20回記念大会ですので、記念誌を作りました。20回の歴史が一冊の冊子にまとめることが出来ました。この二十回を支えていただきました皆さんに是非読んでいただきたいと思います。その62ページに第一回のときに市長をしていただいていた江村利雄さんのメッセージが乗っています。その全文をを転記します。
私が府から市に来る時、先輩から「お前は住民が年間2~3割転入転出し「へそ」のないところに行くんだから、何か「へそ」を造れ」と言われた。幸い建設省、府警にも何人かの知人もいたので、これらの人、また市の幹部とも相談し「へそ」造りに邁進した。出てきた一つにマラソンがあった。住民が一致して出来るのではないか、スタートの一発もやってみたい。知人友人に助けられ、この事業が20周年を迎える。感無量である。お世話になった諸兄に心よりお礼申し上げます。
元市長江村利雄
そして次のページに元常任委員の塚本忠雄さんのコメントが載っている。これも、転載します。
このマラソンも、古川明という。常にあたらしい事(物ではなく)を求めている熱き男が居たから成功したのだと思う。氏は来年度高槻ライオンズクラブの会長に決まっていた。「俺な、目玉にマラソンやろかとおもてんねん」で始まった。「おまえらがやれや」と突然言われ、何と思いつつ断れなかった、10名程のメンバーで構成されたのは市制50周年の前年で、そのプレイベントとしてスタートした。何からやってよいのやら?資料集め・資金集め・ボランティアスタッフ集め・コースの吟味等、仕事そこのけで皆走り回った。今振り返ると実に楽しかった。もうひとりの決断をした男は石垣一夫である。「阪神淡路大震災」第3回マラソンを5日後に控えていた。各地でイベントは勿論自粛ムードいっぱいで、実行委員会でも当然意見は分かれた。そのとき「阪神淡路大震災復興マラソン」としてやろうという氏の一言で決まった。リーダーがしっかりしておれば人は動くことを思い知らされた。初回から11回まで実行委員の一人として務めさせていただいたことに感謝しています。
元当委員会常任委員 塚本忠雄
もう一回目の準備の日々からは22年が経っています(1994年が一年開催がありません)が昨日のことのように楽しかった準備の期間を思い出します。「古川さん、そんなことは出来るはずないからやめときましょう」と言いつつ最初の年は仕事をほって100日は奔走しました。最初の16キロマラソンの江村市長のスタートの号砲を覚えています。ちなみに次の10キロマラソンの号砲は河上敬一体育協会会長で不発でやり直しスタートをしました。
そのときから全市の団体のサポートを受けて実施しています。今回の成功の95パーセントはこのときに決まっていました。今回は8300人に上る申し込みありがとうございました。
なお記念誌は残りがありますので希望の方は、事務局までご来場ください。高槻市民会館の南会議室にあります。
私が府から市に来る時、先輩から「お前は住民が年間2~3割転入転出し「へそ」のないところに行くんだから、何か「へそ」を造れ」と言われた。幸い建設省、府警にも何人かの知人もいたので、これらの人、また市の幹部とも相談し「へそ」造りに邁進した。出てきた一つにマラソンがあった。住民が一致して出来るのではないか、スタートの一発もやってみたい。知人友人に助けられ、この事業が20周年を迎える。感無量である。お世話になった諸兄に心よりお礼申し上げます。
元市長江村利雄
そして次のページに元常任委員の塚本忠雄さんのコメントが載っている。これも、転載します。
このマラソンも、古川明という。常にあたらしい事(物ではなく)を求めている熱き男が居たから成功したのだと思う。氏は来年度高槻ライオンズクラブの会長に決まっていた。「俺な、目玉にマラソンやろかとおもてんねん」で始まった。「おまえらがやれや」と突然言われ、何と思いつつ断れなかった、10名程のメンバーで構成されたのは市制50周年の前年で、そのプレイベントとしてスタートした。何からやってよいのやら?資料集め・資金集め・ボランティアスタッフ集め・コースの吟味等、仕事そこのけで皆走り回った。今振り返ると実に楽しかった。もうひとりの決断をした男は石垣一夫である。「阪神淡路大震災」第3回マラソンを5日後に控えていた。各地でイベントは勿論自粛ムードいっぱいで、実行委員会でも当然意見は分かれた。そのとき「阪神淡路大震災復興マラソン」としてやろうという氏の一言で決まった。リーダーがしっかりしておれば人は動くことを思い知らされた。初回から11回まで実行委員の一人として務めさせていただいたことに感謝しています。
元当委員会常任委員 塚本忠雄
もう一回目の準備の日々からは22年が経っています(1994年が一年開催がありません)が昨日のことのように楽しかった準備の期間を思い出します。「古川さん、そんなことは出来るはずないからやめときましょう」と言いつつ最初の年は仕事をほって100日は奔走しました。最初の16キロマラソンの江村市長のスタートの号砲を覚えています。ちなみに次の10キロマラソンの号砲は河上敬一体育協会会長で不発でやり直しスタートをしました。
そのときから全市の団体のサポートを受けて実施しています。今回の成功の95パーセントはこのときに決まっていました。今回は8300人に上る申し込みありがとうございました。
なお記念誌は残りがありますので希望の方は、事務局までご来場ください。高槻市民会館の南会議室にあります。