気ままに

大船での気ままな生活日誌

原節子の智恵子抄

2014-01-09 09:57:22 | Weblog
鎌倉市立川喜多映画記念館で原節子主演の”智恵子抄”を観てきた。こんなにも、うつくしい夫婦愛があるものだろうかと、胸をうたれた。見終えて、この映画の原作となっている、高村光太郎の同名の詩集をみたくなり、その足で鎌倉中央図書館に向かい、文庫本を借りてきた。

この詩集は光太郎が彼女と出会い、そして亡くなり、その後の回想まで、約30年(結婚期間は24年間)にわたって書かれたものである。彼女に関する、詩が29篇、短歌6首、”智恵子の半生”を含む散文が3編、収められている。一通り読んでみて、脚本はほぼ忠実にこの内容をなぞっていることが分かった。

智恵子は福島県二本松の造り酒屋に生まれ、若い時は画家志望だった。雷鳥の思想にも共感し、雑誌”青鞜”の創刊号以来、しばらく、その表紙絵を彼女が描いていた。知り合いに紹介され、光太郎と結婚することになるが、芸術家同志ということもあり、お互いの仕事に熱中し、一日、食事もしないこともあったようだ。セザンヌが好きだったようで、大分、作品が溜まった頃、自信作を官展に出品する。しかし落選。それ以来、絵画を止めてしまう。その後、草木染めと機織りに夢中になる。そして、精神の変調をきたし、徐々に進行するのだ。

あの有名な詩の場面が出てくる。智恵子は東京に空がないと言ふ/ほんとの空が見たいと言ふ/私は驚いて空を見る/桜若葉の間に在るのは、切つても切れない、むかしなじみのきれいな空だ/どんよりけむる地平のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ/智恵子は遠くを見ながら言ふ/阿多多羅山の上に毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ/あどけない空の話である

転地療養のため九十九里の親類の家に預けられるようになる。光太郎は、毎週一度、ここに通い、彼女と会う。彼女は浜の千鳥と仲良くなっている。”千鳥と遊ぶ智恵子”の詩の場面が現れる。人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の砂にすわって智恵子は遊ぶ/無数の友だちが智恵子の名を呼ぶ。ちいちいちいちいちい/砂に小さな脚あとをつけて/千鳥が智恵子に寄ってくる/口の中でいつでも何か言っている智恵子が両手をあげてよびかえす/ちいちいちい/両手の貝を千鳥がねだる/智恵子はそれをばらばら投げる/群れ立つ千鳥が智恵子を呼ぶ・・・

智恵子の病状が進み、精神病院に入院するようになる。ほかの人の識別はできなくなっていたが、光太郎だけはわかっていたようだ。見舞いにくる彼に、病室でつくった千代紙の切り絵をみせる。光太郎が褒めると、本当にうれしそうな顔をする。光太郎は散文の中で、この切り絵は彼女の豊かな詩であり、生活記録であり、この処に実に健康に生きている、と述べている。

この病院で最後を迎えることになるが、駆け付けた光太郎が彼女の好きなレモンを渡すと、かるく噛んで、目を開け、微かに笑い、涙を浮かべる。正気に戻ったようだった。そして、静かにこの世を去った。

レモン哀歌 そんなにもあなたはレモンをまってゐた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとつた一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ/トパアズいろの香気が立つ/その数滴の天のものなるレモンの汁は/ぱっとあなたの意識を正常にした/あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ/わたしの手を握るあなたの力の健康さよ/あなたの咽喉に嵐はあるが/かういふ命の瀬戸ぎはに/智恵子はもとの智恵子となり/生涯の愛を一瞬にかたむけた/それから一時/昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして/あなたの機関はそれなり止まつた/写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう

純真な子供のようになった智恵子を原節子が好演。こうゆう原節子を初めてみた。役作りが大変だったと思う。昨年、岩下志麻さんのトークショーのとき、極妻のときは家に帰っても、姐さんの気分が抜けないのよ、と語っていた。志麻さんも、この映画の10年後に智恵子を演じているので、そのときはどうだったのか聞いてみたかった(笑)。

高村光太郎は山村聡、監督は、原節子の義兄、熊谷久虎。1957年。
次回の原節子映画は、時代物の”ふんどし医者”。(志麻さんのような)博打好きの女房を演じる。これも、また珍しい原節子がみられそうだ。



高村智恵子の作品 (高村光太郎/智恵子抄/新潮文庫より)






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