修一のよもやまばなし

高槻ライオンズクラブの元会長で元335B6R1ZCP(2009ー2010)中川修一が毎日のできごとと思いを綴るブログ

高槻の中心地の歴史2シティライフ1月号の記事を転記しました

2015-12-26 18:34:44 | Weblog
現在、そして未来にもつながる過去の情報を取材、編集し、記録する特集です。北摂の歴史から、私たちの住むまちの魅力を学び知る機会になればと思います。第十回は、高槻市の駅周辺の変化について、中川修一さんにお話をお聞きしました。シティライフ アーカイブズ検索


明治維新(1868 年)後の高槻町(後の高槻市)は戸数わずか7 百、人口3千の小さな町だった。住民の半数は農家で、数少ない商人も商売だけでは生活が成り立たず、半農半商が多かったようだ。1928年になると、高槻の中央部に現在の阪急電車の前身である京阪電気軌道の「新京阪線」が開通する。1月に高槻天六間、11月には京都まで全通。これをきっかけに住宅地の開発が始まって人口が増え、1929年には駅を結ぶ「新京町通り」に商店がぽつぽつと並び始めた。とはいえ、このころはまだ店の数が少なく、商店街といえるものではなかったという。中川さんは、「大阪から商売人が進出して高槻市場を
開いたんです。それで、周辺にどんどん商店が増え始めました」と話す。1931年には、高槻町や芥川町を始めとする5つの町村が合併、人口は2万人まで増加する。さらに、急行電車も停車するようになり、こうした時代背景とともに、後の高槻センター街である「新京町商店街」が繁栄していった

当初、高槻市役所や警察署など行政の中心はJRの駅前にあった。しかし、中心地を活性化させるため駅前への百貨店の誘致が始まり、1971年に市役所は現在の桃園町に移設。JR高槻駅の北側には、
1973年に西武百貨店がオープンの予定だったが開店の4日前にかさいが発生し1年開店が遅れた。そのころには、高槻センター街では屋根つきのアーケードが完成していた。また、高槻市の人口は、この年に30万人を超えた。そして遅れること5年、19 79年にJR高槻駅の南側に松坂屋がオープンした。
 
元々けやき通りは狭い道で、市役所からセンター街まではバスも通れないほどだった。またみずき通りは、線路沿いに民家や商店が並んでいるだけの道だったという。しかし、1980年から約10 年かけて阪急電車が高架化。これに伴い、センター街を短くしてけやき通りを広げるとともに、みずき通りも完成した。みずき通りは元々住宅が立ち並んでいて、道がなかった。高架工事をするために新たに道を作り線路を移設し、高架工事を完成そのあとみずき通りにしたという。近くに店を構えていた中川さんは、「市バスの停留所が国道沿いに行ったので、10年間は売り上げが10 パーセント落ちたのでよく覚えているんです(笑)」と話す。。高架工事は、線路を一時みずき通りに移設し電車を走らせるなど、かなり大掛かりだったそうだ。

1973年(昭和48 年)ごろの高槻地区商店街(現高槻センター街)。この頃、すでに商店街の雰囲気は現在と同じような印象。
(上)新京町商店街の風景1963年
(昭和38年)ごろ。(左)高槻センター街から発行された「写真で綴る 高槻センター街50年史」。1979年9月発行。

昭和2年頃の中心街のマップ。中川さんの父親、故中川市太郎(元高槻センター街理事長)さんの手書きのマップもとに作成。
高槻市の人口は、昭和30年代に10万人を超え、昭和44年に20万人、昭和48年に30万人に達する。昭和40年代は1年で2万人増のペースで、学校が足りないなどインフラが追いつかないほど急激に人口が増えた。

国鉄高槻駅(現JR高槻駅)の周辺は田んぼに囲まれていた。
この道は西国街道と高槻城下を結び檜尾川まで続く幹線道路だった。
新京町通が後に「高槻センター街」となる。
明治9年に「国鉄高槻駅」として開業。高槻城の石垣を切り崩して、鉄道建設に石材が流用された。
1928年(昭和3年)新京阪鉄道(現阪急電鉄)「高槻町駅」として開業。1943年(昭和18年)に「高槻市駅」改称。
1963年(昭和38年)、国鉄高槻駅北口、市営バスのりば。
1954年(昭和29年)2月24日、市営バス開業式の日の花バス。
1979年(昭和54 年)7月1日、グリーンプラザたかつき1・3号館オープン。


昭和50年代の写真。西武百貨店の向かいにアクトアモーレがつくられる。
1970年(昭和45年)に第1回高槻まつりが行われた。高槻市の人口が急激に増加したため、新市民と旧市民の心の調和をとるため、また「ふるさとづくり」を目指して始まった。
1954年当時、狭いセンター街を市バスと京阪バスが走っていた。この危険な状況は何年も続いたが、やがて商店街の店主たちがアーケードの建設や安全性を求めて立ち上がる。赤いハチマキを巻き、「安心してお買い物できる商店街にしよう」とプラカードを掲げデモ行進を決行。1970年にようやく全面通行禁止になった。

1973年(昭和48年)ごろ、建設中
1960年代、デモ行進のようす。 高槻センター街を走り抜けるバス の西武百貨店(火災後)。
1958年(昭和33年)、JR駅前にあった旧市庁舎。
1965年(昭和40年)ごろの阪急高槻市駅西側踏切(新京町商店街)。

昭和25年11月6日、新京町商店
街で生まれる。㈱丸公代表取締
役、高槻まつり会長、たかつき中通
り本通り商店街会長、わくわく探検隊顧問
歴史案内人

取材を終えて
 高槻市の中心部は、JR高槻駅と阪急高槻市駅の両駅を中心に広がる商店街や百貨店、医療機関、大学、また最近では住居系マンションの建設が進むなど、北摂でも指折りの元気な中心市街地ではないでしょうか。この取材を通じ、駅前商店街の発展には、大胆な区画整理などのインフラ整備の重要性を感じこることができました。  編集部 尾浴 芳久
シティライフは今年で30年目を迎えます
 
元々けやき通りは狭い道で、市役所からセンター街まではバスも通れないほどだった。またみずき通りは、線路沿いに民家や商店が並んでいるだけの道だったという。しかし、1980年から約10 年かけて阪急電車が高架化。これに伴い、センター街を短くしてけやき通りを広げるとともに、みずき通りも完成した。みずき通りは元々住宅が立ち並んでいて、道がなかった。高架工事をするために新たに道を作り線路を
 
芥川商店街とJRで囲まれた三角地帯は、長い間大きな商業施設がなく、木造住宅が密集していた。そこへ、JR駅前を高槻の玄関先にしようと地元住民から声が上がり、再開発事業がスタートする。2002年からロータリーには2階建ての仮設店舗が建設され、入居した店舗の売上げは5倍ほどに上がったそうだ。地元も潤ったことから、地域も納得した上で開発が進み、2006年アクトアモーレが華々しくオープンし1987年(昭和62年)、阪急高架事業の工事中のようす。たのだった。

今後の高槻について、中川さんはこう話す。「50年先の町や人口、職業がどう変化しているのか、全く想像もつきません。ただ、子ども達を地域で育てていくために、これまで商店街の役割だったコミュニケーションをどう担うかが、今後のまちづくりのキーになるのではないでしょうか」。

取材協力 中川修一さん



旧町村 世帯数 男女計
高 槻 1,263 5,535
芥 川 1,050 5,233
清 水 714 3,484
磐 手 643 2,934
大 冠 590 2,919
合 計 4,260 20,095


1969年 人口20万人 学校建設ラッシュ
1970年 万博、高槻まつり
1971年 高槻市役所移転
1973年 西武百貨店火事、 センター街アーケード完成 人口30万人
1979年 松坂屋、グリーンプラザ完成、 阪急高架着工
1992年 けやき通り完成、みづき通り完成
2006年 アクトアモーレ完成



写真出典:
「写真で綴る 高槻センター街
50
年史」(一部)
親京阪の開通1928年(昭和3年)
2014.0 City Life KOBE 00

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高槻の中心地の歴史

2015-12-26 18:00:25 | Weblog
シティライフ1月号の紙面に高槻の中心市街地の歴史を特集していただきました。私の記憶と古い資料から、明治9年高槻駅開業、昭和3年新京阪高槻駅駅の開業。そのあとその二つの駅を結ぶようにして高槻の中心部造られていった。高槻市役所の現在地への移動を皮切りに、西武百貨店の登場、マツサカヤの登場、阪急高架事業の完成、アクトアモーレの完成。次々と新しい事業が動き出していきました。さてこれからの50年はどうなんでしょう。北は、上宮天満宮、から南は現代劇場にいたる中心市街地が高槻の豊かさを発信しています。中心市街地がはっきりとある。このことがよさだと思います。


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