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気ままに

大船での気ままな生活日誌

東御苑 梅林坂

2011-02-21 18:58:48 | Weblog

ぼくの母さんはえらいと思う。呼吸困難で救急車で運ばれるとき、救急員の方に、意識の程度を知るためか、”今日は何日ですか”と質問された時に、4月〇日です、と正確に答えた。ぼくは、今、呼吸困難でもなんでもないのに、今日、何日かすぐ答えられないし、これから書こうと思っている、あの東御苑の梅林坂に行った日も昨日ではなかったくらいしか、記憶がない(汗)。パソコンのピクチャー欄を開けて、その日が2月19日であることを知った。そうだ、あの日は、ワイフと歌舞伎座前の焼肉の天壇で食事をして、近くの岩手県アンテナショップで、ひと月前にここで買った、わかめがなくなったので、二袋買った。そして、出光美術館で、琳派の後期展、酒井抱一を観て、そして東御苑に向ったのだ。いったん、記憶の部屋の扉が開けば、こうして次々と記憶がよみがえってくるから、まだ完全なぼけではなさそうだ。

東御苑の梅林が、そろそろいいはずだ、とワイフが言うので、行ってみた。あそこは無料で、入れるし、見どころも多いので、外人さんもよくみかける。その日も、結構いた。三の丸尚蔵館では”外国からのごあいさつ”展をやっていた。国賓の方がおみやげにもってこられた品物を展示しているのだ。ぼくらの手みやげと違って、宝物のようなものばかりだった。目の保養になった。

そして、平河門近くの梅林坂へ。ここには、坂の登り口と坂の両側に白梅、紅梅が、たくさんある。場所が場所だけあって高貴な梅だ。香りもゆかしい。大船の梅とは違う。
では、優雅な東御苑、梅林坂の見頃になった梅をご紹介いたします。

 

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高峰秀子さんの二十四の瞳

2011-02-21 11:30:41 | Weblog

先日、鎌倉市川喜多記念館で高峰秀子さん追悼”二十四の瞳”を観て来た。1954年作だから、封切りではみていないと思うけど、映画館やテレビで何度かみている。映画のロケ地となった小豆島の小学校も、見学したことがある。今回、久しぶりに、デジタルリマスター版のきれいな画像の”二十四の瞳”をみて、改めて、いい映画だなと思った。

12人の小学校の分校に入学したばかりの子供たちの顔が、それぞれ個性的で可愛いこと。その子供たちがいたずらをして大石先生(高峰秀子)に怪我をさせてしまう。子供たちが、長い道のりを疲れて泣きながら、治療中の大石先生(高峰秀子)を見舞に行く途中で、病院帰りのバスに乗った先生に出会う。泣きじゃくる子供たち。その後、先生は本校勤務となり、子供たちと別れるが、また高学年になってから本校で再会する。子供たちは、本当にそのまま成長したような似た顔の子役が出てきてほほえましい。先生は戦時教育に疑問をもち、生徒たちが卒業した時点で、教職を辞する。時がたち、子供たちが戦地に赴くようになり、涙で送る。教え子たちの多くは戦死し、先生の夫も戦地で亡くなる。そして、戦後、大石先生は再び教壇に立つ。そこには、かっての教え子たちの子供が入学していた。大石先生は一人ひとり、顔をみつめながら、涙ながらに出席をとる。”泣きみそ先生”とあだながついた。そして映画の終盤に、教え子たちによる歓迎会が開かれる。男子はふたりしか生き残っていなかった。その一人は失明している。女子も様々な人生を歩いてきた。小学校時代の写真が飾られている。盲目になった男性が、ここに先生、その隣りが誰それ、と指をさしていく。はじめ賑やかにしていた皆も、胸がいっぱいになり、しんみりしてしまう。女性のひとりが廊下に出て、子供のとき唄った”浜辺の歌”を歌い始める。それぞれの歳月を想い、大石先生の目がうるむ。”仰げば尊し”のバックミュージックで映画は閉じる。すばらしい脚本だと思う。

これは音楽映画だと思う程、始終、音楽が流れていた。”七つの子”はたびたび流れていたし、前述の二曲や、”蛍の光”、”アニーローリー”などもあった。以前、感じなかったことだ。それと、白黒映像だが、まるで墨絵のようなうつくしい映像がいくつもみられた。大きな田園風景の中の子供たちの行列や野辺の送り、など詩情溢れる映像であった。これもあらたに気づいたことだ。さすが、木下恵介監督だと思った。

また、さすが高峰秀子さん、名女優だなと思った。早々と引退して、名エッセイストに。彼女の著書”私の梅原龍三郎”  の中から、梅原龍三郎作、高峰秀子さん像をふたつほど。(拡大できます)

最近、パソコンの調子が悪いので、もし、記事が出なくなったら、そのせいです。ご心配なく。誰も心配してないって?

 

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JAZZ IN 鎌倉 & 真央ちゃん

2011-02-20 21:44:19 | Weblog

近くの鎌倉芸術館で”JAZZ IN 鎌倉”が昨日、今日と2日間、開催されている。今年で、もう14回目になるという。開演5分前に着いたら、600名定員の小ホールがほぼ満員。うしろにひとつ席が開いていたので、座ってみる(きく)ことができた。そのあと、すぐ満席になり、最初のバンドの演奏が終わる頃には、立ち見でいっぱいだった。

アマチュアバンドだが、あなどれない。十分楽しませてもらった。ぼくはそんなに詳しくないので、知らない曲もだいぶあったが、音楽は別に知識で聞くわけではないから、問題ない。20名近い、ジャズオーケストラの演奏から、5,6人の小規模のバンド、また、ピアノとドラムだけで、ボーカル主体のもあった。

あるバンドが、みなさんに”ほっとするバンド”と評価されているんです、と自己紹介していたが、確かにそうだった。”赤い靴”をスイング風にアレンジしたものとか、ぼくの好きな西田佐知子の”コーヒールンバ”まで演奏してくれた。一方、初参加というジャズオーケストラは、まるでベートーベンのような力強い演奏だった。カウントベイシーのライブオンリーです、と紹介していた。また、別のバンドは、100年前の曲とかのディキシーランド・ジャズ専門のバンドもあった。大船のお店にいつもいます、という3人のバンドの女性ボーカルの方は、透き通るようなとてもいい歌声だった。

来年は15周年記念で、有名人を呼んで、大ホールで盛大にやる予定らしい。少しでも応援をと寄付金をおいてきた。来年も見逃さないようにしよう。

帰ってからは、真央ちゃんの、フィギュア4大陸選手権を観た。フリーでは最初のトリプルアクセルをばっちり決め、その後も、見た目にはノーミスで、逆転優勝かと思ったが、ちょっと辛い点数が出て、安藤選手には及ばなかった。でも、これで、完全復活といってもいいだろう。3月の世界選手権が楽しみだ。関係ないけど、解説の荒川静香さんが眼鏡をかけていて、一瞬、誰かと思った。コンタクトとの方がよいかもしれない。こうゆうのを”余計なお世話”というのだろうか。

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東慶寺仏像展

2011-02-20 11:33:19 | Weblog

東慶寺仏像展が始まったので、覗いてきた。境内の松ヶ岡宝蔵で開かれている。聖観音菩薩立像(重文)、水月観音半跏像(県重文)、ら五体の仏像のほか、当寺所蔵の宝物を拝観させていただいた。

まず、聖観音菩薩さまがお迎えしてくださる。案内によると、鎌倉後期の作で、寄木造り、彩色土紋置玉眼入り、とある。もと太平尼寺(西御門にあった尼寺)の本尊だったが、安房の里見氏が鎌倉乱入時に、美人の(たぶん)尼さんと共に持ち帰ったが、要山尼が本尊を取り返し、のちに東慶寺の泰平殿に安置され、現在に至たったということだ。土紋とは、ねった土を、花、葉、輪法などのひな型にいれて文様をつくり、それを漆で貼る装飾法だ。どなたかが、懐中電灯で照らしてくれたので、よくわかった。色もわずかに残っている。太平尼寺の跡地も昨日、確認してきた(汗)。来迎寺の脇にその碑はあった。

そして人気者、水月観音さま。私、この仏像さま、大好きというご婦人の声が聞こえた。水に移る月を眺める半跏のお姿で、また、お顔もうつくしい。元尼寺にふさわしい仏像である。ぼくも好きになってしまった。また、会期中に会いにこよう。仏像さまなら女房もやきもちをやかないだろう(笑)。

そして、ポスターの銅造 香薬師如来。奈良の新薬師寺に伝わってきた仏像だが、昭和18年に盗難にあった。まだみつかっていないが、幸い石膏模型が残っていたので、文芸春秋社長の佐々木成索氏が三体鋳造した。それらは、新薬師寺、東博そして佐々木氏に。佐々木氏27回忌の折り、東慶寺に寄贈されたということだ。 

加えて、観音菩薩半跏像、阿弥陀如来立像などが拝観できる。また、漱石の和辻哲郎(東慶寺にお墓がある)あての書状(まつたけを贈ってもらった礼状)、そして、原三渓、彼の庇護をうけた古径、前田 青邨(お墓がある)、漫画家の那須良輔( やはりお墓がある)らが描いた梅の花などの絵の掛け軸もみることができる。さらに、かけこみ寺に関連した資料、川柳などもある。川柳については、小冊子も買ったので、面白いのがいっぱいあるので、のちほど紹介したい。

 

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吉田秀和さんの”ああ相撲”

2011-02-19 09:09:47 | Weblog

今朝の朝日新聞の文化欄に、ぼくもフアンの音楽評論家、吉田秀和さんの随筆が載っていた。吉田さんの”音楽展望”は昭和46年3月15日の朝日新聞夕刊から始まり、月1回の連載だった。それが、平成16年4月から約2年半、休むが、18年11月1日夕刊で”モーツアルトってだれ?”で復活する。ぼくもよく覚えている。その後、少なくとも、平成20年まで年4回のペースで連載されるようになる。”中原中也の目”なんかも面白かった。その後も、同じペースなのかどうか知らないが、今日、久しぶりに”音楽展望”が、夕刊ではなく、朝刊に載り、どんなニュースよりも、いち早く読んだ。”ああ相撲/勝ち負け、すべてではない”というタイトルだ。

吉田さんの相撲好きは、平成20年、鎌倉文学館で開かれた”吉田秀和展”ではじめて知った。そのとき買った図録を本棚から取り出して、今、みている。こんな文章があった。”(吉田さんは)昭和35年、大相撲春場所で柏戸や大鵬の取り組みをみて、相撲熱が復活。勝負のポイントを一言で言い表す解説者に感心、音楽評論もこうでありたいと思ったという”

今日の随筆をみて、吉田さんの相撲好きは尋常でないことを知った。小学校に上がる前に、相撲好きの大工棟梁の相撲談議を憶えておられるのだ。”相撲は勝ち負けがすべてではない、鍛えに鍛えて艶光りする肉体同士が全力を挙げてぶつかる時、そこに生まれる何か快いもの、美しく燃えるもの、瞬時にして相手をぐいぐい・・・そういった一切を味合うのが相撲の醍醐味”

こんな文章もあった。”憎らしいほど強かった北の湖が、貴公子然とした貴ノ花(先代)の挑戦を受ける。長い攻防の末、勝ち名乗りを受けたのは貴ノ花だった。そのときの満場の歓呼、歓喜の沸騰のすさまじさ。私はTVを前に、北の湖、よく負けた、とつぶやいた”。ぼくも、怪我をしていた貴乃花対武蔵丸の優勝決定戦。よく負けてくれた武蔵丸、とつぶやいたものだ(笑)。若貴兄弟対決のときもそうだった。そのときはよく貴、負けてくれた、だった。

”今、相撲は非難の大合唱の前に立ちすくみ、存亡の淵に立つ。救いは当事者の渾身の努力と世論の支持にしかない。あなたはまだ相撲を見たいと思っていますか”と結ぶ。

相撲好きなぼくは、マスコミの異常なヒステリックな大報道に対し、怒り、普段おとなしいぼくも(汗)、目には目を、歯には歯をと、”ヒステリック”な反論をしてしまうことが何度かあった。でもいくら反論しても、せいぜいぼくのブログをみてくださる方は千人程度だし、なんの影響力もない。

吉田秀和さんは、おだやかな文章で、多くの人の心を動かす力をもっている。こういう文章をかかなければと、反省しています(汗)。

 

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宝戒寺 梅見頃

2011-02-18 18:34:45 | Weblog

立春に宝戒寺を訪れたとき、枝垂れ梅をはじめとする境内の梅は、ほぼ五分咲きぐらいだった。福寿草も咲き始めていた。今日、鎌倉市川喜多映画記念館で、高峰秀子追悼記念映画”二十四の瞳”を観たあと(さすが名画だ、すごくよかった)、近くの宝戒寺を訪れた。もう、梅が満開になっているだろうと思ったからだ。もう夕暮れ近くだったので、門を半分閉ざしていたが、ちょっと覗かせてもらった。枝垂れ梅は、咲きはじめの遅かった枝の梅花も開いていたが、いつもより、花のつきが悪く、全体的に、見栄えはもうひとつだった。でも、他の紅梅、白梅は見事に咲きそろい、十分、楽しませてくれた。それに、福寿草が、すべて出揃ったという感じで、大きなコロニーを形成していた。高峰秀子先生と大人になった教え子たちが再会する、感動的なラストシーンを思い出しながら、梅を見、福寿草を見た。境内にはもう、誰もいなかった。

 

今夜は月も見頃でした。満月!雲が多くてやっと20:20に撮れました。
ふれふれ(2020)。応援のエールです。まけないでがんばってね。

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登呂遺跡

2011-02-18 09:53:17 | Weblog

先日の静岡小旅行で登呂遺跡も見学してきた。中学生のとき、遠足で来て、その後、成人して一度、訪ねたくらいだ。久しぶりの再会だった。随分、こぎれいになった印象だった。公園になっていて、そこに、竪穴式住居、高床式倉庫、祭殿などがいくつも復元されている。そして、その端にりっぱな建物の登呂博物館がある。

博物館では様々な展示物がある。登呂遺跡発見の経緯も詳しく紹介されている。戦時中に軍事施設を建設する際、その存在が知られ、戦後、本格的に発掘調査が行われたそうだ。そのとき水田跡や前述の住居などの遺構、土器、木製品類、装身具までみつかり、弥生時代のムラであることが判明した。当時の新聞記事などの複写も展示されていて、戦後復興が始まったばかりの日本人の喜ぶ顔が目に浮かぶようだった。

当時のムラの様子がパネルで紹介されていた。家屋の向こうには広々とした水田が広がり、皆で田植えをしている。富士山もみえる、うつくしい景色である。実際、天気が良ければ、この博物館の屋上から富士山がみえるらしい。その日は、雨で残念であった。そして、当時の食事の内容も紹介されていたが、二種の焼き魚、貝のお料理、と我が家の夕食より豪華だ(汗)。これにお刺身とお酒をつけてもらえば、弥生時代に戻ってもいいです。女性は装具もつけていたらしい。うちの”昭和・平成時代”の女房なんか、肩がこるからと言って、首飾りもつけたことがない(爆)。

みんな一緒に水田や浜辺で働いて、おいしいご飯を食べて、暇があるときに”陶芸教室”で土器をつくり、”弥生カルチャー教室”で布を織り、きれいな石をみつけてきて装身具をつくり、真っ暗な夜はゆっくり休む。平均寿命も3,40歳だから、老老介護で疲れ果てることもない。現代より、きっと幸せな生活をおくっていたことだろう。

でも、稲作は環境破壊のはじまりでもあるわけだから、もしかしたら、それ以前の縄文時代、石器時代の方が、生物学的にはまっとうな生活形態であったのかもしれない。

 

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円覚寺 梅散歩

2011-02-17 18:37:33 | Weblog

円覚寺は梅の名所というほどではないが、山門や仏殿、そして塔頭の前などに密やかに咲いている風情がいい。午後の静かなひとときを過ごすのに格好の場所である。

帰りに買った週刊新潮の”白鵬が灰色に染まる/疑惑の右四つ六番勝負”を読んで、開いた口がふさがらなかった。白鵬関に対してでなく、週刊新潮に対してだ。お粗末な記事だった。六番勝負の疑惑を”匿名現役記者”が解説しているのだが、まったく話にならない”解説”だった。おいおい、お前、本当に相撲記者か、というくらい相撲を知らない素人だった。また、こんな下らない記事をトップ記事としてのせる週刊新潮も落ちたものだ。創刊55周年記念特大号が聞いてあきれる。まあ今年一番の、週刊誌”八百長でたらめ記事” になるだろう。  

言っておくが、ぼくは100%がちんこ相撲をやれなんて、ばかなことをいう輩ではない(大怪我や場合によっては命にもかかわる格闘技では不可能だし、たまには勝負に人情も入るのはやむおえないと思う)。ただ今回の記事は、まるで”検察ストーリー”のように、はじめに八百長ありき、の作文としか思えず、白鵬関に対し非常に無礼な記事になっている。即刻、謝罪すべきだ。週刊新潮の関係者は円覚寺で禅修行でもして、猛省してください。

 

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MOA美術館の所蔵名品展

2011-02-17 10:37:23 | Weblog

毎年、熱海の梅、桜見物のあと、必ずMOA美術館に寄る。梅の季節に合わせて、国宝、”紅白梅図屏風”が展示されるからだ。尾形光琳の最高傑作といわれている。二曲一双の屏風にこれ以上望めない見事な構図で紅梅、白梅を配し、そして真ん中に、光琳独特の水紋を浮かばせた川の流れ。梅の花は花弁を線描しないで文様のように置いている、”光琳梅”だ。水紋もデザイン化され現在でも着物の文様にもつかわれている。何故、こんなに詳しいかというと、今回、たまたま30分ガイドに参加したからです(汗)。でも、直感的に、以前から大好きだった。ミニチュアの屏風もぼくの部屋に飾ってある。以後、名品のかずかずを知ったかぶりして書きます(汗)。

では、名品展一室からご案内します。”国宝 手鑑「翰墨城」”。古筆三大手鑑のひとつで、奈良時代、南北朝、室町時代の古筆切が、ななななんと、311葉も。とくに、藤原行成真筆の白氏文集切が価値が高いらしい。それと和紙に波のような文様がつくのがあったが、現在でも再現できない技術だという。藤原佐里の筋切だったと思う(メモが不鮮明;汗)。菅原道真、紀貫之、小野道風ら、スターがずらり。益田鈍翁旧蔵。

樹下美人図。唐時代八世紀の作。カラホージョ古墳から出土したものと伝えられる。東博の”樹下男子図”と共に対をなすもの。戦後、オークションに出されたとき、東博が買おうとしたが、予算がなく、MOAの岡田茂吉が買い取り、海外流出を防いだ(こういうエピソードが面白いな)。唐時代の紙本絵画が現存するのは極めて珍らしいとのことだ。

これは、説明がなかったけど、ぼくにとっては、あっと驚く名品。岩佐又兵衛作”山中常盤物語絵巻”。2010年5月、”又兵衛絵巻と北斎・広重風景版画の名作”展を観にきているが、そのときは”浄瑠璃物語絵巻”で、”山中常盤”は展示されていなかった。はじめて観た現物。すばらしい。色が昨日描いたように美しい。ひとりひとりの登場人物の顔の表情が豊かだし、衣装の模様もそれぞれ違う。常盤御前が盗賊に襲われ、身ぐるみをはがされる有名な場面は開いていなかったのは残念だったが(汗)、又兵衛さんの傑作をみられて大満足。柿本人麻呂・紀貫之図も隣りにあった。又兵衛コレクションではMOAが一番だと思う。

ここには、海北友松の ”楼閣山水図屏風”、桃山時代の”洋人奏楽図屏風”など印象に残る屏風も。再会したいな。

2,3室にもすごいのが。これはいつ行ってもみられるが、野々村仁清の、国宝色絵藤花文茶壺。はじめて観たときが一番カンドーした。ぐるりとひと回り、どこからみてもバランスのとれた構図、ふくよかな形もぼく好み。何度もみているから、古女房みたいになって、おい又、きたぞという感じ。飽きないことが名品の、名品たるゆえんだろう。うちの女房は名品ではないけど、ふくよかで(メタボ)、飽きないだけが取り柄だ(爆)。義理チョコをもらったがいつも、食べないので、敵もさるもの、今年はウイスキーボンボンだった。これはすべて食べてしまった(汗)。

光悦の樵夫(きこり)蒔絵硯箱、仁清の”色絵金銀菱文重茶碗”、乾山の”色絵十二ヶ月歌絵皿”らの作品も、良かったな。そして、冒頭に述べた”紅白梅図屏風”。説明が終わったあとも、ゆっくり見せてもらった。来年も、再来年も、こうして元気で、皆の衆と再会できるといいのだが。

展覧会を見終えて、庭園の尾形光琳屋敷を見学した。京都の屋敷の図面が残っていたので、それを元に建築したものだ。日陰に前日の雪がまだ残っていた。

紅白梅図屏風

名品数々

光琳屋敷

 

 

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華やかな世界をつむぐ 鎌倉文学館

2011-02-16 08:53:49 | Weblog

まだ残雪でもあるかなと、三島由紀夫の”春の雪”の舞台(侯爵邸として)になった鎌倉文学館に出かけた。まず、庭園から見学した。今の時期には、薔薇園もすべて剪定されていて、殺風景だったが、品種名、”春の雪”の薔薇の根元にわずかばかりの雪が残っていて風情を出していた。昨日、テレビで観た、懐かしの歌謡曲、”なごり雪”なんぞを思い出したりした。♪・・ 季節外れの雪が降ってる、 東京で見る雪はこれが 最後ねと、 寂しそうに君 がつぶやく、なごり雪 も降る時を知り、 ふざけすぎた、季節の後で、 今春が来て・・♪ と、唄いながら、文学館に向かう途中、福寿草がいくつか花開いていた。今朝の散歩の大長寺の掲示板のご住職の句を思いだした。”今年こそ心地よくさけ福寿草”

文学館では、鎌倉ゆかりのシナリオ作家、劇作家の展覧会をやっていた。昨年、お亡くなりなられた井上ひさしさんの”追悼展示”と銘うってあった。一部がシナリオの世界、二部が戯曲の世界という展示構成であった。

シナリオの一番手は、小津安二郎、野田高悟コンビだ。茅ヶ崎館にこもって東京物語をはじめ、名作の数々の脚本をつくった。小津の、野田との相性のよさの言葉が面白い。酒量も、肴の好みも、宵っ張りの朝寝坊であることもぴったりで誠に具合が良い。(ぼくも酒飲みだからよくわかる)。でもぼくは早起きだから、小津さんとは合わないかもしれない(爆)。”秋日和”の創作ノートなどが展示されていた。野田高悟は浄明寺(地名)に住んでいたらしい。原節子さんと同じだ。松竹大船撮影所コーナーもあり、そこには、小津の愛用した、白いピケ帽、赤いロケ用三脚(カニと呼ばれた)、そして”彼岸花”で使用した、赤いやかんと湯呑(自分でも使っていたものらしい、赤が好きなのだ)なども展示されていた。

倉田文人のコーナーで、ちょっと懐かしい映画が出てきた。”ノンちゃん雲に乗る”だ。鰐淵晴子が出演している。彼女はぼくと同年輩の子役スターで、人気者だった。東横線の新丸子に住んでいて、ぼくのいとこがすぐ近くだったのでよく見かけたと言っているのを聞いて、うらやましく思ったものだった(汗)。あれ、と思ったのは、少年時代には全く、気付かなかったが、この映画に原節子が出演していたことだった。

第二部の主役は井上ひさしだ。劇団こまつ座の季刊誌”the 座”が展示されていた。創刊号は”頭痛肩こり樋口一葉”で紀伊国屋ホール初演のものだった。その7号は”泣き虫、なまいき石川啄木”。そのほか、花よりタンゴ(爆)、人間合格(爆)、国語元年、日本人のへそ(井上ひさし追悼公演の最後を飾り、この3月、渋谷のBUNKAMURA シアターコクーンで開催の予定で、浅草ストリップの華、ヘレン天津一代記です、観にいこうかなと思っています)。有名な言葉、”むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに、書くこと”の色紙も展示されていた。

大船フラワーセンターの近くにお住まいだった、北条秀司は、”北条政子”の台本や源氏物語の”浮舟”の長谷川一夫と京マチ子のポスターなどが展示されていた。久坂栄二郎は”わが青春に悔いなし”。映画化もされ、黒澤明監督で原節子主演、木下恵介監督では杉村春子主演だった。戦後の鎌倉アカデミア(大学校)の紹介もあった。その他、ぼくには知らない劇作家の方々(最後のちらしの写真でみてください)の展示品も興味深くみさせてもらった。

常設展(ときどき展示替えする)では、その鎌倉アカデミアで学んだ山口瞳の書があった。漱石の”こころ”の一節だ、そして、虚子の子、星野立子の俳句の色紙も、あらたに展示されていた。心に残ったので紹介しておきます。

・・・

漱石こころ/山口瞳 写

私は淋しい人間ですが
ことによると
貴方も淋しい人間では
ないですか 

星野立子 句

雛(ひな)かざりつつふと命惜しきかな 
桜貝拾ひし時がただ楽し 
うぐいすに包まれ過ぎし日もありし 

 

 

 

 

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