新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月19日 その2 私は敢えて言うが

2022-11-19 08:59:22 | コラム
昨日の“I gift ball police.”が不人気(不評?)だったのは残念だ:

恐らく、この件へのアクセスは大袈裟に言えば史上最悪だった。それこそ「何故だ」の思いだ。私が強調したかった点は「今では何処の何方が言い出したことか知らないが、小学校の3年だったかから教え始め、中学でも3年教えた英語教育の成果が“I gift ball police.“だったことを何とも思わないのか」なのである。

あの表現だけで理解して貰えなかったのだから追加すれば、“give”を思いつかなかった生徒が“gift”と言えた「単語学習偏重」の凄まじい負の成果だ。「与える」を思いつかないでも「贈り物」が出てきたのには、論評のしようがなかった。

これを聞いて思いだしたことがあった。それは、今日までに何度も採り上げた「一聴英語ペラペラ風の方が『子供が大きくなったので』と言いたいときにgrowが出てこないで、children become bigと言ったのと良く似ている」のである。何度でも言うが「単語を覚えさせるだけで、文章の中でと言うか、流れの中でその単語をどう使えば良いか」を教えていないから、考えが纏まらずにあのようなことになってしまうのだ。

私はこのような英語の教え方では「百年河清を待つ」に等しいと何度も指摘してきた。何年勉強しても会話が出来るようにならないと嘆くのは適切ではないとも指摘した。そもそも英語を教えている狙いには、会話能力乃至は自己の考えの表現など入っていないのだとも指摘した。試験で良い点を取り、TOEICや英検での成績を問題にしていると、I gift ball police.のようになってしまうことが解って貰えなかったのが本当に残念だった。

また、私の英語教育論は学校とは違うからだろうか否定される気持ちは解っている。だが、言いたくはないが、私が個人指導した場合に成果が挙がったのは何故かと考えて欲しい。尤も、忘れて欲しくないことは「私は万人に英語の教育を強いる意味はないし、我が国では必要がない」とも何度も言ってきた。

お仕舞いに、フランス文学のTK博士が指摘してくれことを挙げておこう。それは「このテストの採点はフィリピンに送ってやって貰うのだ」という点。東京都は我が国で採点できないようなテストを何で強行するのかが不可解だ。まさか、英語の教師たちはそんな時間が取れないと言うのか、または自分たちには採点の能力がないとでも言い訳しているのか。不可解であるし、私の主張が不人気だったのは残念だ。



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