修一のよもやまばなし

高槻ライオンズクラブの元会長で元335B6R1ZCP(2009ー2010)中川修一が毎日のできごとと思いを綴るブログ

第50回記念 高槻まつりのあゆみ

2019-07-09 14:09:08 | Weblog
高槻まつりのあゆみ

第一回高槻まつりは「えじゃないか高槻まつり」として、昭和45年(1970年)始まりました。昭和45年は千里丘陵で大阪万博が開かれた年で大阪は万博ブームに沸いていました。毎日、30万人の人が万博会場に行き延6000万人以上の人が来場しました。そのころ高槻市では、昭和40年代に急激に人口が増えてのどかな田園都市から大阪のベッドタウンとして大きく飛躍しました。そんな年に高槻まつりが開催されました。初代会長を務めていただいた池尻正勝さんの呼びかけで現在の城跡公園、市民グランドで「ふるさと意識の高揚」をスローガンに、高槻市内にある各企業、各団体、商工会議所、観光協会、行政、警察署などが中心となって3日間(第1回から第5回まで)開催されていました。その後、第2回から第6回までは、当時の高槻市長の吉田得三さんが会長を務めていただきました。昭和47年(第3回)までは「えじゃないか高槻まつり」として音頭も当時の新人演歌歌手、島倉千代子さんが歌っていましたが、「えじゃないか、えじゃないか」のお囃子言葉が「土一揆の時に使われた言葉なので具合が悪い」ということになって、昭和48年(第四回)から曲と歌詞をかえて、今の「町は白壁、城下のかおりそこにわかさの生きる町」の高槻音頭に変わりました。昭和50年(第6回)になると、厳しい経済事情から開催自体が危ぶまれましたが「こどもに良い思い出を」などの意見があってこの年から2日間の開催になりました。昭和54年(第10回)には名称を「えじゃないか高槻まつり」から「高槻まつり」に変え、平成元年(第20回)には「市民フェスタ高槻まつり」へと変えられました。
その間、高槻市の町も変貌を遂げていきます。昭和45年に高槻市庁舎が現在の桃園町に移転し、JR高槻駅(当時は国鉄)の南側の再開発がスタートします。昭和49年にはJR高槻駅(当時は国鉄)の北側に「西武百貨店」がオープンし、昭和54年には南側に「松坂屋高槻店」「グリーンプラザ1号館3号館」がオープンしました。また、昭和53年(1978年)から平成5年(1993年)にかけて阪急高槻市駅の周辺の連続高架事業が進められ、みずき通りが完成し、同時にけやき通りの4車線拡幅工事も完成します。
当時の江村利雄市長が、高槻市制50周年(1993年)を期に「年に一度はこの広くなったけやき通りでまつりをやろう」と提唱されて、当時の古川明会長のもと平成5年(第24回)から、現在の新しい会場で開催されました。この時は、けやき通り、みずき通りが車の通行止めになって、タクシーもバスもストップしたので自治会や商店、周辺の皆さんのご協力を仰ぎました。平成9年(第28回)から桃園小学校グランドを会場に加えました。そして、平成11年(第30回)には桃園小学校のグランド内にメインステージを設営し、余裕をもって演技を披露できるようにしました。また、この年から新しい踊りとして「高槻ウエーブ」創設しました。
JR高槻駅の北部の再開発事業も進み、アクトアモーレとツインタワーマンションが平成16年に完成し、その後関西大学、高槻病院の建替え、ジオタワー等の建設が完成しました。そして近年では、高槻インターチェンジの開設(新名神)JR高槻駅の新快速ホームの建設と続いてきました。
平成23年(第42回)(2011年)、東日本大震災の年には「被災地に元気を送ろう」をテーマに取り組みました。陸前高田市長をお招きし被災地の生のお話を伺いました。平成24年(第43回)には、陸前高田市の氷上太鼓のメンバーに高槻まつりの会場で演奏をしていただきました。
以来、毎年15万人以上の来場者を迎えています。半世紀の間、高槻まつりを続けられてきましたことは、まつりに参加していただいたみなさん、協賛していただいた企業のみなさん、まつりを支えていただいたみなさん、そして、会場周辺のみなさんのご協力の賜物です。 今回は、50回記念として、昨年できなかったオリエンタルランドのディズニーパレードを8月3日(土)の5時から5時30分ごろにけやき通りで開催します。6時10分からは「高槻音頭の総踊り」、7時30分ごろには「阿波踊りの達粋連」と続きます。8月4日(日)には「ちびっ子みこし」「パレード」「高槻ウエーブ」と続きます。
この夏の2日間を高槻まつりに集っていただき、「ふるさとたかつき」を楽しんでいただきたいと思います。
高槻まつり振興会会長中川修一
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平成最後の選挙

2019-04-11 22:39:11 | Weblog
4月1日に新元号「令和」が発表されました。いよいよ平成の時代もあと19日を残すばかりになりました。巷では大阪府知事選挙、府議会選挙、大阪市長選挙、大阪市議選挙が行われました。結果はご存じのように維新の圧勝となりました。これから、高槻市議会選挙が14日の告示で21日投票で始まります。45人の立候補で34人が当選する過酷な選挙が始まります。多くの方が高槻市へのそれぞれの思いを訴えられます。
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「大塚切れから100年」の講演を聞いて提言

2017-11-27 23:52:37 | Weblog
提言、「大塚切れから100年」で市長の講演を聞かせていただいて、芥川はいまだに氾濫可能性の非常に高い河川であることが分かりました。淀川の安全性は、瀬田の洗堰の整備、桂川水系のダムの整備、木津川水系のダムの整備等で安全性は高まりました。しかし、現状でも淀川が12000m3/秒の水が流れるとき、淀川の水位は高まるので、芥川の排水能力は悪くなってしまい、ひいては、芥川に越水が起こり破堤の危険性が高まります。それではどこが一番危ないかというと、過去に破堤したところとなります。淀川の水位が高くなることによって相対的に芥川の水位が低くなって、逆流してくる可能性があります。そうなると最後は津之江公園のダム効果がどこまで持つかとなります。その時は芥川も1500m3/秒くらいの水が流れ込んでいるはずなので、如是川と合わせて、2000m3/秒のダム効果が必要になります。津之江公園が500mx500mx高さ5mとして1250000m3のダム効果ですので、逆流が始まれば15分で満水になります。すると芥川大橋のあたりで越流が起こり、破堤が始まります。安威川ダムが完成すれば、安威川水系で余裕が生まれますので、淀川から神崎川へ放水ができると思いますが限界があります。この状況を時間的に余力を持たせるためには、芥川上流からの水をコントロールするしかありません。芥川にもダムが必要という結論になります。原から樫田にかけての渓谷に安威川ダムの3分の一ぐらいのダムを作れば、4000万m3くらいの保水力があれば大丈夫だと思います。そうすれば環境的には常時2m3/秒から5m3/秒の水量が芥川に流れることになり、農業用水はもちろん河川環境はグッと改善されることになります。

防災は費用対効果の結果です。一度氾濫すれば大きな損害が出ますが、それを防ぐために先行して投資することは有効な保険効果が出ます。芥川にダムを作りましょう。

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高槻市制75周年記念講演会企画書

2017-11-11 00:40:14 | Weblog
高槻市制75周年記念講演会企画書       

*目的 高槻市制75周年を記念して「高槻市制75年のあゆみ」を市民と共に振り返り、先人の知恵に学び、さらなる市政発展に寄与する。

高槻市75年のあゆみ
1、 発展の基礎づくりの時代 ~昭和18年から昭和30年代~
  田園風景の広がるのどかな町から、工場の誘致や市営バスの開業などの基礎づくりの時代。初代市長磯村弥右衛門、二代中井啓吉、三代古田誠一郎、四代坂上安太郎、五代鈴木定次郎の時代
2、 人口急増期 都市基盤の整備進む ~昭和40年から昭和50年代~
昭和40年代は人口急増し昭和44年に20万人を突破し昭和48年には30万人を突破した。10年間で小学校17校、中学校7校を建設。昭和45年には市役所庁舎を建設した。昭和50年代には高槻駅の橋上化した。北に西武百貨店、南に松坂屋が開店した。六代吉田得三、7代西島文年の時代
3、 ゆとりと潤いのある都市へ ~昭和60年から平成14年~
  下水道整備を重点施策に、阪急高架事業推進、昭和61年には陸上競技場の完成、平成4年に文化ホール完成、高槻シティマラソン開催、総合センター完成。
八代江村利雄の時代。
4、 安心・安全のまちづくり ~平成15年から平成24年~
府内2番目の中核市へ移行。市民生活に密着した分野の事務権限を持ち主体的なまちづくりが可能になった。安心安全のまちづくりを進めた。平成22年に古曾部防災公園を開設。高機能消防指令センターが稼働した。九代奥本務の時代。
5、 さらなる市政の発展へ前進 ~平成25年以降~
  新名神高速道路高槻ジャンクション、高槻インターの完成稼働。安満遺跡公園の整備。
  どっちも高槻キャンペーンと共に、魅力ある市政のの推進。十代濱田剛史の時代。

*運営 高槻市制75年を振り返りながら、高槻市を創ってこられた先人たちの功績を検証しその歴史的な意味を学び、高槻市が持っている、未来に向けての発展の可能性を見出し、ふるさと高槻市の輝かしい未来を考える場にする。市民委員による実行委員会を設置し、講師の選定、運営の方法を研究し、平成30年度の開催を目指すものとする。


まだ、企画書の段階なので、いろいろご意見をください。
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大塚切れ100年シンポジュウムの感想

2017-10-02 04:34:15 | Weblog
大塚切れ100年シンポジュウムが文化ホールの中ホールでありました。濱田市長の直々の講演で治水の大切さを教えていただきました。近畿河川整備局の局長の出席もあり、本格的な催しでした。雨が何百ミリも降り続けると河川が氾濫して洪水が起こるという話でした。平成25年の台風で淀川が満水になった話も最近の水害の例として話されていました。2100年には最高気温が40度を超えていくという地球温暖化の話も面白おかしく話されていて、たいそう驚かせられました。確かに水害に備えることはたいへん大事な事柄です。しかし、まずは現状を正しく把握するための河川の関連情報が大切です。どのくらい雨が降ると河川が氾濫するのか、を知りたいのです。「流域面積と河川の排水能力」が重要なんですが、実はそこまでのお話はなかったように思います。一般的には複雑で煩雑な計算がいるので説明を省かれたのだと思います。なぜ、大塚切れの前に、芥川が先に切れたのか。河川の氾濫は中小河川が先に破堤することが多いです。それは河川の、降った雨を排水する能力が小さいからです。より大きな川が増水していて、行く手を遮ってしまうのです。淀川事態も大阪湾の水位によって、河川の排水能力は変化します。満潮の時は、水位が高いために排水能力が低くなり、ひいては河口で水滞留していき河川の水位が上がります。そしてそこに流れ込む中小河川の排水能力が低下し、中小河川の合流部の水位が高くなり越流し破堤していくのです。平成25年の渡月橋付近の越流は三河川合流部付近の流速の低下もその原因の一つだと推測します。その時は、天ケ瀬ダムの放流制限と瀬田の堰の閉鎖で宇治川水系からの水量がコントロールされたので破堤まで行かなかったのです。淀川水系は、流域面積約8200km2で近畿圏で最大です。幸い琵琶湖があるので水には恵まれていますが、洪水には一体となって運用されなければ、その治水能力は発揮されません。淀川の排水能力は、昭和46年の治水計画の見直しにより毎秒12000トンに設定され、順次整備されています。それまでは毎秒6900トンでしたので、ハード面はそれなりに努力されていると思います。桂川4000トン、宇治川4000トン、木津川4000トンの設定のようですが、それぞれに中小河川があります。その上流には小さな砂防ダムや大きなダムを設置して河川に流入量をコントロールされています。今日の講演会ではこのあたりの話が不足していたように感じました。一時間100ミリの雨でも、それが河川に排水できていれば安全なのですが、排水できなければ、氾濫します。街中の下水管や雨水管の整備増強が小さな内水反乱を防ぎます。下水に油を流さないことも治水の始まりなのです。
感想です。備えよ常に。
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昭和32年頃らしい写真(年代不明)

2017-05-29 18:40:50 | Weblog

高槻市の昭和32年の写真ということですが、もう少し古いのではないかと思いますが、はっきりとは言えません。下の線は国道170号線です。まだ二車線で車はすごく少ないようです。この写真に写っているのはよくわかりません。左の斜めの道は八幡町から春日町へ向かう道です。磯村弥右衛門さんの家が見えます。カラーでないのでよくわかりませんが、きれいな田んぼが続いています。島上高校、市民グランド、第一中学校が見えます。170号線沿いの校舎は高槻中学です。
おお田園の高槻市の時代です。これで60年前です。人口8万人くらいかな。自動車教習所も大阪瓦斯もましてや、マンダイはありません。高槻市は大いなる田舎だったのです。
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昭和16年頃の新京町商店街

2017-05-29 18:19:33 | Weblog
昭和16年頃の写真です。新京町商店街を大阪医大の生徒が文化祭の催しで闊歩しています。ちょうど弊社の前で写真を撮られています。店頭に立っているのは、若き日の父、中川市太郎と思われます。弱冠26歳で開店間もないころのようです。右隣は「いばらきや鞄店」「いばらきや靴店」のようです。今から、77年前です。ついこの間です。
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京阪バスの乗り場が新しくなりました

2016-12-01 17:41:23 | Weblog


JR高槻駅の南口のバス停が屋根がついて新しくなりました。そこにあった京阪バスの看板です。いすずのボンネットバスがかわいく描かれています。こんなバスが、新京町商店街(高槻センター街)を走っていた記憶があります。昭和30年代後半の話です。
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「あれから50年」高槻市立第一中学校18期生同窓会

2016-10-11 23:26:15 | Weblog
10月2日に、同級生71名と好田先生の参加を得て、盛大に開催することができました。一部はクラス別のテーブルで会食と会話を楽しみました。二部では二年生時のクラス別に分かれて、コーヒーとケーキで楽しい時を過ごしました。50年の時を隔てて、会話の中身も、健康の話であったり、孫の話であったり、介護の話であったりと、仕事の話は少なかったりと変わってきていました。同じ時代を生きている仲間としての連帯感をあらためて確認しました。来れなかった仲間が2名ほどおられたのですが、会計は1万円ほど余剰が出ましたので、これは、次回の案内状の費用に当てさせていただきます。
幹事のみなさんお疲れ様でした。10月23日6時より、反省会並びに慰労会を開催したします。場所は未定です。なお、今回幹事をされていなくても時間の会う方は来ていただいて結構です。さてさて、終わってみると積もる話がまたまた増えたように思います。みなさんありがとうございました。

記事が前後しましたごめんなさい。

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摂津峡キャンプ場デイキャンプ

2016-10-11 23:05:52 | Weblog
「摂津峡キャンプ場で松茸がり」というテーマでデイキャンプをしました。10時に集合して、先ず場内の散策。バーベキューの準備をしながらお昼時間になるのを待ちます。飯盒で4号のご飯とお湯を沸かし、バーベキュー用の炭に火を付けます。食材は昨日、買い集めたお肉と野菜です。10人の大人と3歳の子が一人。全員が元キャンプ場の関係者で30年ぶりの摂津峡です。森の木々は、はるかに大きくなっていて、まったく違う森の様子です。足元には熊笹はほとんど見当たりません。クヌギやコナラは10m以上に高くなっています。そして楢枯れの処分でコナラは大半が切られてい7、8段に積み上げられています。手入れのしない森は人を寄せ付けなくなっています。食事の後、一本の枯れた松を切りました。直径20cm位の松でしたがそれでも年輪は40年くらいありました。
 ようやく秋がやってきました。摂津峡のキャンプ場は私たちともう一組の家族だけです。森の中には、クヌギのどんぐりがたくさん落ちています。とても拾いきれません。森の中は、背の高い木も低い木もどこもいっぱいで迷路のようです。ここは、典型的な里山です。スギやヒノキの植林はほとんどありませんが、最近まで(50年くらい前の話)生活用の薪をとっていたのだと思います。今日のキャンプ場はとても静かでした。30年以上の前に、過ごした「夏の暑いいそがしいかったキャンプ」のことなんかを話をしながら一日を過ごしました。キャンプ場の坂は、かなり足にきます。明日はきっと筋肉痛だと思います。四時過ぎにかたづけて帰りました。キャンプファイヤーは街中で居酒屋ですることにしました。参加していただいたみなさんありがとうございました。またいつかやりましょう。今度は真冬にたき火を囲みながらやりましょう。
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