、直向きに攻めるサッカーをしていたこと」を再確認させてくれたのだった。あの頃には私が「責任逃れのパス回し」と非難攻撃するパスはせずに「自分で持ち込んでシュートを狙うか、相手を抜き去って前に進む」サッカーをやっていたのだった。バックス間の横パス交換などもしていなかった。善意の表現を使えば「パス交換によるキープ力が向上してきた」模様なのだ。

即ち、森保氏が監督に就任されて以降は、吉田麻也を中心にして良く言えば「前線にいる者が何時かはマークを外してフリーになってくれるのを待とう」という機会を狙っているだけで、嘗てのように積極的に(これも今や「アグレッシブ」というカタカナ語になってしまった)に相手の守りを自分で切り開こうとすることは禁じられたかの如くになってしまった。言い換えれば「スリルがない安全第一のサッカー」になってしまったと思えて仕方がない。

私は2005年までは(と言えば72歳だったが)若い世代とも交流する機会があるような、サッカーやフットサルを楽しんできた。そこで知り得たことは「現代(近代?)の人たちは我々の頃とは比較にならないほど球扱いに優れ(例えばリフティング)、スピードもあるのだが、怖さがないと言うのか、攻撃的ではないのかなと感じていた。即ち、優れた技術を活かして攻めに攻めるという闘争精神溢れるサッカーをしないのだった。

森保ジャパンはそのようなサッカーというか精神構造を表しているのか、最近漸く台頭してきた(私に言わせれば「往年のように自分でやって見せよう」という姿勢)伊東純也と三苫薫が目立つくらいで、後は「慎重に検討して、もしつけ込める隙が見つかったら攻めていくか」と、安全第一で味方同士の細かい前に進まないパス交換を重視しているかのように見えて仕方がない。

私はこのようなキープ時間尊重のサッカーは、選手たちが幼少の頃からクラブか、部活とやらの先生や指導者に仕込まれたものなのか、サンフレッチェ広島を何度も優勝させた森保一氏の信条なのかは解るはずもない。だが、WMフォーメーションの時代に育った私には「まだるっこくて、消極的」なサッカーにしか見えなくて不満なのだ。NHKのお陰で狩猟民族の諸外国のサッカーも見ることが出来たが、ボールキープ率狙いではなく、闘争本能剥き出しの争いだった。

私はマスコミには「低迷していたかの感があったドイツになら引分けで勝ち点1が取れて、上手く行けばグループを抜けてベスト8などと戯けたことを言うのではなく、原点に戻って闘争本能を出して『倒れて後やむ』の精神でやってくれ」くらいのことを言っても、バチは当たらないと思うのだ。

W杯のサッカーを見ている人たちの中には、単なる我が代表を応援する人だけではなく、「サッカーとは」を知って見ている者がいるのを忘れて欲しくないのだ。森保監督に信頼を寄せていない者もここに一名いるのも、無視して欲しくない。彼は大迫を外したことを「良くやった」と評価しているのだ。それほど、人によってはサッカーの見方が違うと認識して貰いたいのだ。でも、何とかグループリーグを突破できれば素晴らしいと願っている。



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