41『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミア、狩猟採集から農耕牧畜の社会へ)
古代史の場合、最初の人類世界の一つの中心、すなわち「文明」と目されるのは、単にナイル川流域ではない、インダス川流域でもない、さらにまた黄河流域でもない。それは、西アジア(現在のイラン西部)と地中海世界(今日のシリア、パレスチナ)を組み入れてのティグリス、ユーフラテス両川流域、いわゆる「肥沃(豊饒)な三日月(半月)地帯」(Fertile Crescent)と称されるところに発生したメソポタミア文明を指す。
ここからは、紀元元年にいたる約8000年間に、現在我々人類社会が持っている、社会の根幹部分の諸要素がメソポタミアを嚆矢(こうし)として徐々に世界各地に単独でか、拡散(文明範囲拡張)などによってかで次々に形成されていった。
そこで、この地域でのそもの始まりに思いを馳せると、紀元前1万年前頃、地球の直近の氷河時代が終わる。それからは、徐々に氷河が後退していく。そして、この後退する氷河の後に生まれたのが、新しい生活環境のオリエントなのであった。まずは、中石器時代の2000年間(前1万年~8000年)が続く。ここに住む人々は、用途別につくられた磨製石器が示すように、旧石器時代の採取経済からしだいに脱していく。
それからの彼らは、より組織的な社会をつくっての複雑な生活へと向かう。「ナトゥーフと」呼ばれる文化が花咲く。ここで留意すべき点は二点ある。一つは、骨角器と石器の組みあわせによる鎌、石製の杵(きね)や臼(うす)の存在であって、二つめは、ヤギなどの家畜の存在である。これらは、やがて新石器時代になって農耕と牧畜の発生という形で結実していく、その礎(いしずえ)になっていく。
時は、それからさらに下る。地球の温暖化の本格的な始まりが紀元前8500年頃とするならば、人類はその頃、その頃としてはかなりの多数で西アジアから地中海沿岸の温かな地域に進出していたのであろう。なぜならここは、人類の「出エジプト」から近いところにあったからだと考えられる。しかしながらこの地は、チグリス、ユーフラテスの流れ以外には、ほとんどなんの資源も持たない程の、昔も今も目の前に広がるのは乾燥した砂漠なのであるから。
では、人々はなぜにこの地にとどまって、定住して暮らすようになったのであろうか。それを可能にしたものこそ野生で生息していた麦であった。現代の料理家は、古代メソポタミアの人々の、この思いがけない発見の意義を、こう解説している。
「今のわたしたちが思い描くようなパンにするには、焼いたときにただのでんぷんのかたまりにならないよう、そしてふっくらとした仕上がりになるよう、内部に気泡を閉じ込めておける程度の固さの生地が作れなければならない。肥沃な参画地帯の穀物のうち、内部に気泡を閉じこめておけて、なおかつ採取可能だった野生種は、大麦(Hordeum vulgare L.)と二種類の小麦ー(Triticum monococcum L.)とエンマー小麦(Triticum dicoccoides L.)ーだった。今日のパンの元祖となったのは、たぶんこれらの麦類だろう。」(ウィリアム・ルーペル「パンの歴史」原書房、2013)
それを最初にみつけた人物が誰であったかはわからないものの、このメソポタミアの地に住む人々は、これからの収穫を頼りに「天水農耕」(原始農耕の一つ)を始めた。その時期は、新石器時代初期(紀元前8000年頃からの約2000年間)の中にあったのではないかと考えられている。その具体的な地としては、紀元前8000年頃の遺跡で、ザグログ山脈の山麓地帯で雨水に頼る原始的な農耕が始まっていたことがわかっている。
その後には、シリアの北東部のハーブル川流域に「ハフラ文化」なるものが栄えた。その担い手の民族構成は、はっきりしていないようである。ともあれそれは、紀元前6000年頃~紀元前5300年頃のことであったと推測されている。あわせて、紀元前5500年頃からは、ザグロス山脈の北西部に「ウバイド文化」なるものが始まる。ここに「ウバイト」とあるのは、その遺跡の多くがイラク南部ジーカール県のウル遺跡の西6キロメートルにあるテル・アル=ウバイドという遺丘(テル)で発見されたからである。現在のウル市の西方六キロメートルに位置する遺跡名である。
(続く)
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