修一のよもやまばなし

高槻ライオンズクラブの元会長で元335B6R1ZCP(2009ー2010)中川修一が毎日のできごとと思いを綴るブログ

白秋祭「柳川堀物語」を見て

2015-11-04 00:45:15 | Weblog
原公民館で開催されました、白秋祭に、参加致しました。北原白秋にちなんだイベントで、原の里山づくり実行委員会(石田和義会長)の主催で行われました。柳川堀物語は、治水の大切さを知ることができてよかったです。堀割の水郷として有名な柳川の有り様が地域の自治体と住民の働きで美しさを維持されているという話でした。有明海の自然と調和した治水の方法として、新田開発と合わせて編み出された先人の知恵があの美しい水郷を作ってきたということでした。
 わたしは、昨年「淀川河川レンジャー」の講習会に参加して、淀川水系の概要について、学びました。芥川についてもそれなりに知識はあるのですが、あらためて、河川管理の歴史性を知りました。有明海という特殊な環境の中で、編み出された、水の管理の方法だと理解できました。芥川には、芥川の河川管理の方法があるのだと思います。今日の会場の原も、江戸時代の末期に水害が起こっています。浄圓寺が原盆地の西の山裾にありますが、水害の後、高台に引っ越されて今の場所にお寺ができたそうです。西之川原付近の芥川は今よりも東を流れていました。だから、西之川原という地名になっています。淀川の番田付近から、三箇牧にかけては、何度も破堤されているようです。淀川の堤防は今よりも5mから8m低かったそうです。JRの鉄橋は明治10年ごろに完成していますが、高槻城の城壁の石が使われています。(北側の二本の線路分)ということは、芥川のJR付近の様子は当時のままと言えるのではないかと思います。今、芥川では「あゆの遡上」を摂津峡までということで淀川から上流の堰を順次、改修されています。たくさんの堰があることを学びました。芥川の過去の破堤は下流の淀川との合流地点で起こっています。それは、淀川の水が芥川を逆流して、というか、淀川の水位が高くなりすぎて、芥川の水が淀川に排水されなくて、合流地点で、越流が起こり堤防の外側から破堤したということです。戦後すぐに、下流で破堤したそうですが、一番新しいのは昭和42年6月末に、如是川が如是小学校の100M位上流で決壊しています。この時は芝生の芥川大橋の上流の芥川と如是川との合流地点で芥川の水量に押されて如是川の水が流れずに、越流が起こり破堤に繋がっています。そのあと津之江公園の周りに有った堤防を撤去して、津之江公園全体を遊水池に作り替えられました。今から25くらい前の話です。津之江公園の広さを計算していませんが、野球場が二面くらいとれそうですので30000m2以上あると思います。仮に堤防の高さを5mとすると150000m3の水を貯められます。これとても芥川の流水量にすれば一瞬の量です。淀川の最大流量は、毎秒12000m3の排水量で設計されているそうですが、これも大阪湾の満潮時では、思うに任せられないと思います。淀川が満水になると芥川の水が排水されなくなり、越流が起こります。芥川が満水になれば如是川が越流します。そうして考えると、芥川で一番危険な場所はやはり、淀川との合流地点ということになります。
先日、ある会合で、芥川の浚渫の話が出ていました。JRの鉄橋付近に溜まっているいる土砂を浚渫してほしい旨の話だったと思いますが、ここは危険水位越えの大雨が降るとすぐに土砂が堆積する場所です。でJR鉄橋すぐ下流の(清水池公民館の少し上流)に堰があって、この堰で流水スピードが下がっています。それで土砂が溜まるのです。しかしながら、大量の雨が降るときは、一度に下流まで土砂を運んでしまうので土砂が溜まらないのです。土砂が溜まるという意味では、津之江公園の山になっている土砂を撤去する方がはるかに芥川の安全度は上がります。


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一時間に100m2の雨と芥川

2015-09-21 12:17:29 | Weblog
よく言われる時間100mmの雨について書きます。一時間に100mmといいますが、いつも面積の話が飛ばされています。時間100mmの雨がどのくらいの広さに降ったのかが重要です。つまり、合計何トンのあめがふったかということが重要です。1km2の面積に100mm/時間の雨が降ると、合計で100000m3の量になります。これを一時間で排水するとなると、100000m3を60分×60秒で割ると27.7m3/秒となります。約30m3/秒の水を排水しなければなりません。高槻の芥川の流域面積は55km2ですので、芥川流域全体に時間100mmの雨が降ると5500000m3の水が出ることになって、30m3×55で1650m3/秒の水を排水しなければなりません。それでは、芥川にこの水を排水する能力があるかどうかという話です。今、秒速5mで川が流れるとすると、断面積×5が排水能力となります。仮に、幅40m×高さ5m×流速5mとすると1000m3となります。先日の鬼怒川のように一晩で600mmも降ると限界があります。高槻の山間部にそれだけの雨が降るとあぶないということです。実際の芥川の大きさをはかったわけではないので、もう少し余裕があるのかもしれませんが100年単位の長さでいうと、江戸中期に原の盆地が水没した記録があります。その時はきっと摂津峡も宮之川原も大変なことになっていたと思います。宮之川原の西側に芥川が流れていますが、もともとは宮之川原の真ん中を流れていたものを西に付け替えられています。この時に淀川が満水状態ならば、下流で越流が起こります。こんなことだと思います。
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淀川が氾濫したらどうなる?

2015-09-21 02:40:06 | Weblog
今日のテレビで、淀川が氾濫したら大阪はどうなるという番組をしていました。梅田や福島は水びたしになる話でした。3年前に、嵐山の渡月橋で越水したことがありましたが、あの時に桂川から3900トン/毎秒の水が淀川に流れ込んでいたそうです。同じときに、木津川から3900トン/毎秒が流れ込んでいたそうです。真ん中の宇治川からは琵琶湖の瀬田の水門が閉じられていましたので、1600トン/毎秒が流れ込んでいました。合計で9400トン/毎秒の水が淀川に流れ込んでいます。ほかにも水無瀬川、天野川、桧尾川、芥川から流れ込んでいます。淀川は毎秒12000トンの排水ができるようにつくられていますので2600トンぐらいの余裕があって、決壊することなく事なきを得ていました。あの時以上の雨が降ったらどうなるかというと、桂川が決壊する可能性が高くなります。木津川が決壊する可能性が高くなります。琵琶湖が異常な高水位になりまわりが浸水します。むしろ、淀川水系の中小河川の氾濫の可能性の方が大阪の真ん中が水没する可能性よりも高くなります。その意味では芥川の氾濫の方が可能性が高くなります。突然の大量の雨は、とりあえず高台に避難することが正解です。でも、津波にはこれと反対のことになりますから要注意です。


津の江公園の輪中堤防の撤去とかもされましたね。池を作ってその土をそのまま公園内に留めておられます。河川内はできるだけ広くしておかないといけません。油断があると思いますよ。

桧尾川は流域面積が大きくないので雨が止めば半日で水が引きます。磐手小学校の北側にため池がありますが、この筋に流れ出ていたと思います。手早く水を淀川に流すために今のところにもっていったのです。淀川はそのころは蛇行していて、春日町辺りから南は湿地帯で雨が降れば浸かっていたと思います。京都の南は巨椋池から湿地帯でした。


芥川は流域面積は55km2です。原の村が、水没した事が何度もあります。その時は摂津峡の水量も多かったはずで、宮之川原も氾濫していたと思います。今の芥川は宮之川原で西に付け替えられています。現在でも、原が水没するほどの雨が降る可能性は十分にあります。その可能性は淀川が氾濫する可能性よりも高いのです。

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歩道は、残念ながら歩きにくいね。

2015-08-10 10:04:45 | Weblog
高槻まつりが終わり、一息ついています。このところ坐骨神経痛の痛みが引いてきているので、少し歩こうと思って、歩き始めています。まずは、近くの弁天跨線橋を渡って、古曾部方面へ出て西武百貨店を廻ってJR高槻駅を南へ超えて自宅へ帰着です。これでも20分くらいの散歩です。3回ほどこのコースで、そのあとは、自宅から西へ芥川まで。堤防沿いに芥川橋まで進んで、171を南に戻ってみづき通りを阪急高槻駅までです。ちょっと遠くに行きすぎました。そこで気が付いたことなんですが、歩道の面がどこも斜めになっていて、歩きにくいことです。車道面と住宅の基礎面との差異を歩道でうめようとするもんだから、どこもかしこも斜めばっかりです。そこへ、車の出入り口が1メーター以上に斜めになっています。車道はまっすくなのに歩道が斜めです。自転車が後ろから追いかけてくるのも大変です。自転車は車道を走るようになったらしいのですが、自転車で車道を走るのは命がけですね。芥川を中川町から芥川町まで歩きましたが、先日の台風の大雨でかなりの水位があったようで、高水域の平なところに砂が溜まっていました。津之江から芥川橋まで、右岸を歩きましたが、狭いところに車の両側通行でとても歩けたものではありません。そんなことで、歩くのも大変なことだと気が付きました。
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修一のよもやまばなしに名前を変更します

2015-08-06 17:00:13 | Weblog
高槻ライオンズクラブ物語2015として、長く読んでいただきましたが、高槻ライオンズクラブの役員を交代しても同じタイトルでブログを続けるのはいかがなものかと、ご指摘いただきましたので、ここら辺で自身のブログとして再出発したいと思います。もとより文才のない私が、ブログを書くことですこしは、お話をすることができるようになったかと思います。これからは、私の日常の一部を切り取りながら、お話を続けていきたいと思います。10年間、いろんなことを書いてきたなあと振り返っています。最近はフェイスブックへ記事を書くことが多くなっています。でも、記録を時系列で確認するにはブログの方が優れていると思います。
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摂津峡青少年キャンプ場で桃園小学校5年生が飯盒炊爨をしました

2015-05-15 00:19:25 | Weblog

2015年5月14日、10時過ぎに摂津峡公園の西側の山の上にある「青少年キャンプ場」に桃園小学校の5年生が飯盒炊爨をしに出かけました。西の口バス停から10分ほど山道を歩くとキャンプ場に着きます。5年生のみんなは、この後林間学舎に出かけるのですが、今日はそのための準備で飯盒炊爨を体験します。キャンプ場に着くと、山崎さん、甲斐さん、吉本さんの3人の指導員のかたがおられました。甲斐さんから「すずめ蜂に気を付けるように」と言われ、山の中に来たことを実感しました。子供たちは8つの班に分かれて、カレーライスをつくりました。薪で火をつける係、お米を研いで水加減をする係、カレーの材料を切ってカレーを作る係、と3つの係に分かれて始まりました。なかなか薪に火が着きません。新聞紙には火が付くのですが薪に火が着いてくれません。お米の水加減はたいへん難しいでした。カレーの材料を切るのも手を切らないかとはらはらしました。でも何とか12時過ぎにはおいしく食べることができました。子供たちの手で飯盒炊爨をする時間としては早くできたと思いました。子供たちも自分の役割を良く理解できていたと思います。さわやかな5月という季節に、キャンプ場で飯盒炊爨もいいもんだと思います。山の中は今の季節が一番だと思います。
 キャンプ場の指導員さんの動きは、素晴らしいものがありました。甲斐指導員の説明は、こどもたちにとてもわかりやすく、はじめてきた子供も安心して取り組めていたと思います。飯盒炊爨の手順にそって、段階をおって説明をしていただきました。先生方との打ち合わせもきちんとされているなと思いました。何よりを、子供たちと一緒においしいカレーをつくろうという意欲が伝わる指導でした。後片付けも一緒にしていただき、火の始末など子供たちにとって初めての作業も安全にできました。全部で4時間余りのプログラムでしたが、山の中の楽しいひと時でした。
 先生方も、適格な引率と指導で子供たちをあわてさせることもなく、良い校外学習をされたと思います。綿密な計画をご苦労様でした。突然、参加させていただいた私も楽しかったです。森の木々たちはとても大きくなっています。青少年キャンプ場はあらためていいところだと思います。昭和32年ごろの開設ですが、やはりキャンプ場は「人と自然」が出会うところです。キャンプ場の教育力は、指導員の力によると感じました。摂津峡青少年キャンプ場はいいところです。
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桃園小学校参観

2015-02-20 18:38:16 | Weblog


今日は、桃園小学校の評議委員会があって桃園小学校へ。校長先生、教頭先生からの学校の現状についてお話が合って、そのあと授業の参観に行きました。小学3年生は、「寒天」を題材にした授業を、歴史から糸寒天の製作までしっかりと発表されていました。5年生は、「伝える」事の難しさについて学んでいました。一年生は、この一年の楽しかったことの振り返り授業でした。子供たちは保護者の参観にも関わらずしっかりと授業に取り組んでいました。先生方の熱意も大いに感じた参観でした。わが母校の私は9期生です。また、パッドを使った授業に時代を感じました。
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「NPOと行政の協働について」のセミナー、の感想

2015-02-20 00:25:54 | Weblog
早瀬昇さんの講演で、「ワールドカフェ」の手法で市民と行政マンの交流プログラムを持たれました。なぜ協働なのか、から入ってワールドカフェに持っていかれましたが、講演の中でも触れられていたのですが、時間が少ない中で「ワールドカフェ」の展開が人数が多かったので説明に時間が掛かってしまって、肝心のテーブルごとの会話に時間が取れなかったのが残念でした。ワークショップ(以後WS)が成立するには、最終的に参加者の参加への納得感がどの程度あるかが大きなポイントです。今回は、協働で何か話をしたという成果があったのですが、さて何のためにその話をしたのだろうかという点で不満が残るところだったと思います。会場の大きさからすると、テーブルが邪魔をしていましたね。中野民雄の円卓段ボールの「ワールドカフェ」の膝詰会議的な方法が有効だったと思います。短いアイスブレイクタイムにも関わらず、必要な会話はできていたと思います。今日の参加者と人数でしたら休憩をはさんで4時間はほしいところです。特に、ポストイットや模造紙を使ったWSでは、WS慣れしていないメンバーであることを考慮すると、本日の倍くらいの時間が必要だったと思います。また、時間がないのならば、ワールドカフェの手法を行政マンだけでも事前に講習されておいても良かったと思います。他の時にも使えますしね。今回の講習会の、裏のテーマに、行政マンの市民との接し方の練習の意味もあったかと思いますので、そこら辺の準備不足を感じました。早瀬さんは、そのこともよく理解されたうえで、早い展開に持っていかれていたとおもいますが、参加者の「納得感」が少し削がれていたように思いました。WSの要諦は、参加者に参加してよかったまた来ようとする「納得感」です。そして、書いたり発表したりしたことは、すべてファシリテータが、評価「C」をすることです。少し飛ばされたので、その点があいまいでした。行政マンと市民が直接の利害や立場を乗り越えて「会話」できる機会でしたのでもう一歩踏み込んで、終わるときには、握手をして再会を約束して帰る状況まで作ってほしかったというのが本音です。私は、「景観ワークショップ」「安満遺跡公園ワークショップ」とかを見てきています。そのことからいうと、もう一、二回続けても良かったと思います。例えば「市民○○ワークショップ」という名前で市民と一緒に考える場を作ることは、これからの行政コンテンツを作っていく上で必要な手続きになってくるのではないでしょうか。     
私的には、「高槻まつり」が市民協働事業だと捉えていますし、高槻まつりの事業展開の中には「市民協働」の場面がいっぱい出てくると思っています。
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二月二十二日鵜殿葦焼きにちなんで

2015-02-18 23:38:30 | Weblog
鵜殿の葦を使った立て簾が有名ですが、今はもう作られていないかもしれません。20年ぐらい前には道鵜町の高山さんでは作られていたと思います。鵜殿の葦は、固いのでなかなか腐らなくて長持ちがすると評判でした。最近では、ホームセンターで1000円前後で6尺や8尺の立て簾が買えますが、これらはみんな中国産です。道鵜町の立て簾は、和歌山産の棕櫚縄で編んでありましたので、雨露にかかっても強くて縄目がほどけることはありませんでした。中国産の立て簾は、麻縄で編まれています。それなりに用は足すのですが、一シーズンでほどけてきます。もともとその昔は、立て簾は農産物の指定があって、中国産の輸入では、全国の製簾組合が一手に輸入していて、保護貿易の品目で高額の関税がかかっていましたので、国産の製造の余地が残されていましたが、近年は、雑貨として輸入されているので、天津すだれも含めて、百円ショップで売られるように安価になってしまいました。国産すだれの生産の余地は本当に少なくなってきているようです。高槻市の菊花展なんかで使われている立て簾はどこの製品でしょうか。琵琶湖の沿岸部も葦の一大繁茂地です。雅楽のリードに使われたりしているようですが、品質が固いからではないでしょうか。葦の生えているところでは、水質を浄化する機能があると言われています。今年は、フクロウが生息していたりして話題を振りまいています。淀川の風物詩として、葦焼きも続いてほしいと思います。
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オールドキャンパーヘ

2014-07-14 11:27:43 | Weblog
いつか年老いて、再びこの地に戻ることがあったら、青春の日々を懐かしく思い出すことでしょう。私たちが過って包まれてきた豊かさに気が付くことでしょう。それは、私たちが懐かしく思うだけでなく、私たちの子や孫にも共通に必要なことだと気が付きます。森の中で過ごしたことが、今でも心の中に豊かな思い出として残っています。もう一度、このことを問い直さなければと、思っています。山村池の上を通り抜けている風に吹かれながらそんなことを思いました。
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3年ぶりに大阪府総合青少年野外活動センターに行きました

2014-07-09 17:56:09 | Weblog

山村池です。例年なら、子供たちの歓声が聞こえている季節ですが、今年はひっそりと、水を湛えていました。誰もいない能勢の野外活動センターではこのまま、元の森に戻ってしまいそうになっています。木々はますます大きくなっていますし、道も誰も入れなくしようと、懸命に草を生やしています。遠くに剣尾山が悠然とそびえていました。1956年にここに初めてはキャンプ場を開いた先人のことを思い浮かべます。青少年の楽園をイメージしていたのではないかと思います。組織キャンプの種をまいていつの間にか時に流されていきました。

能勢地方の水源地としてつくられた山村池とその堰堤です。あのころは、まだ、山の緑が安定していなくて、いつも濁った水を湛えていました。いつからか、緑濃い水に変わっています。山の木々はたくましく根を張り周囲を深い森に戻していきます。この谷の広さに意味を見出していたのでした。

第四キャンプ場です。私が1970年から73年の夏まで、入り浸っていたところです。このメインホールから正面に妙見山が見えました。今は木が大きくなって妙見山を見ることはできません。雑草に囲まれた、メインホールを見ることになるとは、ああなんと夢の跡のようです。

第四キャンプ場の中に向かって松の木が大きくなっています。もうあのころの笹薮はどこにもありません。木々は、懸命に森に戻ろうとしています。

いつも、キャンパーを見送っていたゲート付近です。私もここから帰っていきます。

さて、誰もいないキャンプ場ほどさみしいところはありません。山の緑の中で人に会うことがキャンプの楽しさであることを思い知らされます。いつかまた、子供たちの声が響きわたることがあるのでしょうか。もう一度「自然を大好きな人たち」の聖地に蘇ってほしいと願っています。今まさに、何もないところから始めることなんでしょう。「松田稔」先生の教えを思い出そうとしています。

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安満遺跡公園における「農」プログラムの目論見書の原案

2014-04-04 21:57:41 | Weblog
平成26年4月4日

安満遺跡公園整備室様


平成25年度安満遺跡公園ワークショップ「農」企画委員  中川修一

安満遺跡公園予定地における「農」プログラムの目論見書(案)

安満遺跡公園予定地の内、北西部の約3000m2の田圃をお借りして、市民が育てる公園整備の一環として、「農」の体験プログラムを下記のとおり実施したいと存じます
 つきましては、関係各位のご指導をよろしくお願いいたします。

                         記
目的    安満遺跡公園の、弥生時代の環濠集落の遺跡としての重要性を認識し、里山としての農空間の景観を保持しながら「農」体験プログラムを展開する。
実施予定地  安満遺跡公園予定地北西部約3000m2

栽培イメージ
ひのひかりを二反。収穫目標30キロ袋30本、約25万円の収入。
もち米100坪分で、収穫祭の餅つき用を栽培。
弥生時代のコメのアピールとして、古代米の赤米を100坪分。
100坪分程度の余地があるから、そばを植えるか大豆を植えて味噌をつくる。

経費
ひのひかりの苗代25000円。
もち米の苗代4000円。
赤米の籾代2000円
肥料代12000円
除草剤代3000円
そば種代2500円
小計48500円

予算的には約20万円が残るので、その場合は、モミの乾燥、脱穀、精米にかかる費用についても支払いたいと思います。また、それぞれのメンバーの仕事量に応じて手当を支払う必要も感じます。

いずれにしても、このような状況で進めれば、各個人の持ち出しは労働力だけで済むのではと思っています。

人的体制
ひのひかり班5名
赤米班5名 できれば手植え手刈りでやってみたい。
もち米班5名 これも手植え手刈りで、
野菜班 手の空いた人で臨時につくる
女性のメンバーがある程度集まれば花き班を作って、菊、ひまわりなどを栽培する。

最終的には、市学芸員の「弥生時代の文化研究」の成果発表の機会作りと栽培記録を残すために、取り組み記録をきっちり冊子にして発行したいと思います。
以上、今考えているところです。

追伸、
われわれの行動団体の名称は、「ワクワク農園」でいかがでしょうか。



添付のような目論見書を安満遺跡準備室に提出してきました。昨日の打ち合わせで、文化財課の高橋さんから、26年度に北西部分の田圃のレーザー調査をする旨の発言がありました。また、安満遺跡公園の趣旨から、「ひのひかり」の普通米の作付けについても疑義が表明されました。どうも、この農計画をやめてほしいような雰囲気です。みなさんのご意見をいただきたいのですが、いかがでしょうか。私としては「農」プログラムを通じて、市民が作る公園計画のスタートと考えているのですが、みなさんにはお忙しいと思いますが、「応援のメッセージ」をいただけないでしょうか。あまりの高いハードルにくじけそうです。
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L柿原勝彦が335B地区の第二副地区ガバナーに立候補しました

2014-03-31 01:29:33 | Weblog

世の為 人の為に生かされる自分でありたい。We Serve
「青春の決意」
私は昭和19年10月23日に大阪府高槻市中心部で代々小間物・化粧品・雑貨などを営む商家の次男坊としてこの世に出征しました。
地元の府立高校を卒業し九州に旅をした時、鹿児島にある知覧特攻平和会館を訪れ、そこで特攻隊員の遺書・手紙を読んでいるうちに金縛りにあったように、その場から離れられず、溢れんばかりの涙が出、暫し呆然としていたことを今でもはっきり覚えています。

その中に兄弟に宛てた一通の遺書がありました。
「弟、妹へ、お父さんお母さんの事を頼んだよ、僕は両親に何も出来なかったけど家族を守るために今日未明に飛び立つ・・大きくなったら好きな道に進み立派な日本人に成ってけれ」
昭和20年4月23日

私が生まれて間もない頃に、10代20代の若さで特攻に選ばれ自から死んで家族や祖国を守ると言う崇高な精神力に感銘を受け、私は力いっぱい握りこぶしを握りしめ「この人たちの分までも生きて、世の為人の為に尽くそう」と強い決意を抱き涙が止まりませんでした。

「プロフェッショナルへの道」
幼いころから絵心があったので、自分の手で何か出来ることをやろうと上京し写真スタジオでアルバイトを兼ねて写真撮影の助手を務めました。
スタジオには当時売れっ子の篠山紀信、立木義浩、浅井慎平、大御所 秋山庄太郎などが来られ、先輩からの助言も有り、日本大学芸術学部に進学しました。

在学中に撮影現場にもアルバイトとして出向いていた頃、杉山昭親というドキュメンタリーカメラマンに出会い、カメラマンとしての生きざまに惚れ師事6年ほど一流の手ほどきを受け「兼高かおる世界の旅」などを通してプロフェッショナルの根性をたたき込まれました。

「昭和天皇 行幸での感動」
私が27歳になった頃、海外取材番組「世界の街角」「すばらしい世界旅行」のメインカメラマンとして制作会社と契約をし、世界各国を回りその間1972年2月に開催された第11回冬期札幌オリンピックでは、皇室のご行幸に12日間同行し記録映像を担当しました。

開会式では昭和天皇皇后両陛下のお側から、そして、この大会のハイライトとなったジャンプ競技で笠谷、金野、青地選手の日ノ丸飛行隊の活躍に陛下は3本の日ノ丸が揃って掲揚された時には、うっすらと目頭から涙をお流しになったシーンを克明に記録し、当時各メディアで放映されたことは、私にとって生涯の誇りと思っています。

ライオンズクラブ国際協会
335-B地区 第2副地区ガバナー立候補者
■出身地 高槻市高槻町
■ 生年月日 1944年10月23日 ■血液型 O型
■ ■学歴 1970年3月 日本大学芸術学部卒業
■ ■経歴 1998年〜2011年 高槻まつり振興会 実行委員長、会長 14期
■ 1999年〜 高槻ジャズストリート 相談役
■ 2000年〜 高槻商工会議所 議員
■ 2008年〜大阪府立槻の木高校評議員 2期4年 (公財)高槻市文化振興事業団 評議員
■ 2010年〜 (社)高槻市観光協会 会長
■ 2012年〜 ガンバ大阪高槻後援会 会長
■ 2013年〜 NPO大阪府日本・中国友好協会 副会長
■ ■ライオン歴 1985年12月10日入会
■ 1990〜1991年度 クラブ幹事
■ 2000〜2001年度 地区国際大会実行委員(記念誌担当)
■ 2001〜2002年度 クラブ会長 地区国際大会実行委員
■ 2005〜2006年度 地区青少年・ライオンズクエスト委員長
■ 2006〜2007年度 地区キャビネット幹事 複合地区管理委員長
■ 2007〜2008年度 地区ライオンズクエスト委員長

「ふるさと高槻での活動」
長期のヨーロッパ取材から帰国した時、「お父さんが心筋梗塞で・・・」との連絡があり、止む無く帰阪。
家業を継ぐ事に成り、あまりにもかけ離れた生活を過ごしていた時にJCへの誘いがあり、生まれ育ったこの街の為に、今まで世界中を回って観てきた事、体験してきたことをこの街に生かそうと思い、創立10周年を迎えたJCが「ふるさとの風土高槻」と云う記念誌を発刊するとのことで、高槻市内の名勝旧跡、寺社等々を1年かけて撮影をして回り、その地で出会った地元の人たちとふるさとの風土に付いて語り合い、自分の生まれた故郷の良さを再認識することができ、それがきっかけで「高槻まつり」の運営に参画、単なる盆踊りから全ての市民が参加でき、ふれあいが持てる祭りへと進化させてきました。

それが縁で行政、警察、消防、保健所、地域コミュニティの多くの方々とも信頼関係ができ、その結果、実行委員長も含めて高槻まつり振興会の会長を14年間努めました。

「高槻のプロデューサー」
その間にも、高槻市制50周年にはイギリスから世界のマジシャン ポール・ダニエル氏を招いてのイベントを開催。市制60周年にはスコットランドエジンバラ市と提携してJR高槻駅前に「市民が創る花時計」を設置。
花を愛する多くの市民が年間一人1000円を寄贈して花の植え替えを一緒にする奉仕活動をしました。

そして15年前の夜にある若者二人が「ジャズを通じて、高槻に人がたくさん来るようにしたい」しかしお金も無いし、やり方も解らないと相談があり朝方まで仕掛けを考え実行しました。
各方面からのご協力とご協賛を頂き昨年記念すべき第15回のジャズストリートを成功裏に終わらせ今も継続しています。

このイベントは全国的にも飛び火して東京隅田区、代々木公園、そして、韓国ソウルでは毎年10月に一日で数十万人が集まる大フェスティバルに発展。
すでに6回を終わらせていて釜山で済州島と各地に広まっています。
私はこれら全てボランティアとして活動しています。

ライオンズクラブでの活動
私は高槻ライオンズクラブに入会して、かれこれ29年が経ちます。
入会の動機は、高槻青年会議所で「明るい豊かな社会を築こう」と言う理想を持って様々の活動をし、このマインドを続けられる場として「We Serve」の理念を持つLIONSに入会しました。

Liberty Intelligence Our Nations Safety.

私は我がクラブにおいて常にこのスローガン、モットーの下に国際協会の定めた規則ルールを遵守し、我がクラブは現在会員70名で活動しています。

我がクラブは2年前にCN50周年を迎え、大きなことは出来ないかもしれませんが、今年池下節夫会長はテーマとして
【不易流行でウイサーブ】を掲げ基本を忘れずに新しい物にも挑戦して行こうとチャレンジ精神に燃えて奉仕活動を邁進しています。

私は今回、すばらしい仲間がいる高槻ライオンズクラブの推薦を受け輝かしい歴史と伝統と日本で一番の会員数を誇る335-B地区の第2副地区ガバナー候補として立候補させていただきました。
今後は皆様方のご協力とご尽力を頂きながら335-B地区の全てのクラブが更なる発展が出来るよう「新しい階」を構築していく覚悟ですので、何卒よろしくお願い致します。

私は今69歳 今年10月で70歳に成ります。
     私が歩んできた人生の中で常に想っていること
       私を育ててくれた祖母も、父も母も常に言っていた事

人様がいて 自分があるのだ 人様の話をよく聞いて
      我情我欲になるな はしたない事は絶対するな
         いつも感謝、感謝の気持ちを忘れずに
      世のため 人のため お役にたてる人になれ

これらの家訓を忘れずに、爽やかに常に笑顔を持ってお洒落な伯父さまでいたいと思っております。



私の親愛なる先輩であります。28歳の時から高槻青年会議所の先輩として長年にわたり一緒に活動してまいりました。いろんな場面でその芸術家としての卓越したセンスで我々をリードしていただきました。特に高槻まつりでは、柿原会長とともに20年にわたり取り組んでまいりました。ライオンズクラブ活動においても、L古川明会長の幹事として、L岡田宏ガバナーの時のキャビネット幹事として活躍されました。この度、335B地区の大に副地区ガバナーとして立候補する機会をいただき感謝しております。是非とも、柿原勝彦をご支援いただき副地区ガバナーの職務を担わせていただく機会を与えていただきますようお願い申し上げます。






(写真6枚)
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里山資本主義

2014-03-18 12:28:55 | Weblog


藻谷浩介さんの著作です。
現代の経済至上主義を「マネー資本主義」と定義し、21世紀型の資本主義を「里山資本主義」と捉えてエネルギーの取得方法から、食糧の取得方法を通じて、未来の日本や世界のあり方を考えさせる一冊です。
本の帯の文から「マネー資本主義の限界をなんとなく感じている日本人。その不安と不満を解消し、新たな豊かさを提供する、生き方の常識を変える”里山資本主義”
人々の創意工夫と「最先端の技術」が田舎暮らしを革命的に変え、日本の田舎暮らしは「都会」と、そして「世界」ともすぐにつながる環境を手にしている。

うまくかけないのですが、すごく人間的な考え方だと直感しました。高槻でもできそうです。
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安満遺跡公園ワークショップの考察P-1

2014-03-10 23:48:51 | Weblog
3月7日のワークショップの中で、市民参加の一つのチャレンジプログラムとして、農についてやってみようということが上がり、中川から提案をしてそれを検討していく、ということで一歩前に進めようとの話になったかと思います。さて、市民参加のモデルプログラムを考えるには、たくさんの課題があります。それらを列挙しながら、一つ一つの課題解決を図り現実のものにしていくためのロードマップを作っていかなければなりません。農ということですので、仮に「稲作」を展開するための課題の整理をしましょう。例えば、「フラワーパーク」にするにはどんな課題があるか等の、一つ一つのテーマについて課題の共有をはじめていく必要があります。それぞれの具体的なプログラムについて課題の解決を、行政サイドのだれがいつまでに解決を図るのか、市民サイドでは課題解決のためのチームをどのように組織していくのかをロードマップとして完成させなければなりません。一つの例を挙げてみます。

「稲作計画」1.規模
      2.時期
      3.作付品種
      4.苗の確保
      5.指導方法と人員
      6.管理方法
      7.展開スケジュール
      8.圃場管理者の設定
      9.収穫方法
      10.収穫物の処分方法
      11.収穫後の圃場管理
      12.冬季の管理主体
      13.高槻市の関わり方
      14.継続的に展開するための考え方
      15.市民参加の効果の測定
      16.安満遺跡公園で稲作をする意義
      17.道具等の管理拠点
      18.作業参加者の管理拠点
      19.現在の京大農場の運営との区分け
      20.運営資金の捻出

これらの事柄が、ファンタジーの世界ではなく現実の議論として出てきます。ただ単に「稲作」をしますよ。みんな集まってくださいでは、実は一歩も進めないのです。スーパー公務員とスーパーボランティアの力だけでは、進めないところです。これらの事柄が、すべての公園プログラムに発生してきます。高槻市が提唱されている「市民の参加で作る公園」のハードルだと思います。次回のワークショップの体制は、平成25年度とは少し変わるとは思いますが、次回の議論のテーマになるのではないでしょうか。
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