修一のよもやまばなし

高槻ライオンズクラブの元会長で元335B6R1ZCP(2009ー2010)中川修一が毎日のできごとと思いを綴るブログ

白秋祭「柳川堀物語」を見て

2015-11-04 00:45:15 | Weblog
原公民館で開催されました、白秋祭に、参加致しました。北原白秋にちなんだイベントで、原の里山づくり実行委員会(石田和義会長)の主催で行われました。柳川堀物語は、治水の大切さを知ることができてよかったです。堀割の水郷として有名な柳川の有り様が地域の自治体と住民の働きで美しさを維持されているという話でした。有明海の自然と調和した治水の方法として、新田開発と合わせて編み出された先人の知恵があの美しい水郷を作ってきたということでした。
 わたしは、昨年「淀川河川レンジャー」の講習会に参加して、淀川水系の概要について、学びました。芥川についてもそれなりに知識はあるのですが、あらためて、河川管理の歴史性を知りました。有明海という特殊な環境の中で、編み出された、水の管理の方法だと理解できました。芥川には、芥川の河川管理の方法があるのだと思います。今日の会場の原も、江戸時代の末期に水害が起こっています。浄圓寺が原盆地の西の山裾にありますが、水害の後、高台に引っ越されて今の場所にお寺ができたそうです。西之川原付近の芥川は今よりも東を流れていました。だから、西之川原という地名になっています。淀川の番田付近から、三箇牧にかけては、何度も破堤されているようです。淀川の堤防は今よりも5mから8m低かったそうです。JRの鉄橋は明治10年ごろに完成していますが、高槻城の城壁の石が使われています。(北側の二本の線路分)ということは、芥川のJR付近の様子は当時のままと言えるのではないかと思います。今、芥川では「あゆの遡上」を摂津峡までということで淀川から上流の堰を順次、改修されています。たくさんの堰があることを学びました。芥川の過去の破堤は下流の淀川との合流地点で起こっています。それは、淀川の水が芥川を逆流して、というか、淀川の水位が高くなりすぎて、芥川の水が淀川に排水されなくて、合流地点で、越流が起こり堤防の外側から破堤したということです。戦後すぐに、下流で破堤したそうですが、一番新しいのは昭和42年6月末に、如是川が如是小学校の100M位上流で決壊しています。この時は芝生の芥川大橋の上流の芥川と如是川との合流地点で芥川の水量に押されて如是川の水が流れずに、越流が起こり破堤に繋がっています。そのあと津之江公園の周りに有った堤防を撤去して、津之江公園全体を遊水池に作り替えられました。今から25くらい前の話です。津之江公園の広さを計算していませんが、野球場が二面くらいとれそうですので30000m2以上あると思います。仮に堤防の高さを5mとすると150000m3の水を貯められます。これとても芥川の流水量にすれば一瞬の量です。淀川の最大流量は、毎秒12000m3の排水量で設計されているそうですが、これも大阪湾の満潮時では、思うに任せられないと思います。淀川が満水になると芥川の水が排水されなくなり、越流が起こります。芥川が満水になれば如是川が越流します。そうして考えると、芥川で一番危険な場所はやはり、淀川との合流地点ということになります。
先日、ある会合で、芥川の浚渫の話が出ていました。JRの鉄橋付近に溜まっているいる土砂を浚渫してほしい旨の話だったと思いますが、ここは危険水位越えの大雨が降るとすぐに土砂が堆積する場所です。でJR鉄橋すぐ下流の(清水池公民館の少し上流)に堰があって、この堰で流水スピードが下がっています。それで土砂が溜まるのです。しかしながら、大量の雨が降るときは、一度に下流まで土砂を運んでしまうので土砂が溜まらないのです。土砂が溜まるという意味では、津之江公園の山になっている土砂を撤去する方がはるかに芥川の安全度は上がります。


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